前日譚 入学式
高校一年の春。
それすなわち、サクラサク。
新しい制服に袖を通し、いま、二百八十七名の生徒が、八陣高等学校に入学する。
新入生たちは不安ながらも期待に胸をわくわくさせて、校門をくぐる。
いま、俺こと遠野徹のまた、輝かしい高校生活を――、
「うぼえええええええええええ」
始められそうになかった。
吐きそうというか、いままさにトイレで吐いていた。
ムリ。
学校まで来る時点でもう精魂尽き果てた感じ。
必死に勉強がんばってめぐむと同じ八陣高校に入ったはいいけど、ほんとに中学時代から心機一転できるの? いやむしろできない。同じ中学からこの八陣に進学したやつは、いないわけじゃない。
高校デビューしようにも、中学時代のことはなくならない。
「とおるー? まーだ吐いてんのー?」
トイレで吐いていた俺に、廊下からめぐむの声がかかる。
「俺を、置いて、先に、オエエエエエエエエ」
「はいはい、あんたはがんばったがんばった。保健室ででも休んでなさい、入学式終わったら迎えに行くから」
じゃねー、とめぐむが立ち去るのがわかる。
その冷たさ、嫌いじゃないというかありがたい。
めぐむに迷惑かけたくないし、いやすでにかけまくってるんだけど。
今から教室に行って、入学式に参加するのか。
考えただけで、胃液がせり上がってくる。
あ、これムリだ。
よし、保健室に行って休もう。
まさかの入学式に保健室行きとは俺もびっくりだった。
高校生になろうと、人は急には変われないというやつだ。
意を決してトイレの外に出ると、同じタイミングで女子トイレから女子が出てきた。
おっ、と思って姿を確認すると、目を釘付けにされた。
黒髪ロングの清楚系美少女が、やや疲れた顔で、こちらを見ていた。
あろうことか、話しかけてきた。
これが高校の魔力というやつか。
高校になると途端に男女間の距離が縮まりやすくなるという都市伝説は本当だったのか。
「あなたも、入学式を目前にして緊張してる、ってところなのかな?」
春風のごとく、その美少女は俺に微笑みかけてきて、
「同じ、だね」
「同じなわけないだろ」
即否定した。
なにいってんだこの美少女、目をぱちくりさせて、その反応もかわいい。
「いいか、俺ときみの間には三つの大きな違いがある。まずきみ、すごくかわいいだろ」
「そ、そんなことないですけど」
「あるんだよ!」
「は、はい!」
「しかも俺みたいなのに話しかけるコミュ力があるだろ」
「や、それは、何ていうか、お仲間だ、と思えたからで」
「俺ときみが仲間なわけないだろトイレの鏡で早く自分の美少女ぶりを確認してくるんだ。それとも俺が美少女に見えてるのか? 人間にすら見えないだろ?」
「さすがに人間には見えてるよ……?」
「美少女には見えないってことだな」
「すごく頭の悪い理屈で結論してない?」
「頭のデキも違うし、声も聞いてて気分が安らぐし、俺と会話しつづけられるほど忍耐強いし優しいし、……三つ?」
「うん、三つじゃなく七つくらい違いを言ってきたね」
「つまりそういうことなんだよ、察してくれ!」
「ええー……」
不満げな清楚系美少女。
さすがに説得ががばがばだったかもだけど、そこは持ち前のコミュ力でうまく補完して察してもらいたい。
つまり、俺よりずっと優れてるんだから、
「きみなら大丈夫。きっと大丈夫だ。俺と違って入学式もばっちしやれる」
「そう、かな。そうなのかな」
清楚系美少女は、髪を耳にかけつつ、足元を見つめる。
俺なんかの言葉とはいえ、思いなおしてくれているようで何よりだ。
こんな人が入学式でうまくやれないはずがない。
「まあそれでも人間ダメなときはダメなんだけど」
「ここで落としにくる!?」
俺の予測能力の低さを舐めないでいただきたい。
「いやだって責任取れないし」
「たとえ根拠なくても女の子は大丈夫って言ってもらえると安心するの! 少なくとも私はそう」
「俺に期待するとその斜め下の結果になるのがよくわかったな」
「どうしてドヤ顔……斜め上だよね普通」
ハードルは常に下をくぐり抜ける系男子であるこちとら。
「じゃあ、ダメだったときは下を見るといいんじゃないか?」
「上じゃなくて?」
「下、つまり俺だ」
「初対面の人を見下すのはムリっていうか、そもそもいい人を見下せないよ」
「次会ったときは見下してくれるってことだな、安心した」
「どうしても私をひどい人にしたいらしいね」
あきれられてしまったようだが、大丈夫、じきに俺の言っていることがわかる。
この人みたいな女子が俺を見下せないような世界、俺は認めない。
「もし入学式で失敗したときは、俺がいかにダメだったかを教える。それならどうだ」
