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もと女神は冒険者はじめます!  作者: さわやかシムラ
◇◇ 第一章 ◇◇
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第20話 問いの三日間 -夜明け前の静寂-

ギルドに戻ったその日。報告や手続きが終わると、フィンは迷いのない足取りで応接室の鍵を借りた。


「少し、話がある」


その一言に、ティエナの足がわずかに止まった。さっきまで――セーフレストでのお祭りの余韻や、帰ってきた安心感に包まれていたはずの心が、冷たい何かを浴びたように静まっていく。


「え……?」


けれど、その言葉は声にならなかった。フィンの背中は、もう先を歩いている。


そして今、一行は応接室の扉の前に立っていた。中から音はしない。ただ、閉ざされた木の扉の向こうにある“気配”だけが、やけに重たく感じられた。


ノクまでもが、じっと足元に座り込んだまま、時折ティエナの顔を見上げている。その視線を受け止めきれず、ティエナは視線をそらした。


自分でも、どうしてこんなに胸がざわついているのか、よくわからない。でも、きっと――これから、何かが変わる。


 *


扉が閉まる音だけが、静かに響いた。


一行は椅子に腰を下ろしていたが、誰ひとり背もたれに身を預けてはいない。空気が、どこまでも静かだった。


その中で、フィンがゆっくりと口を開いた。


「なあ、お前……」


ティエナが、ピクリと反応する。


「紹介状には、“水魔法に長けている”ってあったんだが」「でも――ダンジョンじゃ、一度も使ってない」


言葉は静かだった。強く問い詰めるでも、怒鳴るでもなく。ただ、確認するような、落ち着いた響き。


ティエナの視線が揺れる。何かを言いかけた唇が、閉じられる。


フィンは、それを待っていたように、言葉を続けた。


「なぜ使わなかった? ……言えない理由でも、あるのか?」


沈黙。


答えは、ない。


だから、フィンは静かに言った。


「隠してるってことで――間違いねえよな」


 *


何も言えなかった。


言葉が、喉の奥で止まったまま、どうしても外に出てこない。


ティエナは、ぎゅっと膝の上で両手を握りしめていた。冷たくなった指先が、小さく震えているのが自分でも分かる。


――わたしは、“隠してた”。


頭では、そう理解している。けれど、ここで「はい」と答えてしまえば、なぜか“この今”という瞬間が、ぽろりと崩れて、全部が壊れてしまう気がして――怖かった。


このパーティには、水の神の信徒――オーキィがいる。この力を使えば、気づかれてしまうかもしれないという不安があった。もし、神として知られてしまったら……。恐れられるかもしれない。あるいは――神の化身として敬われるかもしれない。そうなったら、もう“ティエナ”ではいられなくなる。“ティエナ”として、一緒に笑っていた時間が、全部どこかへ行ってしまう気がして――それが、怖かった。


