第4話 その日、ティエナはお腹いっぱいだった
スタトの街に来てからというもの、ティエナの毎日は発見と驚きと……あと、ちょっとだけ胃袋の限界との戦いだった。
「ノク見て! このパン、ふわっふわ! 甘い! 塩の味しないのに美味しい!」
「それ、いわゆる菓子パンってやつだよ」
「ねぇねぇ、このお茶、渋くないよ!? 爽やかで、良い香りがする! なにこれ!」
「底にレモンのスライスが入ってるね。清涼感があるのはそのせいかな?」
市場に並ぶ見たこともない料理に、ティエナは目をきらきらと輝かせた。
大通りを歩き、屋台の店主に「これもどうだい!」と勧められるがまま、次から次へと買っては食べ、食べては感動して、満足げにほっぺをふくらませた。
「味が層になってるの! 重なってるの! すごい、これ神域の料理じゃない!?」
「さすがにそれは盛りすぎ」
ティエナは『元神さま』という肩書きを忘れたかのように、地に足をつけて買い食いライフを満喫していた。
そして――夜。
木もれ日亭の部屋に戻ったティエナは、ベッドの上でうつ伏せに倒れていた。
「……おなかいっぱいで動けない……」
「何食分食べたの?」
テーブルの上で尾を抱えるように丸まったノクが、呆れた声をティエナに投げかけた。
ティエナは口元を押さえながら、空いた手で指折り数えていく。
「三……いや、四? 間食もカウントすると五……?」
「それは『暴食』って言うんだよ」
ノクが容赦なく突き刺した。
「だって美味しいんだもん……。じいちゃんの料理は『体にいい系』ばっかりだったし、ちゃんと味がする料理なんて初めてで……」
「それで、財布の中身は?」
「……えっ?」
ティエナがぽすっと枕から顔を起こし、ポーチを漁る。
出てきたのは、銅貨が数枚と、なぜか干からびたレモンの皮。
「……あ、あれ? これ、昨日の紅茶のやつ……?」
「ティエナ、それじゃあ財布じゃなくてゴミ袋だよ」
しばしの沈黙。
「……ノク」
「なに?」
「わたし、明日からちゃんと働く」
「言い方が完全に『明日から本気出す』のやつだよ、それ」
苦笑するノクを横目に、ティエナは天井を見上げながら深く息をついた。
「じいちゃんは狩人になれって言って、いろいろ教えてくれたけど……わたし、これからどうしよう」
「冒険者として、働くんでしょ?」
「うん、それはもちろん。でもその先――『どうなりたいか』までは考えたことなかったなーって」
思い出すのは、じいちゃんの大きな背中。硬くって、でもいつだって温かさを感じさせてくれた。
――その背を、追いかけてるだけじゃダメなのかもしれない。
「じいちゃんみたいになりたいって思ってた。でも今は……『わたし』として、ちゃんと歩きたい」
「神さまだった頃の記憶は?」
「ちょっとずつ思い出してるよ。でもね、出てくるのって『あの冒険者かっこいい』とか『人間界のごはん気になる』とか、そんなのばっか」
「……神の威厳、ゼロだねぇ」
やれやれと言わんばかりに、ノクが口の端をあげて笑う。
「うるさい! 神様だって恋もすれば食欲もあるのよ!」
「はいはい」
ふて寝のポーズでベッドに転がるティエナに、ノクは顔を綻ばせた。
「でもそれでいいんじゃない? 神さまじゃなくて『今のティエナ』が何を感じて、どう生きるか。そっちの方が、たぶん大事だよ」
「……そっか」
ティエナはしばらく黙って天井を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「ありがと、ノク」
「どういたしまして」
ふたりは互いに視線を合わせ、楽しそうに笑って夜を過ごした。
――そして、翌朝。
宿の部屋には穏やかな陽射しが差し込んでいた。
ティエナが身支度をしていると、ノクの耳がぴくりと動いた。
