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ロボットとは何者か

 秋月 忍さんの「ネタの細道」の「昭和ロボットアニメ」に触発されて。ちょっと、ロボットとはなんなのかを考えてみます。科学よりも創作寄りの話です。


 某wiki百科事典あたりを見れば済む話じゃないかという意見もあるかと思いますが。最初のあたりがあさっての方向の記述になっているので、こちらなりに書いてみます。


 まず基本的なロボットの定義ですが、2つあります:

1. 人間あるいはその他の動物の、体の動きや働きの一部あるいは全部を模し

たもの

2. 人間が行くのには困難がともなう環境(極限環境)において、おおむね人間

の代わりになにかをするもの


 ここで気付くと思いますが、「自律的に判断し、行動する」か、「リモート・コントロール」かは、この段階では関係ありません。だいたい、なにをもって「自律的に判断し、行動する」と言えるかどうかの基準も曖昧です。工場で働いている産業用ロボット、とくにアームのみを持つものを考えてみましょう。そんなロボットであっても、アームの先の位置合わせの機能は必要です(大昔は決めうちで動いていましたが)。位置合わせのためにカメラが着いており、その映像を見て、アームの先を適切な位置に動かします。おおむね位置の微妙なズレを補正するくらいですが。これは「自律的に判断し、行動する」の範疇に入るでしょうか。

 また「人間の代わりに働く」というものも、すくなくとも1.においては含んでいません。というのも、結構古い時代から、なにかをするために作られたものではないロボットが存在するからです。いわゆるオートマタなどです。人を楽しませたり驚かせたりするという側面はあるかもしれませんが、人間の代わりに働くということからは遠いでしょう。


 さて、1. を広くとらえることによって、やっと「人間の代わりに作業するもの」という解釈も出て来ます。なんでこれを上の方に書かなかったかというと、どういう状況をそういうものとしてとらえるかが面倒だからです。郵便局での郵便の仕分けはずいぶん昔から基本的には自動化されています。あるいは現在であれば宅配会社や大手通販サイトの倉庫や配送センターも、似たようなものを使っています。これらは、郵便番号やバーコードを読んだり、配送先や中継点に向けての仕分けをするというあたりでは人間の体、あるいは働きの一部を模していますが、全体としては「倉庫全体として人間の代わりに作業をする」ようなものです。某大手通販サイトでは人間が商品のピックアップをしているらしいですが、皮肉と言えば皮肉とも言えるかもしれません。それはともかく、では、倉庫を指差して、「これはロボットだ」と言った場合、人がうなずくかどうかは微妙だと思います。

 それはそれとして、さらに「自律的に判断し、行動する」を合わせると、いわゆる人間サイズの人型ロボットが含まれることになります。語源的にはともかく、人間サイズの人型ロボットというのは、ロボットという概念においては広くはない一部を占めるのみです。産業的には、おおむねなくてもかまわないものです。これが重要なのは、ロボットそのものについての検討においてではなく、人間を知るという視点においてです。現実において、工学を中心とした問題だけではなく、人間とはなんなのかという哲学上の問題においても、その存在は大きなものであり続けています。

 というわけで、人間サイズの自律的に判断し行動する人型ロボットの現状での存在意義は、主に哲学の問題においてです。それを中心に、数理的な問題や工学的な問題があります。ですから、そこを問題にしないのであれば、人間サイズの自律的に判断し行動する人型ロボットは存在意義を持ちません。創作においては、そういう問題を扱う場合を除き、人間サイズの自律的に判断し行動する人型ロボットを出す理由は存在しません。

 実際の創作を眺めてみると、プロの作品も含めて、数十年前に書かれたことをまた持ち出しているだけという例が多いように思います。これは結局、人々の想像力が技術の発達とともにやっと数十年前の作品に追い付いたからかもしれません。


 では、先の2. はどうでしょうか。極限環境ロボットが実際に存在します。極限環境と一言で言っても幅広く、深海や火山の火口、高高度の空、そして宇宙(これまた宇宙と一言で済ますのはおおざっぱすぎる、多様な環境があります)などがあります。あるいは、普通に言う極限環境ではなくとも、感染力が強い病気の患者に接っするアームなどなども、極限環境ロボットの一種ととらえていいかもしれません。

 こちらの場合、人間やほかの動物の体の動きを模している必要はありません。アームやカメラの類が必要な場合がほとんどではあるでしょう。極限環境に行ったのに、なんのデータも持ち帰れない、あるいは送信できないのでは意味がありませんから。

 極限環境の場合、なんで極限環境ロボットを使うかというと、その理由は簡単です。人間を載せて行くのには最低でも余計なコストがかかります。さらに、そのコストと関係しますが、行動に制約がかかります。そのコストと制約から開放されるために、基本的には無人機になります。

 ここでちょっとおかしなことを考えてみましょう。人間サイズの自律的に判断し行動する人型ロボットを極限環境ロボットに載せるというものです。全体として極限環境に対応できますし、人型ロボットの自律性を信頼できるなら、それは人間が載っているのと同じと言えるでしょう。しかも人間を載せるためのコストは不要か、すくなくとも押えられます。ですが、おわかりのとおり、これはおまぬけな状況です。というのも、その人型ロボットの自律性を、極限環境ロボットに持たせればいいだけの話なのですから。

