第61話 到着、客間にて
白かった。
ただひたすらに白かった。
自然の偉大さというやつは人の造った建物をすべて覆い隠すかのごとく、色を奪って、白く染め上げる。
雪によって、目的地である温泉通りは、まさしく白銀の世界となっていた。
ちらつく雪を手のひらで受け止めると、より一層冷たさを感じる。
「さすがに寒いね」
白い息をはきながら、守山さんも困り笑いだ。
「早く旅館に行ってあったまりたい」
というのが、俺の正直な感想だった。
幸いにして、雪の中を行軍するというほどのこともなく、駅からは三百メートルほどの道のりだった。
途中、道を踏み外したり凍結部分に足を滑らせたりしたのはまあいつものこと。
尻と手が地味に痛い。
そうしてたどり着いた旅館は、小奇麗で小ぢんまりとしたところだった。
温泉観光地とはいっても、辺境といっていい場所にあるだけ、大きな建物も構えていられない、ということだと思う。
暖房の効いた玄関に入ってすぐ、四十歳前後らしい仲居さんに出迎えられた。
「ようこそおいでくださいました。お連れ様はすでにお待ちですよ」
「お連れ、様?」
何のことかわからず、守山さんの顔を見ることで問いかける。
どうも守山さんのほうもわからないらしく、目を瞬かせていた。
「あら、いえ、私の勘違いだったようでございます。申し訳ありません」
小さい旅館とはいえ、小さいからこそ、他に客もいる。
もしかすると年の近い――高校生くらいの年齢の人が来てるのかもしれない。
仲居さんの勘違いは流して、今日泊まる部屋まで案内を受ける。
部屋に着くまでに、主に守山さんが館内の利用方法について聞いていた。俺が聞いていても五秒で忘れる。
「では、ごゆっくり」
襖を丁寧に閉めて、仲居さんはまた別の仕事に戻っていく。
とりあえず荷物を降ろして、一息つくことにした。
「緑茶でいいよね?」
「ん、あ、ありがとう」
座椅子に腰を下ろした俺に対して、守山さんはお茶を淹れようとしてくれていた。
手伝おうかと迷ったものの、邪魔にしかならないのが目に見える。
「はい、どうぞ」
迷っている短い時間で、守山さんは俺の前にお茶を出してくれた。
「ありがとう、そして何もできなくてごめんなさい……」
「お茶ひとつでおおげさだって。冷めない内に飲んで、ね?」
「――いただきます」
一口すすり、飲み込む。
うめえ。
芯から冷えていた五臓六腑にしみわたるようだ。
「毎日このお茶が飲みたい」
「それは味噌汁と同じように考えていい?」
「お茶と味噌汁は違う……はず?」
同じ飲むものではあるんだけど、葉っぱと大豆では大きな違いがある。
理解が追いつかず、考えること少し。
「あ、そういうこと!?」
「どういうこと?」
笑顔で聞いてくる守山さんは、少し意地が悪い。
毎日あなたの味噌汁が飲みたい、なんてセリフは、つまりプロポーズだ。
「今時そういう言い回しもないっていうか、マンガでしか見ないというか」
まったくぜんぜん、意識の外にあった。
純粋にお茶がおいしい、という喜びを表したかっただけなのだ。
「そういう言い回しも素敵だと思うよ、奥ゆかしくて。――式はどこで挙げる?」
「挙げるなら小さい教会で――んん?」
「そっかそっか、じゃあ海外の、きれいな海の見えるところにしようね」
背中に、うすら寒い何かが流れるのを感じた。
「今、俺、何の話してた?」
「私との結婚式の場所選びの話」
「いやいやいやいやいや待って待って待って」
優しい、慈しむような眼差しをしていた守山さんの顔に、かげりが生まれた。
「嫌?」
「嫌、じゃないんですけども。むしろしたいですけども」
そういうことでなくて、うまく口で説明するのが難しい。
うまいこと説明することのほうが少ないってのはともかく。
怖気づいた、というのが一番近いはずだ。
こうして守山さんと付き合っているとはいえ、結婚までは想像できなかった。
「そっか、よかった」
「よくは、ないと思うけど」
結婚したい、とはっきり言えたらよかったのだ。
「今はその気持ちだけで十分。ただ、私に嫌なところあったら絶対言ってね」
「そんなのないし、守山さんの考える欠点なんてのはきっとただのチャームポイントであって」
「うわあ、ずるい」
「なな何が」
「私ばっかり、徹くんにどきどきさせられてない?」
「ついさっき俺のほうこそめちゃくちゃびっくりさせられた件について」
結婚の話が飛び出して本当に驚いてしまった。
このまま付き合っていれば、そういうことはきっとある。
ただ、どこかで考えることができてこなかった。
結婚なんていうのはきっと、幸せに満ちたことで、自分とは無縁だ。
そんな考えがずっとはびこっていたのかもしれない。
――静かだった。
雪というのは音を吸収するらしいし、この三十センチは積もっている。小さな旅館で、他に泊まっている客も十人いるかどうか。
静か、だからこそ、考えが、特によくない考えが、加速する。
俺は守山さんと、付き合っていていいのか。
守山さんの優しさに甘えてるだけなんじゃないか。
まだ捨てきれないそんな考えを断ち切るため、俺は座椅子から立ち上がる。
そして、部屋の様子を確かめた。
入り口からすぐにあるのが、今いる居間であり、正面奥には縁側と、さらに奥に、客室付の露天風呂が臨めた。
「温泉、入る?」
露天風呂を眺める俺に、そう守山さんが提案してくれた。
「冷えたろうし、この雪だし、ちょうどいいよね」
「いや、湯冷めするかもだし、どこか見に行きたいんだけど、いいかな」
「もちろん」
近くには観光スポットもあったし、まだ昼食まで時間もある。
鞄から財布とスマホを取り出すため、縁側から居間に戻る。
その途中、左手側の閉じられた襖が気になった。
「こっちは……?」
襖に手をかけて、ゆっくりと開ける。
するとそちらは寝室だったらしく、二組の布団が並べられていた。
ぴっちりと、隙間なく、くっつけられて、並べてあった。
膝からあっという間に力が抜けていく。
「徹くん!? 大丈夫?」
ショックでうずくまっている場合じゃない。
足に力を入れ、この状況を打開する必要があった。
守山さんにこれが見られる前に、すぐにでも。
「あっ……」
けれど、遅かった。
俺の様子を不思議に思っただろう守山さんが、小さく声を上げる。
「あー、うん、そうだよね」
「今すぐ片付けますんで、はい!」
「布団ひとつだけにするの?」
「当たり前じゃないか!」
さっさと引き離して、ひとつだけにしないといけない。
「まさか昼から一緒に寝たいなんて言われるなんて、これが温泉旅行効果……」
「はい?」
「大丈夫、覚悟は、済ませてきたから」
「何の!? いややっぱ言わなくていい!」
頭の中がぐるんぐるんするみたいだった。
えーとえーと、どうすればいいのか。
「とにかく! これを!」
布団の片方を、もう片方から引き離す。
一メートル、二メートル、まだ足りない。
部屋の端でもまだダメだ。
縁側に出て、襖も閉めて、ガラス戸越しに露天風呂が見える位置にまで自分の布団を持ってくる。
「これでよし」
「よくありません。何やってるの、徹くん」
案の定というか、十分くらい叱られてしまった。
これはこれでよし。