「……ノク?」
「来るよ。かなり強い魔力」
「え!? ギルドの人? わたしなんかやった!? 水晶は壊したけど、その時は怒られなかったし!?」
ティエナは慌てて、思わず手に持っていた財布を落とす。
「落ち着いて。敵意はない。でも、なんか派手な気配がするなぁ。足音のテンポもやけに綺麗だし……」
足音が止まり、部屋の前でぴたりと静寂。
コン、コン。
誰かが、丁寧で力強いノックをした。
ティエナは、財布を両手で強く握りしめながら、ごくりと息をのんだ。
扉を開けると、そこには金色の縦ロールを揺らした少女が立っていた。
背筋をぴんと伸ばし、赤を基調にしたドレス風の衣装。
彼女はそこに立っているだけで、この安宿の廊下にまるでレッドカーペットが敷かれているかのように、空間すべてを豪華な舞台に思わせるオーラを放っていた――が、森からほぼ出歩いたことがないティエナは、ただ訝しむだけだった。
気品と威圧感をまとったその少女は、まっすぐにティエナを見つめて口を開く。
「はじめまして、ティエナさん。わたくし、イグネア・フレアローズと申しますわ」
一礼すら優雅に見える動作で自己紹介を済ませると、彼女はぐっと一歩踏み込んだ。
「あなた、わたくしのパーティに入ってくださらない!?」
「……いやですけど?」
一瞬、空気が静止する。
「……あら? 聞き間違いだったかしら? あなた、わたくしのパーティに入ってくださらない?」
「……だから、いやですけど」
ティエナは無表情のまま、そっと扉を閉めかけた。
「ちょ、ちょっとお待ちになってくださいましっ!」
イグネアが慌てて足をねじ込んでくる。
「……お嬢様が足で止めるの、なかなか見ないよ?」
ノクが冷静に突っ込む。
「な、なりふり構っていられませんのよっ! どうして、わたくしの誘いをお断りになるのです!?」
「じいちゃんに、知らない人にはついていくなって言われてるので!」
ティエナは扉を両手で必死に支え、自分のつま先でイグネアの足を全力で押し返す。
「し、知らない!? わたくしを!? わたくしを知らないと仰るの!?」
ティエナの押しが強まり、イグネアの足がじわじわと押し戻されていく。
そして――イグネアは慌てて足を引っ込め、ばたん、と扉が閉じた。
閉じた扉の向こうから、イグネアのくぐもった声が聞こえてくる。
「もしかして、あなた……本当に、わたくしのことをご存じなくて?」
「うん、知らないけど」
「…………っ」
イグネアは納得した表情でひとり頷く。
「……なるほど。まだまだ、わたくしも精進が足りないようですわね……」
落ち着きを取り戻したイグネアは笑みを浮かべ、胸元に手を添えて軽く一礼する。
「ではまた、改めますわ。失礼いたします」
くるりと踵を返すと、スカートをひるがえして廊下を去っていった。
トントントンッと一定のリズムで響く優雅な足音が、徐々に聞こえなくなっていった。
静かになった部屋に、ぽかんとした空気だけが残る。
「……誰だったの、今の?」
「多分……面白い人」
ノクがぼそっと言い、ティエナは苦笑した。
「……ていうか、なんでわたしの名前知ってたんだろ?」
ティエナが小さくつぶやいた言葉に、ノクは肩の上で小さく笑ってから返答した。
「街道で何か見られたか……どこかで噂になってたか。――どちらにせよ、ここまで辿り着くのは只者じゃないね」
「……まあ、悪い人ではなさそうだったけど」
ティエナは首をかしげながらも、深くは追及せずに気持ちを切り替える。
今はなにより、目の前の日銭を稼がなければならなかった。
「よし、とりあえず、ギルド行こっか」
考えても仕方のないことはさっぱりと忘れて、ティエナは笑顔でノクに振り返った。