 さて、戦場というのは人類史において馴染の状況や環境ではありますが、生死がかかるという面では極限環境とも考えられます。現在、人間サイズの自律的に判断し行動する人型ロボットの投入、外骨格など人間の体を強化するかたちでのロボットの投入、そしてその他のロボットの投入が現実になり、あるいは現実味を帯びてきました。この状況でいまだに人間が主役である理由はなんでしょうか。それは人間なみの自律性を持ったものが、まだ存在していないからです。戦場を極限環境ととらえるなら、基本的にそこからは人間はいなくなるでしょう。というわけで考えると、人間が乗り込むタイプの、しかも戦闘用ロボットは、その想定自体に矛盾を抱えています。そういうタイプのロボットが存在しえるのは、過渡期と言えるだろう現在から近未来に限定されます。

 では、創作においてそういうタイプのロボットを出す理由はなにかあるでしょうか。そこには、創作において人間サイズの自律的に判断し行動する人型ロボットを出す理由のようなものは存在しません。結局のところ、現在においてのわかりやすさのために、戦闘機や戦車などの代わりに、あるいはそれらと共に出すというだけです。ですが、まぁまだ地上なら、他の極限環境とは違い、周囲の自然環境そのものは極限環境ではない場合が多いでしょう。火力と機動力を増すためというような理由は、まだ成り立つかもしれません。ですが、あくまで過渡期においてはであり、それを出したところでどういう問題を提起することもありませんが。

 これが宇宙という極限環境だとどうでしょうか。そんなところで人間がロボットに載って、しかも戦闘をするとなると、アレの極地です。これはまた、私の「創作雑感 Revised 1」(http://book1.adouzi.eu.org/n7616dm/)の「4−3: 設定・考証(世界の構築)」で触れた「アンバランス」にも関係するかと思います。過渡期は過ぎているだろうし、仮に過ぎていないとしてもその方法を取るだろうかという疑問があります。

 なお、充分に自律的である極限環境ロボットの場合であれば、創作において、人間サイズの自律的に判断し行動する人型ロボットの場合と同じ、ただし環境が人間が暮らす環境とは大きく異なるという場合での存在意義はあるでしょう。たとえば、充分に自律的である深海探査ロボットはなにを考えるでしょうか。


 ところで、先の1.ではありますが、人間が乗り込むタイプのロボットも存在し始めています。最終的にどういう形態に落ち着くかはわかりませんが、おそらくはパワーローダーの形態に落ち着くだろうと思います。現在、外骨格のものの介護や重い物を持ち上げる必要がある現場への導入が期待されています。これの、外骨格という小型のものから、重機を持ち出すまでもない範囲、あるいは小型の重機の範囲までのものが実用になるのではないかと思います。

 なぜ重機という基準を出したのかを疑問に思われるかもしれません。ここは単純に考えてみましょう。ユンボが地面を掘るというのは、現在も普通にある状況です。ではこれを、大型ツルハシと大型ショベル、大型のネコ(手押し車)を持ったパワーローダーに置き換えてみましょう。特定の状況ではそういうこともあるかもしれませんが、単純になにか間抜けです。

 極限環境でロボットに乗り込むというのも、この範囲ではあるのだろうと思います。もしかしたら、日常でもパワーローダーに乗り込み、あるいはそれを着ての喧嘩はありえるかもしれません。それが一般的になれば、某マンガ・アニメに似た状況も出てくるかもしれません。ですが、創作という観点からすれば、その某マンガ・アニメで描かれてしまっていますから、別の視点が必要ではあるでしょう。


 そういうわけで考えてみると、創作においてロボットを出す理由として成立するのは、人間について考える場合と、それに含まれるかもしれませんが社会について考える場合のいずれかしかありません。ロボットとは、その名称そのものの語源はともかく、その名称が現われた当初から人間についての問いであり続けています。なお、ここで勘違いしてほしくないのですが、ロボットを持ち出して、かつ宇宙人などを描く場合もあるかもしれません。ではその場合、扱かっているのは宇宙人や、宇宙人の社会でしょうか。「そうだ」という答えもあるでしょう。ですが、ではなぜそうなのかを考えてみてほしいと思います。結局は人間を問題にしているのです。それ以外の理由で現われる場合は、ただの舞台装置であるという認識が必要でしょう。ただの舞台装置ですから、たとえば装備としての機器であるとか、小型であれ大型であれゴーレムなどと置き換え可能であるという認識は必要ではないかと思います。

 「ゴーレムであれば、ジャンルとしてSFではない」という声もあるかもしれません。実際そのとおりで、そういうロボットであれば、それが出た時点でSFではありません。そういうロボットでなければならない理由が存在しないのですから、別のものに置き換えてかまわないわけです。ですから、そういう創作物をSFと称する、あるいはSFの一部であると言う理由も存在しません。


 最後に、これまで触れていなかった場合を一つ挙げましょう。あえて言えば、2.に含まれるのかもしれません。それはマイクロ・ロボットやナノマシン、あるいは分子機械という小型から顕微鏡レベルのものです。このあたりも、すでに創作として書かれています。ですが、このサイズはまだ書く余地が結構残っているように思います。


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