第46話 傷付いた翼
「ジーク様、実はお願いがあるのですが……」
母上とユミナに止められているにも関わらず、エリスを送ると言う口実でアリスの店へとやってくれば、何か思いつめた様子のカナリアが近づいてきた。
「どうしたんだ?」
「それがその……気分転換の為にアリス様が散歩へと出かけられたのですが、どうも嫌な予感がしまして……」
聞けばプリミアンローズのオープン以降、アリスは随分と自分を追い込んでしまっているのだという。
大体の経緯は父と母から聞いている。実は今日アリスの様子を見に来たのはこれが心配だったからだ。
例のレシピが使われた店がオープンし、アリスは物の見事に相手の策中にハマってしまった。
いや、この場合相手の方が一枚上手だったと言うべきか。
オープンしたプリミアンローズはアリスの店をそのまま巨大化させた類似店。これだけなら後からできたプリミアンローズが、アリスのローズマリーに似せて作った事になるのだが、相手は隣国の有名菓子店の名を借り店をオープンさせた。
如何に隣国にある店だとはいえ、大半の者は知名度だけを耳にし、直接足を運んだ者などほとんどいないだろう。
そしてプリミアンローズにはローズマリーには無い、絶対的な知名度と歴史がある。相手はそれを巧みに利用したのだ。
当初こそプリミアンローズはローズマリーに似ていると囁かれていたが、いつしかローズマリーがプリミアンローズに似せて作られたと、噂されるようになってしまった。
『噂の広まり方が異常すぎるわね。誰かが意図的に嘘の情報を広めている可能性があるわ』
母上は社交界中では中心的な人物。噂の広め方も情報の集め方も父上以上の手腕だ。そんな母上が言うのだから恐らくその通りなのだろう。
そしてその目的も俺たちには心当たりあるのだ。
『目的はやはり、ローズマリーから奪ったレシピのカモフラージュでしょう』
今やアリスの店からレシピが盗まれた事件は多くの人が知る事実。そんな中でローズマリーの類似品が店頭に並べば当然怪しまれる事だろう。
だけどそれがもし、盗まれたレシピが元はローズマリーが別の店から奪ったものだったら? 奪わなくとも似せて作った盗作レシピだったら? 人々は騙された、偽物をつかまされたと感じるのではないだろうか。そして類似品を販売するローズマリーではなく、オリジナルのプリミアンローズへと惜しみなく通ってしまう。
貴族なんて生き物は見栄と自己満足の塊だ。ローズマリーに通えば偽物しか買えないのかと囁かれ、プリミアンローズに通えば自慢と賞賛を称えられる。
全てを知る者からすればなんとも愚かな考えだと思うのだが、それが現実に行われてしまうのが貴族という人たちなのだ。
『ジーク、ユミナ、貴方達はしばらくアリスに近づいては行けないわよ。今ここでアリスに近づけばそれこそ相手の思う壺。ハルジオン公爵家は偽物騒ぎに加担していたと言われ、今なおアリスの再興を願っている人たちにも不安が広まってしまうわ』
こんな噂程度でハルジオン家がどうにかなるとは思えないが、アリスは公爵家の後ろ盾がないと何も出来ない無能者と囁かれてしまう。
母上と父上ももちろん、ローレンツやこの屋敷の全員が、アリスの努力と頑張りで今の場所まで辿り着いた事は知っている。それがこんなくだらぬ理由で全てが瓦礫となるのは許せない。
そしてアリスなら、自力でこの卑怯な策略を突破出来ると全員が疑っていないのだ。
だけど……。
運悪く届いたのは、アリスの父であるデュランタン騎士爵様の死の知らせ。
今が一番大事だというこのタイミングで、アリスにとって最悪の出来事が起こってしまったのだ。
俺はアリスの中にある脆い部分を薄々感じていた。恐らく母上も知っているのではないだろうか。
アリスの一番は自分ではなく家族。今まで彼女が置かれていた環境を聞けば、ある程度の想像は出来るだろう。
幼少の頃に母親を亡くし、信頼できる兄と姉は一人、また一人を騎士爵家から旅立ち、残されたのは父一人とアリスを嫌う兄が一人。救いは嫁いで来た義理姉が優しかった事らしいが、それも男爵家から突きつけられた婚約破棄で全てが崩れ去った。
恐らくアリスは妹を守らなければいけないという使命があっただけで、本当は父親の元から離れたくはなかったのではないだろうか。
現に今、アリスはローズマリーのスタッフ達を家族のように接しており、父親の死の後からは、以前のような覇気が感じられなくなってしまってる。
他人に弱みを見せないあいつの事だからな。心配させまいと自分でも知らない間に、心の底へと悲しみの感情を押さえ込んでいるんだろう。
「もう、お兄様! 何をやっているんですか、早く行ってください!」
「あぁ分かっている」
カナリアの話ではそう遠くへは行っていないだろうとの話なので、馬でしらみつぶしに走らせれば見つけられるはずだ。
問題は見つけられるまでの時間だが、手遅れになってしまっては元も子もない。よもや思いつめたうえで自殺なんて事はないだろうが、それで自分を責め続けて、ボロボロに傷つけている事ぐらいは容易に想像がつく。
