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第62話 視線

 旅館の客間で布団をどこに敷くのかで一悶着があった。


 話し合いの結果としては、布団と布団は離し、間には荷物も置いておく、ということで決着した。


 俺が布団の位置を話し合った通りに直したところで、両手に腰を当てて立つ守山さんがつぶやく。


「布団のことはこれでいいとして……せっかく温泉地に来たんだし、もう入っちゃおうか」


「それもいいと思う、けど。実は考えてきたことがあって」


 布団を直すべくしゃがんだ体勢のまま、俺は話す。


 が、どうにもはっきりと言い出せない。

 自信なんてあるわけないし、守山さんに任せておいたほうがいいのかもしれないという迷いもある。


 けれど、変わらなければならない、変わりたいという気持ちに、後押しされた。


「今回の旅行は予定を特に決めずのんびり、ってのをやめにするわけじゃなくて。ただ、近くの観光スポットやご飯屋に行くのは、どうかなー、と」


 きょとん、とした守山さんの顔をまともに見ていられない。


「いや、守山さんのやりたいこと否定したいわけじゃなくて、だから」


「いいよ」


「俺の言ったことなんて忘れてくれていいんだ、変なこと言ったなごめん」


「だから、いいってば。考えてくれたことなんでしょ?」


「いい、のか?」


「さっきからずっとそう言ってるんだけど」


 あのね、と守山さんは布団に膝をつく形で目の前まで寄ってくる。


「私のこと大事にしてくれるのはうれしい。すごくうれしい。けど、私だって徹くんがうれしかったり喜んだりしてくれるの、すごくうれしいんだから。徹くんのやりたいようにやっていいんだよ」


 泣くから。

 温泉まで来て泣きそうになるんでそういうの。


「で、具体的にはどこ行く? 私も下調べくらいはしてるけど、徹くんはどこに?」


「えーと、あー、うん。電車がちょっと遅れたから予定からはずれたけど、やっぱ滝に行ってみるのはどうかな、と」


「ああ、この辺だと有名な、神庭の滝」


「夏とかもいいんだろうけど、冬にしか見られないものもあるらしいし」


「ちょっと歩くから、確かに一番目に行くのがよさそうだね。じゃ、さっそく行こうか」


 拍子抜けするほどあっさりと、話はまとまった。

 今となってみれば何を怖がっていたのかわからないほど、スムーズだ。


 滝に行くため、寝室から居間を経由し、部屋の玄関に向かう直前のことだった。


 廊下と玄関を隔てる引き戸が、ほんの五センチほど開いていた。

 そのすき間からには人影が見えており、――ぞっとする。


 まるでこっそりと部屋の中を覗いているかのようだった。

 誰が、何のために?


「守山さん、ここにいてくれ。あとスマホを持ってるように」


「スマホなら持ってるけど、何?」


 先ほどまで見えていた人影は、すでに戸の前から消えてしまっていた。

 靴下のまま廊下へ飛び出すが、やはり誰もいなかった。


 純白に染め上げられた中庭が、目の前にあるばかりだ。

 ならば廊下のほうを走って逃げたのかといえば、


「お客様? どうかされましたか?」


 曲がり角から、仲居さんが不思議そうな顔を出す。


 走ってUターンしてきたにしては、動きがそれっぽくない。呼吸も乱れていない。そもそも服の色合いが違う。曇りで少しだけ暗かったが、不審な彼もしくは彼女は、もっと黒っぽい濃い色の服を着ていた。


 割り当てられた部屋は、廊下の突き当たり。

 そこを出た正面には中庭があるけれど、普通に行き来するなら、仲居さんが来た方向からしかありえない。


「あの、すみません。今、怪しい人とすれ違いませんでしたか」


「いえ、お客様方以外に、こちらには誰も来ていないはずですか」


「そう、ですか」


 残る可能性は、中庭を走り抜けた、というくらいだ。


 しかしこれも、ありえない。

 中庭には雪がいまもしんしんと降り積もっている。

 そして足跡など、どこにも見当たらなかった。


 これはまるで、


「密室殺人?」


「ひぇっ!? 誰か殺されたと!?」


「あ、いえ、状況がそれっぽいなと」


「お、驚かせないでください……」


「すみません。ただ、今さっき、怪しい人影が廊下にいたみたいで」


 唯一ありえそうな廊下を走って逃げた可能性も、仲居さんによって否定された。

 犯人、もとい不審人物は、どうやってここを逃げることができたんだろう。


「猿を見間違えられたのでは? まれに猿もここまで降りてきたりしますから」


「猿……」


 仲居さんの推測は、確かに理解できるものだった。

 理解は、だが。

 納得は、しかねた。


「徹くん、どうしたの?」


 部屋の中から、守山さんが出てきてすぐそばまで来ていた。


「ああ、いや、誰か、廊下から覗いていた気がして」


「そうなの?」


「猿じゃないかって。仲居さんも特に怪しい人を見てないっていうし」


「じゃあ、戸締りはしっかりしておかないとだね」


 猿が忍び込んで荒らす、なんてことも考えられる。

 改めて、鍵を閉めたことを確認する守山さんを尻目に、俺は仲居さんから話を聞く。


「猿が、そんなに出るんですか?」


「一月に一度、出るか出ないか、なんですけどね。このあたりでは山の管理もまだしっかりしてますし、それに猿も人が近づいたらすぐ逃げますから、さほど心配はいりませんよ」