「それは……」
陰のある表情もどこへやら、清楚系美少女は晴れやかに笑った。
「それはすごく素敵、だね」
「ああ、ぜひがんばってくれ。じゃ」
トイレに戻るべく方向転換した俺に、
「え? 途中まででも一緒に行こうよ。ていうかまたトイレに?」
と清楚系美少女が誘いをかけてきた。
「また気持ち悪くなってきたんだ。しばらくまた吐いていく」
「あ、うん、これから、よろしくね。それじゃ」
社交辞令まで完全に行き届いていた清楚系美少女さんでした。
もうこの高校にきた甲斐がこの時点で完全に満たされていた。
この高校に入ってよかった。
* * *
――吐き気はほとんど収まっていたけれど、臆病な俺は、トイレから出ることができない。
「おーい、ゲロ吐いてる新入生くん、まだいるー?」
しばらくして、トイレにいる俺に声がかかる。
俺が個室から廊下まで出ていくと、白衣を着た養護の先生がいた。
女性にしては背が高く、スタイルもいいだけに威圧感が少しあった。顔つきも美人の部類であるものの、きつそうなタイプだった。
「げ、ほんとにいた」
「わー、ダメ人間度高そうで安心します」
かわいそうかもしれない新入生を捕まえて、げ、はないもんだ。
一目で俺の人となりを見抜いたのかもしれないけど。
「先生は忙しいの。地雷除去ゲームでね」
「口を開くほど残念って言われたことありませんか」
「新入生くん、名前は?」
「人に名前を尋ねるにはまず自分から名乗るものですよ」
「ゲロ野くんと呼びましょうか」
「俺のあだ名を知ってるとは先生超能力者ですか」
「先生を泣かせたいのかしら。かわいそうに」
養護の先生はため息をついてから、踵を返した。
「保健室に行くとしましょう。それともまだ吐き足りない?」
「……いえ」
吐き気はすっかり収まっているのだ。
不安はすべて吐き出してしまった、けれど、踏み出すことはできず、ぐずぐずとしていることしかできなかった。
保健室という場所には、俺はすごく馴染みがある。
トラブルに見舞われたり起こしたりが多い俺は、校内では間違いなく最も長く保健室で過ごした人間だった。
保健室を訪れて、「虎谷よ」と名乗った先生は、俺にココアを作ってくれた。ただしばらく、それ以上語らず、パソコンでマウスをカチカチやっていた。地雷除去で忙しいに違いない。
「虎谷先生」
パイプ椅子に座り、俺はマグカップのココアの模様をじっと眺めていた。
「なに?」
「この学校ではいじめって多いんでしょうか」
「我が校にいじめはない、って言ったら安心する?」
「俺がそのいじめられる第一号になります」
「これほど全力で後ろ向きな生徒も珍しいわ」
ココアを飲みつつ、虎谷先生はカチカチとマウスをクリックしている。
あの挙動は、おそらく地雷除去ゲームだ。
「パソコンのデジタルな地雷でなく、目の前の生徒を処理する気とかありませんか」
「地雷というより時限爆弾じゃないかしら。めんどくさいから嫌ね」
「仮にもかろうじてこの学校の生徒なんですが」
「そうじゃなくなる日も遠くないんじゃない?」
「……否定できません。ただ、今日は間違いなく、生徒、のはずです。教室にさえ行けてないゴミですけど」
「訂正。時限爆弾どころか毒電波兵器だったのね。先生、あなたのめんどくささを見誤っていたわ」
「その十倍、めんどくさいと思っておいたほうが身のためですよ先生」
はあ、と先生は大きなため息をついて、天井を見上げる。
軋む背もたれとともに、ぽつりと呟きがもたらされた。
「穴の開いたカップに水は溜められない。まず穴のあることに気づき、塞がなければね」
しばらく、沈黙の時間が流れた。
「……突然なに言ってるんですか先生。別にこのカップ壊れてませんよ」
無言で立ち上がった虎谷先生は、マグカップを俺の頭上に置いてねじ込んできた。
「いたいいたいいたいいたいッ!」
* * *
校内の空気がざわついて、入学式もレクリエーションも終わったらしかった。
窓越しに、自転車に乗って帰る生徒の姿も見られるようになる。
「あの、先生、俺」
「いまなら目立たず紛れて帰れるんじゃないの? さっさと帰りなさい」
「はい、その、ありがとうございました」
ひらひらと手を振る虎谷先生は、それ以上何も言わなかった。
保健室から廊下へ素早く出た俺は、誰かに見られたかということを確認するべく、左右に忙しなく視線を振る。
すると、トイレ前で出会った例の清楚系美少女が、職員室から出てきたところで、目が合い、
「あっ」
俺を見つけて、彼女が声を上げて、駆け寄ってきてくれたのでは――と、思ったところで。
「徹、やっぱここにいた」
後ろから、めぐむに声をかけられる。