「ジーク様、アリス様をおねがいします」
まったくあいつは自分がどれだけ大切に思われているか早く気付けと言いたいところだ。
「任せておけ。必ずアリスを連れ帰って来てやる」
俺はカナリア達に促されるまま、夕日が落ちる王都を愛馬に跨り走りだした。
「アリス!!」
遠くから見え姿に、思わずらしからぬ声で呼びたててしまう。
その時の俺は、アリスが何処か遠くへと行ってしまうのではと感じてしまったのだ。
アリスがここに居るのではと思ったのは、はっきり言って運以外の何物でもない。
それでも何故かそこに居る、必ずそこに居るんだという、感覚に捕らわれてしまった。
そして今目の前に、涙が流れている事すらわかっていない傷付いたアリスがそこに居る。まるで初代女王、レーネス様の像が我が子を見守る様にして。
「じーく……さま?」
アリスは決して人前では涙を見せない。頑固で、強がりで、他人を気遣う優しさを持ったアリスは、決して人前では涙を見せない。
そんなアリスが目の前で泣いているんだ。隠すわけでもなく、傷付いた姿を労わるわけでもなく、ただ滴り落ちる涙を見せながら。
「バカやろう、心配したんだぞ」
ごく自然に、それが正しい行動のように、俺はアリスを抱きしめた。アリスの涙を隠すように。
「なんで……、ジーク様がここにいるんですか?」
身長差から自分の胸元辺りからアリスの声が聞こえて来る。
「カナリアに言われたんだよ。アリスの様子がおかしかったから探してくれって」
「カナリアが……?」
どうせアリスの事だから、心配させまいと強がったフリでもしていたのだろう。だけど傷つき、痛々しい姿を隠している事など、あの店の人間ならば誰も知っている。知っていて、ずっと助けられない自分たちを責め続けていたのではないだろうか。
「ジーク様は……なんで来られたんですか……?」
「なんでって、お前が心配だったからだろ? それ以外に理由がある訳がないだろうが」
「じゃなんで、なんで今まで来て下さらなかったんですか! 私がどれだけ寂しかったか、私がどれだけ不安だったか知っていますか! 私がどれだけ……会いたかったか……知らない癖に……」
ずっと心の底に溜め込んでいたのだろう。抱かれながらも弱々しい両腕を振るい、俺の胸元を叩きつける。
アリスはその立場から捌け口たる人物があの屋敷には存在しない。どんな不安な事があっても、どんな悲しい事があっても、どんな寂しい思いをしたとしていても、上に立つ者としてその事を理解している。
ましてやアリスはまだ16歳、そんな年齢で特に厳しい教育を受けてきたわけでもない中で、いきなり屋敷の当主はさぞ負担が大きかったとしてもだ。
「悪かった。いま会えばアリスの為にならないと母上から止められていたんだ」
「フローラ様が……?」
「あぁ、アリスなら必ず立ち上がるからと、だから今は会えない。もし会ってしまったら必ず甘やかしてしまうからと」
結局俺は我慢が出来ずに先走ってしまったが、結果的には良かったのかもしれない。
「私は……一体どうすればいいんでしょうか。調子のいい事を言っていた癖にこんなにも醜くなって、信じて下さっていたフローラ様達にも裏切るような真似をしてしまって、ジーク様にも酷い言葉を……」
「いいんじゃねぇか」
「えっ?」
「誰もアリスが裏切ったとか酷い事を言ったとか思ってねぇぜ」
「でも、だって私は今……」
「分かってるって、ちょっと溜め込んでしまっていた感情が漏れ出ただけだろ? だったらもっと吐き出せよ。俺が全て受け止めてやるからよ」
「……っ」
まったく、こんな時でも心配するのは他人の事ばかり。
これがアリスだと言えばそれまでだが、傷付いた時ぐらいもっと周りや俺に頼るべきだろう。
誰も迷惑だとか、酷い言葉だとか、そんな事は家族にとっても友人にとっても些細な事だ。寧ろ本音が聞けた事に喜びすら感じるのではないか。
「アリスはもう少し他人に頼る事を覚えた方がいいな」
「他人を……ですか?」
「あぁ、アリスは何でも自分で抱え込もうとするからな。だから一度立ち止まって周りを見てみればいい。そうすれば俺が言っている意味も分かるはずだ」
そう、一度立ち止まって。
カナリアの言葉ではないが、アリスはもっと他人に甘えていいのだと思う。
上に立つ者としての威厳は大事だとは思うが、全てを一人で抱えていてはいずれ今回と同じような事が起こるだろう。その時そっと立ち止まって周りを見ればいい。きっと大勢の人たちが暖かくアリスの傷付いた翼を癒してくれる。それがアリスが望み、手に入れた家族という絆なのだから。
「それじゃジーク様……早速でその……申し訳ないんですが……」
「なんだ? 何でも聞いてやるぞ」
「……その……もう少しこのままで、いさせて下さい……」
「……あぁ、お安い御用だ」
「う……うわぁぁぁぁ……ん」
この日、アリスは大声を上げて泣いた。
今まで溜め込んでしまっていた想いを全て吐き出すように。