 さすがに観光地の情報をネットで調べただけでは、こんな話はわからない。


 教えてもらったお礼を言って、俺と守山さんは旅館を出るべく仲居さんとすれ違う。


「突然部屋から出ていくからびっくりしちゃった」


「ごめん。けど、誰か、廊下から覗いてたみたいだから」


「まさか猿だなんてね」


「猿、だったのかなあ」


 後ろを振り返って、人影の高さがどれくらいだったか確かめる。


「俺の身長くらいある猿って、日本にいると思う?」


「さすがにそれは怖すぎるよ。ニホンザルなら、腰くらいの身長でしょ?」


「じゃあやっぱり、人、だった?」


 しかしそれでは、他のことに説明がつかなくなってしまう。

 人だったというなら、どうやって廊下から消えたのか。

 中庭も廊下も、逃げられたはずがなかった。


「高さを勘違いしたとか、それか、ほら、柱のとこにぶら下がってたとか」


 確かに壁には補強として、横に走る木の柱があった。

 壁から三センチほど出っ張っていて、人でもぶら下がることはできる。

 猿ならもっと簡単だ。


 高いところにぶら下がっていた猿を見て、人くらいの身長があると勘違い。

 それに猿なら雪に跡を残さず、屋根に軽々上ってしまえるはず。

 ようやく、説明がついた。

 


「なるほどなあ。守山さんはさすが頭回るな」


 旅館の玄関では、すでに靴が並べてあった。

 どういう理屈なのかは俺にはわからないけれど、気配りが行き届いていた。


 靴を履き、小雪が舞う外へと出る俺と守山さん。


「いえいえ。ありえないようなものでも可能性だけ突き詰めれば、こんなものです」


 はじめから、守山さんが正しかったのだ。

 いまだに俺が納得しきれていないのも、頭が悪いせいだと思う。


 どうしてもあれが猿でなく、人だったように思えるのだ。

 見たのはごく短い間だったし、記憶もどんどんあいまいになっていく。

 それでも、人だった、という確信が、なかなか揺らがないのだから始末が悪い。


「どうしたの? まだ何かひっかかる?」


「ああ、いや」


 俺の勘違い、思い込みのほうが、可能性がずっと高いのだ。

 余計なことを言い出して、守山さんを怖がらせたくない。


「人じゃなくて本当によかった、と思って。猿ならまだ、なんとかなる……はず」


「なんとかって?」


 神庭の滝までの道すがら、話を続ける。


「守山さん、俺が頼りにならないと思ってるだろ」


「そんなことないよ」


「確かに、俺は猿にも簡単に負けると思う」


「そ、そんなことないんじゃない?」


「守山さんの安全に関わることだからな。見栄は張らない」


「うれしいの半分、悲しいの半分だよ」


 俺だって守山さんを見事守ってみせると言い張りたい。

 そしてできればほっとしてほしいし喜んでほしいし熱い視線が向けられたい。

 けれど現実ってやつが、俺にどれだけ過酷なのかは知り尽くしている。

 痛みを当然として受け入れるのをやめても、能力が人より劣るのは直視する。


「けど守山さん、任せてくれ」


「ムチャしないでね?」


「囮と時間稼ぎならヨユーだ」


「ムチャしないでって言ったんですけれど?」


「後から追いつくから。たぶん」


「それ確か、死亡フラグってやつじゃないかなあ」


 同時に、人生で言ってみたいセリフってやつでもあるのだった。


「動物に嫌われやすいからな。遠足で行った動物園でも、猿に威嚇されまくったから間違いない。猿が現れればまず間違いなく俺を狙う。俺、イズ、猿まっしぐら」


「あのね、徹くん」


 歩きながら前に回りこんで、守山さんは俺の鼻先をつつく。


「まず自分を大切に。いい?」


「守山さんが大切なだけなつもりなんだけど」


「ぐ、言い返しづらいというか、たくないことを。でもダメです。徹くんも安全、そんな方法を取ること。いい?」


 これには、俺もイエスとは言えなかった。

 そんなこと、決して保証できないからだ。

 自分を犠牲にしても守山さんのためにできることは限られる。そのできること、だっていまいち効果が高いかどうか。

 そこでさらに、犠牲作戦が封じられたら、さらにできることが狭まる。


「うなずきたいけど、うなずけない。俺は絶対、守山さんを優先するから」


 守山さんは、口を開き、けれど、何も言葉を発さなかった。

 ただ黙って、正面から、ゆるく俺の背中に手を回して抱きついてくる。


 どういうつもりだったのか。それははっきりしない。

 けれど、俺の胸の奥には、鈍い痛みが生じたのだった。

 甘いといってもいい痛みと、温もりとやわらかさを感じていた。


 そこへ、


「この寒いのにアツいねえ」


 通りの飲食店のオバさんが窓口で、聞こえよがしの独り言をもらした。


 人が少ないとはいえ往来で、堂々と抱き合うカップル。

 見る人の感想は、ひとつのものへと絞られていくだろう。


「い、行こうか、徹くん」


「そうだな守山さん」


 足を早めて、目的地の滝を目指す。


 そのせいで俺がまた滑って転ぶはめになったのは、ある意味、当然のこと。


 この時、何かよくないものが『つ』いてきている、などとまるで考えるはずもなかった。



次回更新は未定です。

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