第32話 静かなる報せ
仮設の診療テントの中に、静かな時間が流れていた。
ロイは折りたたみ式の椅子に座り、安静にしていた。腕にはまだ冷却用の包帯が巻かれ、治癒された痕がうっすらと残っている。応急手当は済んでいるものの、完全な回復には至っていないようだった。だが、それ以上に――その表情からは、何も回復していないことが見て取れた。
気配を察したのか、ロイが顔を上げる。
「……ロイ」
呼びかけたのはイグネアだった。
その声に、ロイは目を細めて小さく笑う。
「お久しぶりです、お嬢様」
「二年ぶり……ですわね。身体はそのままで構いませんわ」
短いやり取りだけで、二人が旧知の仲であることが空気に溶けていく。
ティエナが控えめに会釈し、ノクが小さく手を振る。フィンは無言で、気配を殺したまま隣に立った。
「……ダンジョンで、何がありましたの?」
イグネアの問いかけに、ロイは一度だけまばたきをして、それから静かに視線を落とした。
「四十階層の最奥に、封印された扉がありました。その先に“歪み”があって……俺たちはそこを越えて、四十三階層まで進みました。途中の階層はどれも過酷でしたが、それでもなんとか進んで……ですが、四十三階層は突破できませんでした」
彼の声はかすれていたが、はっきりとした悔しさがにじんでいた。
「あの階層は……氷でできた神殿のようで……壁も通路も、空気でさえも凍り付いているかのように冷たくて……。そして通路の奥に、光るものがいくつも見えて……それは大量の蜘蛛型の氷の魔物でした」
イグネアが静かに息を呑む。
(――クラックフリーズの群れ……?)
「凍結のせいで接近戦もままならず、魔法攻撃はことごとく受け流される状況に、レクトは“撤退”の指示を出しました。私たちはそれに従いました。ですが、退路の途中でナリアとブラートが囚われて……シャルナとレクトが彼らの救出に向かいました。私は、帰還を任されて……」
ロイの瞼がゆっくりと閉じる。
「それ以降のことは、わかりません」
数秒の静寂が落ちる。
その空気を破るように、フィンが静かに口を開いた。
「心中察するに痛み入るが……俺たちも、四十一階層以降の情報が欲しいんだ。ダンジョンの構造や敵の傾向、わかる範囲で教えてくれないか?」
ロイはゆっくりと頷き、ぽつりぽつりと語り始めた。
四十階層の最奥、封印された扉の先。そこには、転移装置のようでいて、まるで異質な歪みのような“ゲート”があったという。 空間の裂け目のような"ゲート"を越えた先は、まるで別世界。戻るときも、同じ"ゲート"を通って帰還する必要がある。 "ゲート"を抜けた先――四十一階層はダンジョンの内部でありながら、一面の森だった。霧が立ちこめ、風が吹き、木々が揺れている。「空も高く、いままでとあまりに違う異質さに目を疑いました」
その言葉に、ティエナがふと目を伏せた。彼女の頭に浮かんだのは、生まれ育った故郷の森の風景。
だが、今話に聞いた森にはきっと温もりはなく、どこか異質な冷たさを孕んだ森――きっと、それはまったく別のものなのだろう。
「木々には見たことのない果実が実っていましたが――口にしない方がいいと思います……勘で申し訳ないのですが」
そして、ティエナたちはロイから、四十一階層から四十三階層にかけての環境や魔物の傾向について、できるかぎりの情報を引き出した。
*
ひととおりの報告が終わった後、ロイは一拍置いて、ゆっくりと口を開いた。
「……あの、ひとつだけ。管理局の人から聞きました。補給物資を届けに来てくださったのは、お嬢様だと」
イグネアはうなずき、まっすぐ彼を見つめ返す。
「フレアローズ家より、正式な依頼として受けましたわ」
その言葉に、ロイは苦いような顔でうつむく。
「ありがとうございます……でも、任務は失敗しました。あの補給物資は……俺たちが受け取る資格はありません」
言葉にできない悔しさがにじむ。それでも、声はまっすぐだった。
「お嬢様も……ここでお帰りになられるべきです。これ以上は、危険すぎる」
その言葉に、イグネアは視線を落とし、しばし黙した。
やがて、静かな声で返す。
「たしかに、わたくしがここに来たのは、依頼を果たすためでしたわ」
そして、すっと顔を上げる。目に宿った光は、はっきりとした意志を湛えていた。
「でも……その任務は、まだ終わっていません。わたくしには、見届けねばならないものがありますの」
「……どうしても、ですか?」
「ええ。それが“冒険者”としての役目だと思っていますの」
ロイは静かに息をつき、頷いた。
「……わかりました。では、俺たちに託された補給物資を、そのままお持ちください。どうか、お嬢様の力になりますように。そして……危険を感じたら、必ず生きて引き返してください」
イグネアはやわらかく微笑む。
「心配性ですのね。でも……そのお気持ち、しかと受け取りましたわ」
その言葉に、ロイは小さく頷いた。
「……どうか、お気をつけて。お嬢様のご無事を――心から願っています」
イグネアは一歩だけ後ろへ下がり、そっとロイに一礼する。
幕の内側で、静けさだけが続いていた。




