34.5話 看病(前)
実力テストの五日前のことだった。
いよいよ運命の日まであと五日。
結果次第で守山さんにお願いを口にできるため、俺は気合が入っていた。
ただ、その日は冬だというのに妙に暑かったし、微妙に霧でもかかっているのが視界も悪かった。その割りに空気が乾燥していて喉がすぐ痛くなるほどだ。
さらにこれらの相乗効果によって、頭もぼーっとしている。
いくつもの障害をものともせず、俺は学校へたどり着き、廊下を歩いていたところ、
「帰りなさい」
まっすぐ校門のほうを指差す養護の先生が現れた。
下の名前は覚えていないけど、虎谷、という苗字だったはず。
不機嫌面な虎谷先生は、二回、同じことを言う。
「帰りなさい、と言ったのよ。私が決して面倒見たくないからじゃなくて、あなたは帰るべきなの」
「ははは先生、勉強しにきた学生に帰れとは、俺をここの学生とさえ認めたくない気持ちはわかりますが、俺は退けないんですよ、少なくとも実力テストを乗り越えるまではね!」
「あなたはなるほどここの学生かもしれないし実力テストにはげむ姿勢は大いにけっこうだけれど、学生以前に、病人でしょう?」
虎谷先生の冷たい手が、俺の額に触れてくる。
ひんやりして気持ちいいというのも束の間、先生は手を離して、熱を冷ますようにひらひらと振った。
「三十八……いえ三十九度ってところじゃないかしら。ありえないわ、すぐ家に帰りなさい。なんなら親御さんに迎えに来てもらいましょうか」
「いえ、それだけは」
母さんは仕事でいま忙しいのだ、迷惑はかけたくない。
「俺なら平気です、いつもと大差ありません」
「バカは風邪を引かないというのは、風邪に気づかないことってのは本当だったのと、いま驚きを禁じえないわ」
「今回だけは、テストに向けてがんばらないといけないんです。先生、深いわけがあるんです。見逃してくれませんか」
どれだけがんばれるかで、結果を出せるかで、守山さんへの気持ちが試されているような気がしている。
今回だけは、本当の本当に本気なのだ。
ここで家でゆっくり休んでいる暇なんかない。
ただでさえ、ゲーセンで遊びまくったことが尾を引いているから。
「私には、養護教諭という責任があるの。一度背負った責任は、必ず果たすという自負と、覚悟があります。あのヘンタイ筋肉バカの協力を仰ぐことさえ、辞さない覚悟が」
「あの先生はいい先生ですってば! ――ゴホッ」
ちょっと熱血が過ぎることと暑苦しすぎることを除けば、いい先生だ。
叫んだことで、ちょっと咳き込んでしまう。
「ほら、ひどい咳。そんなので勉強ができるわけがないって、自分でもわかるでしょう。それとも、周りにも迷惑ってことがわからないほど?」
周り――それはとりもなおさず、守山さんも含む。
大体が俺のようなゴミクズが他人に迷惑をかける時点であるまじき愚行なのである。
「すみ、ませんでした」
「あなたの言う通り、勉強は学生の本分だから、悪いことではないわ。今日は帰ってゆっくり休んで、早く風邪を治すことね」
「はい。本当に、すみませんでした」
頭を下げて、教室に入ることさえなく、俺は家路についた。
学校に来るときはそうでもなかったのに、帰るときは嫌に体が重い。
頭の中では、これまでの自分の失敗が、走馬灯のごとく矢継ぎ早に襲いかかってきていた。
* * *
家に帰り着いてから、着替えだけ済ませて、ベッドにもぐりこんだ。
たとえベッドで休むことになっても、勉強はできる。
一問一答や暗記に勤しんで、集中していくことはできるのだ。
十ページほどで寝落ちしたけども。
目を覚ますことができたのは、額に冷たいものが触れたからだった。
「あ、ごめんなさい。起こしちゃったね」
額の冷たさは、熱さましのシートのものらしい。
ではこれを誰が貼ってくれて、いま声をかけてくれていたのかと言うと、
「守山さんの幻覚……?」
「現実で、本物です」
ほっぺたに、守山さんのひんやりした手が触れてくる。
気持ちいいし、落ち着く――でなくて!
