番外編2 ある日の令嬢の朝
スタトの一角に建つ、フレアローズ家の別邸――小さな館の一室。
窓から差し込む朝日の中、テーブルでカップを手に、静かに佇む赤いドレスの少女がいた。
イグネア・フレアローズは、紅茶のカップを軽く揺らし、小さく息を吐いた。
昨晩の出来事――宿屋での唐突な訪問と、そのあっけない撤退――が、まだ胸に引っかかっていた。
「……名前も、知られていないなんて……」
静かな部屋に、ため息がひとつ溶けた。
ティエナという名の、規格外な新人冒険者。
イグネアは、宿屋で向けられたあの無愛想で真っ直ぐな視線を思い浮かべる。
――どこか浮世離れした雰囲気の少女。
彼女に興味を抱いたのは、偶然ではなかったはずだ。
ぼんやりと考えながら、カップを受け皿にそっと下ろす。
カチャリ、と小さな音だけが、静寂の中に響いた。
「……わたくし、まだまだですわね」
それでも、心の中の火は消えていなかった。
もっと強くならなくては。もっと、頼られる存在に。
力がなければ、この世界に産声をあげることすらできない。
このまま名前すら知られずに終わってしまうわけにはいかない――。
そんな想いが、じわりと胸を締め付けた。
朝の光が窓辺を照らし、銀のスプーンが控えめに光を返す。
イグネアは紅茶を飲み干し、ゆっくりと席を立った。
――その日の朝、彼女はいつもより少し早く、冒険者ギルドへと向かっていた。
*
「……水路の清掃依頼?」
掲示板に貼られた依頼のひとつが目に留まる。
スタト東区の水路清掃だ。傍には補修中の旧水路があったはず。
掲示板の依頼書に、イグネアはそっと指を這わせた。
似たような依頼がいくつか並ぶ中、そのひとつにだけ『受付済』の印が押されていた。
「水路清掃……インフラ整備は街のため。どのような方が引き受けてくださったのかしら。激励も兼ねて、様子を見に行きましょうか」
そこは、決して自分の家の私有地でも領地でもない。
けれど、水路の状態が街の安全に直結するのは明白だったし、駆け出しの若手がどのように任務をこなしているか見るのも、今は悪くないと思えた。
気分転換という意味もあるが、冒険者としての初心に立ち返りたい――そんな想いが、イグネアの胸に浮かんでいた。
イグネアは一度自室に戻ると、身を引き締めるためにも、普段通りのドレス型鎧を身に纏い、レイピアと魔法発動を補助する簡易魔道具の指輪を携えて館を後にした。
そして、軽く様子見のつもりで東区までやってきたイグネアだったが――現場に着いた彼女は、すぐに異変に気づくことになる。
「……やけに静かですわね……?」
水路の一角。区画整理されているはずの通路の奥に、一部だけ極端に綺麗なエリアがあった。
この依頼は、今朝受注されたばかりのはず。それなのに、すでに完璧に清掃を終えているように見えた。
「どうやって、こんな短時間で……?」
不要物は片付けられ、汚泥も苔も残っていない。
誰かが作業を終えた形跡があるのに、担当した冒険者の姿がどこにも見当たらない。
不審に感じたイグネアは、通り脇の階段を使って指定区域の水路へ降り立った。
やはり作業者が誰もいない。
それどころか、あまりに完璧な結果だけがそこに残されている。この状況は、あまりにも不自然だった。
イグネアはさらに周囲を見渡した。
旧水路へと続く通路。その入口に、わずかに開いた鉄扉があった。
立ち入り禁止とされている区画だが、確かに誰かが入った痕跡があった。封代わりにかけられた注意書きの札も取り外され、今は足元に放置されていた。
イグネアはその場に屈み、地面をそっと指先で撫でた。
足跡。湿った空気。旧水路から漂ってくる微かな魔力の残滓。
「……立ち入り禁止区域に侵入者、ですのね」
イグネアは眉をひそめた。
「迷い込んだのだとしても――あるいは、陰に隠れた悪意だとしても。治安を乱す者を、見逃すわけにはまいりませんわ」
レイピアの柄に手を添え、小さく息を吸った。
「……気は進みませんけれど、いたしかたありませんわね」
そうして踏み出した一歩が、どれほど甘い見通しのもとにあったのか。
彼女が思い知るのは、もう少しだけ後のことである。