 *


重たい沈黙が、部屋を包んでいた。


誰もが、ティエナの答えを待っていた。だが、その唇からは一言も出てこない。


最初に声を漏らしたのは、ノクだった。


「……怒ってるってこと?」


声は、ほんのささやきだった。けれど、それが空気に触れた瞬間、全員の視線がノクに向く。


ノクは慌てて首をすくめ、耳をふるふると揺らす。


「ち、違ったらごめんってば……」


フィンは、わずかに視線をティエナから外した。そして、静かに首を横に振る。


「怒ってねぇよ」


その言葉は、ティエナに向けたものだったのか、ノクに向けたものだったのか。それとも――自分自身に向けたものだったのか。


答えはない。けれど、声は穏やかだった。


オーキィは一言も発しなかった。ただ、ティエナの横顔をじっと見つめたまま、ゆっくりと指先を組み直す。


その瞳にあるのは――優しさではない。信頼でも、疑念でもなく。ただ、判断を保留する静かな強さだった。


イグネアは、ふと視線を落とし、隣に座るティエナの手の上に、自分の手を重ねる。


「……ゆっくりで、いいんですのよ」


その一言は、まるで氷に小さなひびを入れるような、やさしい圧だった。


 *


再び、静寂が部屋を満たした。


ティエナは視線を落としたまま、言葉を返せずにいる。


フィンは、ゆっくりと立ち上がった。


「仲間ってのは、それぞれの力を出し合って支え合うもんだ」


「でも――力があるのに、出し惜しみして、誰かが死んだら……」


フィンはポケットからパーティ編成の申請書を取り出す。


「それが一番、悔しくて、取り返しがつかねぇ」


その言葉と同時に、彼は申請書を真ん中から破り捨てた。

破られた紙片が、乾いた音を立てて机に落ちた。


その行動には、怒りも焦りもなかった。

ただ、信頼の責任を背負う者としての覚悟だけがにじんでいた。


「だから訊いたんだ。怒ってるわけじゃねぇ」

「ただ、お前が何をできて、何をできないのか――それだけは、知らなきゃならない」

「命を預ける以上、それを知らずに進むわけにはいかねぇんだ」


そして、静かに言った。


「三日だ」

「三日のうちに、答えを出してくれ」

「それまでに納得できる返答がなけりゃ――パーティは無かったことにさせてもらう」


ティエナは、何も言えなかった。

ただ、少しだけ、唇を噛みしめる。


その手が、机の下で小さく震えていた。


 *


宿に戻ったあと、誰も多くを語ろうとはしなかった。


夕食を済ませ、風呂をすませ、それぞれが自室へと戻っていく。少し重たい空気をまとったまま、夜が静かに深まっていった。


ティエナの部屋。小さなランプの明かりが、壁に柔らかい光を落としている。ベッドの足元には、ノクが丸くなっていた。


「……ねぇ、ノク」


ティエナがぽつりと声を落とす。


「フィン、怒ってたと思う?」


ノクは、ぴくりと耳を揺らし、頭をもたげる。


「ううん。怒ってなかったよ」


「そっか……でも、こわかった」


ティエナは自分の手を見つめる。


「スタトの頃は、あんまり深く考えてなかったんだ。力も、ただの“ちょっと変わった水魔法”だって思ってた」「でも……オーキィが“信徒”だって知ってから、怖くなった」


「気づかれたらどうしようって。ずっと、喉の奥が冷たくなる感じがして……」


「わたし、“ティエナ”でいたいのに……」


ノクは何も言わずに、ティエナの足元へ寄り添ってくる。ふわりと、その背に額を乗せる。


「話さなきゃ、とは思うんだよ。ほんとは、ね」「フィンたちに、ちゃんと……でも、言える自信、なくて」


しばらく沈黙が続いた。


やがて、ノクが静かに言う。


「言いたいこと、全部じゃなくてもいいと思うよ」


ティエナは、少しだけ目を見開いた。


「全部じゃなくて、いい……?」


ノクは、こくりと頷く。


「ぼくには、“ティエナ”が見えてるもん」「フィンたちにも、少しずつ見せていけばいいんじゃないかな」


その言葉が、胸の奥にそっと届いた。全部じゃなくても、伝わるものがあるかもしれない。いまの“ティエナ”として、歩み寄れるかもしれない。


……でも。


「あーもうっ、わたしのバカバカバカバカー!」


「なんで水葬の泡なんて、あんな堂々と使っちゃうのよ……!」


ティエナはベッドの上で手足をブンブン振り回す。


その様子を見ていたノクが、小声でぽつりとつぶやいた。


「……それ、別にバレてなさそうだったけどね」


ティエナは、振り回していた腕を止めて、枕に顔を埋めた。


パタッ。


力尽きて、仰向けに倒れ込んだ。


……それでも、話さなきゃって思ってる。ちゃんと、自分のこと。でも――イグネアにだけは最初に伝えたかった。


 *


ノクには自室で待っていてもらった。きっと、そばにいたら甘えてしまいそうだったから。


イグネアの部屋をノックするには、ほんの少しの勇気がいった。


「イグネア……起きてる?」


「ええ。どうぞ」


部屋の中には、整った香の匂いが淡く漂っていた。ティエナはそっと戸を閉め、遠慮がちに部屋の中央まで進む。


「少しだけ……話してもいい?」


「ええ。ティーカップは二つございますわ」


イグネアが指差した机の向かいに、ティエナはおそるおそる座る。湯気の立つハーブティーの香りが、張り詰めた胸の奥をほんの少しだけ和らげてくれた。


それでも、最初の言葉を出すのには、時間がかかった。


「……わたし……たぶん――水の神だったの」


カップを両手で包み込んだまま、ティエナは目を伏せて言った。


「今は、人間として生きてて……女神だった頃の記憶は、思い出せないことも多いけど」

「でも……名前を聞いたとき、胸がぎゅっとなって……」「昔、その名前だった気がするって、思ったの」「それから、ずっと……怖くて。知られたら、壊れちゃうかもって」


イグネアは、何も言わずに聞いていた。眉ひとつ動かさず、ただ穏やかに、言葉の続きを待ってくれていた。


「……でも、イグネアには、話しておきたかった」


しばしの沈黙のあと、イグネアが口を開いた。


「その記憶は、本物ですの?」


「……全部じゃないけど。少しずつ、確かだって記憶が、増えてきてる」


イグネアは、静かに目を細める。


「では――今のあなた。リヴァードさんに育てられた記憶も、あるのでしょう?」


ティエナは、ゆっくりと頷いた。


「うん。じいちゃんに拾われて、育てられて……その記憶は、ちゃんとある」「今のわたしは、その記憶でできてると思う」


イグネアは、静かに微笑んだ。


「ならば、あなたはその記憶とともに今を生きる者ですわ」「伝説に育てられた、少し魔力の高い普通の少女――それも、十分に誇るべきことですのよ」

「あなたがどういう存在であるかは、他の誰かではなく、あなた自身が決めてよろしいのですわ」


イグネアは、ゆっくりとカップを置き、ティエナをまっすぐに見つめた。


「あの日、わたくしが申し上げた“また、興が乗ったときは秘密を聞かせて”という言葉を、覚えていてくださったのですね」


イグネアは、目を細めてそっと微笑んだ。

「……ありがとう」


その一言に、ティエナの胸の奥で何かが崩れた。


こらえていたものが、音もなくあふれ出す。涙が、止まらなかった。


「う、うわあああああああああああん……っ」


しゃくりあげながら、声にならないほど泣いた。肩を震わせて、顔を隠して、子どものように泣きじゃくった。


イグネアは何も言わず、ただそっと、ティエナの背中に手を添えた。


優しく、ゆっくりと撫でてやる。まるで、何もかもを包み込むように。


どれくらい泣いただろう。ようやく落ち着いた頃には、夜は、静かに、深く――更けていた。

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