「どうして守山さんが俺の部屋に?」
「メッセの電話機能で連絡したら、助けて、って言われたので」
「誰に」
「徹くんに」
身に覚えがまったくない。
「守山さんが政府の陰謀に巻き込まれている……!?」
「巻き込まれてません。その証拠に、ほら。電話したよね?」
スマホをいじって、守山さんが画面を見せつけてくる。
なるほど、午後四時十二分から、俺と五分十七秒通話した記録が残っていた。
枕元に置いてあった俺のスマホにも、同じ記録が残っている。
「頼まれたもの含めて、いろいろ、買ってきたから。風邪薬に、りんごに、コーラ? コーラ買ってきてってのは意味わからなかったけど、一応ね」
「ありがとう。お金、すぐ払――あ」
ただいま絶賛金欠中なのだった。
風邪を引いた一要素でもある。
「すぐには払えないけど、トイチで返すから」
「十日で一割?」
「十秒で一割」
「えげつない!」
雪ダルマ式というよりウイルス並みの増殖率。
「利息なんていいし、代金だって払ってもらわなくていいんだよ?」
「もしや体で支払わせようとしているのか?」
「からっ!?」
途端にもじもじしだした守山さんは、自分の顔を手であおぐ。
「体とか、ほんと、徹くんはむっつりなんだから」
「オープンにドスケベなほうだと自分では思っていたけど、言われてみるとそうなのかもしれない。とはいえどうしてそんな話になってるのか十五文字以内で説明を」
「だ、だから、体で、いやらしいことを、へ、ヘンタイ!」
「その罵られ方は珍しいけど確かに受け止めよう……」
守山さんがヘンタイだというのなら間違いなく俺はヘンタイなのである。
「ただ言い訳になるかもしれないけど、一生パシリとかそういう返し方を望まれたのかと俺は思ったんだ」
「あ、そ、そういう? ――や、徹くんの言い方が悪いと思う、私」
「俺が悪いのはいつものことだな」
「そういうことじゃなくて、えーと、そう。してほしいこと、ある? なんでも言って。徹くんは病気なんだから、わがまま言っていいんだよ」
俺が、守山さんに、してほしいこと。
実はずっと頭の中に占めていたんだけれど、ちょっと遠慮していた。
けどこうして守山さんからうながされたのなら、もうためらう必要もないだろう。
ベッドの上で正座し、深く頭を下げる。
「帰ってほしい」
「え、と、なんで? 私、何か、まずいことした?」
守山さんでなく、俺が、盛大にまずいことをしている。
「電話で俺が話したことは、戯言、妄言、うわ言なんで。守山さんに迷惑かけたくないし、だから俺もこうして帰ってるわけで、守山さんが俺なんかを
見舞うとかありえないというか、守山さんを不幸にしたくないんだ!」
「話が見えないとこあるけど、大事なところひとつ訂正」
守山さんの人差し指が、俺の鼻先に触れてきた。
「迷惑じゃなくて、心配ね」
「おっと目から汗が」
失礼なのをわかっててなお、俺は布団にもぐりこんだ。
相変わらず守山さんは天使というか女神というか、やばかった。
変に優しくしてると勘違いしますからね、主に俺が。
「徹くん、とーおーるーくん?」
布団の上から守山さんにぽすぽすと叩かれる。
「早く帰るんだ守山さん、伝染ってしまう前に、早く!」
布団越しに喋る俺に、守山さんが小さく笑うのが聞こえた。
「伝染したほうが早く治るって話もあるよ」
「いまだかような俗信にとらわれておるとは守山莉世殿もいやはや蒙昧したものよ」
「口調」
ツッコみ入れつつも、守山さんが布団の上から俺をゆすってきた。
「薬も飲んでないんだよね? っていうか、最近ちゃんと食べてる? 食べてる時間がやけに短くない? 勉強がんばるのもいいけどムリはだめだよ?」
「ここは俺ひとりで大丈夫、守山さんは、先に行くんだ。――あ、買い物の金額だけ教えていってな」
「頑固者だね。徹くんの新たな一面発見、かな?」
いま守山さんはくっそかわいい顔をしているに違いない。
布団を被ってしまっているのが惜しい、実に惜しい。
「ね、台所、使わせてもらっていい?」
「いいけど、何を?」
「りんご。むいてあげる」
ドアなどの物音で、守山さんが部屋から出ていったのがわかる。
……考えろ。
このさき一体何が待ち受けているのかを。
前提として、俺を守山さん(女神)が世話してくれるとかありえない。いやそんなことをするような女神(守山さん)だからこそ守山さん(女神)なのかもしれないんだけど。
あっては、いけないんだ。
すでに守山さんも俺が金持ちのじいさんから遺産を受け継ぐ予定にないことは知っているはずだ。
やはり気づかないうちに政府の陰謀に巻き込まれている可能性が高い。
どうせ陰謀の中身は核ミサイルもしくは細菌兵器のパスコードがどーたらこーたらでディストピアが市民幸せですかとインプラントチップの思考盗聴――いかん、熱で頭が働かない。
うんうん俺が進まぬ思考に四苦八苦していると、
「お待たせ」
守山さんが戻ってきてしまった。
ちなみにエプロン姿になっていた。
制服の上からエプロンというかっこうは、こうして自宅で見るとなると非常に乙なものがあった。調理実習で二回見ているはずなのに、場所が違えば印象も大違いというやつだ。
手には皿とスプーンを持っている。
スプーン?
「固形より、流動的なのが食べやすいと思って」
しゃがみこみ、守山さんは一匙すくうと、スプーンを差し出してきた。
皿の中身は、すり下ろしたりんごだったらしい。
しかし、さて。
さて、どうしたもんだろう。
「あー、ん」
笑顔であーんしてくる守山さん。
おかしい。
――こんなの絶対、おかしい。