「クラス発表見てきたけど、大丈夫。面池くんだけよ、あんたの知り合いのクラスメイト」
高校三年分くらいの運は使い果たしたのではなかろうか。
面池くんはマジイケメンだし、悪いようにはならない、と思う。
いずれわかることだったとはいえ、教えてもらえたことで、胸の苦しさが一気に取れた。
「めぐむだけが俺の頼りだ」
男泣きする俺に、はいはい、とめぐむはあくまで軽い反応だ。
後ろからめぐむに声をかけられたため、ついめぐむのほうに反応してしまったが、例の清楚系美少女の存在を、俺は忘れていなかった。
それに応えなければならないと思ったのだが、彼女は俺の横を通り過ぎて、めぐむの後ろにいた女子に話しかけていた。
「キッカ、もう終わったの?」
「うん。莉世こそ、どうしたの? 誰か探してたみたいだけど」
「え、と、キッカをね、探してました」
「ふーん?」
例の清楚系美少女は、その友だちらしい、クールな感じの女子と立ち話を始める。
いま起こったことを整理しよう。
俺は、彼女に声をかけられたのだと思った。
しかし実際は、俺の背後いいたクール系女子に声をかけていたのである。
つまり、この上なく恥ずかしい勘違いを、していたのだ。
「徹、何かあったの?」
「いや、別に」
ところで清楚系美少女のほうの名前はどうやら、莉世、というらしい。
間違いなく、トイレの前で軽く言葉を交わしたのと同一人物だ。
友だちもできたみたいだし、莉世さんに暗い雰囲気もまったくない。入学式のこの日、きっとうまくいったんだろう。
俺の失敗談が必要ないみたいで、本当によかった。
「ありがとうな、めぐむ」
めぐむに声をかけてもらえたおかげで、莉世さんが俺に駆け寄ってきてくれたなんていう勘違いをせずに済んだ。
入学式に結局参加できず保健室で怯えていたチキンと、あんなかわいくてきれいで聡明そうな美少女が、言葉を交わしていいはずがない。
今日話したことも、名前も、さっぱり忘れてしまうことにしよう。
なかったことに、しておこう。
関わった記憶は消してしまって、莉世さんの高校生活に汚点を残さない。
それが俺からできる、彼女の輝かしい人生への餞だった。
* * *
「卒業おめでとう、徹くん」
「卒業おめでとう、莉世さん」
互いに祝福しあって、なんだかおかしくなって、お互い笑い合う。
卒業式は終わって、いまはすぐ帰る気になれず、校内に居座っている。少しでも眺めがいいところということで、室外機に並ぶテラスで、守山さんと俺は立ち話をしていた。
誰の目をはばかることなく、堂々と。
卒業できたことはもちろんだけど、こうして莉世さんといられるのが、何より不思議だ。
「二年の秋から、ほんといろいろあったなあ」
「私にとっては、入学式から、だけどね」
「いや俺だっておぼろげに覚えて……いるような、なんかすごい親切な女子がいたなあ、ってところまでは思い出したんだぞ?」
「いいよ、私がちゃんと覚えてるから」
強めの春風が、吹き込んでくる。
それにあおられる守山さんの髪やスカート、そして押さえつける仕草が尊かった。
サクラはまだ咲いていない。
これから三月末にかけて、つぼみを膨らませ、花開く。
テラスから見下ろせる範囲の、校内に植えられているサクラのそばに、白衣姿の女性が通りがかる。
その後ろを強気な眼鏡の女子と前髪ぱっつんの女子が歩いていく。
校内を見渡すと、百人が百人認めるイケメンの同級生が、冷めた眼差しの同じクラスの女子が、人の好さそうな給仕服の女性が、熊のような男性が、柔らかな雰囲気をまとった女性が、革ジャンを着た大人の長身女性が、地味な顔立ちをした金髪の男性が、いる。
そして、もはや主に胸の成長が絶望的な絶壁の、目つきの悪い小柄な恩人の少女が、いる。
そいつは俺の視線に気づき、隣にいる人物をちらりと見た後、にやにやした笑みを浮かべた。
なんとなくばつが悪くなって、俺は莉世さんの肩を引き寄せ、下からは見えない位置まで下がってもらった。
すると、莉世さんは鳩尾のあたりで指を組み、目を閉じる。
え、いや、別に、そういうつもりじゃ、なかったんですけど。
人に見られないところでこっそりキスしたかったとか、そういうつもりじゃなかったんですけども。
さりとてここで引き下がるのも、おかしな話だ。
そういうところまで含めて、きみが愛おしいのだと。
だから、
というわけで『前日譚 入学式+後日談 卒業式』でした
ここまで週1でやってきましたが、ここから更新がさらに空くようになると思います。未定です。
書きたくなったらまた書きます。
別のものを書き溜めて、近いうち、投稿できれば。
ここまで楽しんでいただき、本当にありがとうございました。




