第20話 問いの三日間 -夜明け前の静寂-
ギルドに戻ったその日。報告や手続きが終わると、フィンは迷いのない足取りで応接室の鍵を借りた。
「少し、話がある」
その一言に、ティエナの足がわずかに止まった。さっきまで――セーフレストでのお祭りの余韻や、帰ってきた安心感に包まれていたはずの心が、冷たい何かを浴びたように静まっていく。
「え……?」
けれど、その言葉は声にならなかった。フィンの背中は、もう先を歩いている。
そして今、一行は応接室の扉の前に立っていた。中から音はしない。ただ、閉ざされた木の扉の向こうにある“気配”だけが、やけに重たく感じられた。
ノクまでもが、じっと足元に座り込んだまま、時折ティエナの顔を見上げている。その視線を受け止めきれず、ティエナは視線をそらした。
自分でも、どうしてこんなに胸がざわついているのか、よくわからない。でも、きっと――これから、何かが変わる。
*
扉が閉まる音だけが、静かに響いた。
一行は椅子に腰を下ろしていたが、誰ひとり背もたれに身を預けてはいない。空気が、どこまでも静かだった。
その中で、フィンがゆっくりと口を開いた。
「なあ、お前……」
ティエナが、ピクリと反応する。
「紹介状には、“水魔法に長けている”ってあったんだが」「でも――ダンジョンじゃ、一度も使ってない」
言葉は静かだった。強く問い詰めるでも、怒鳴るでもなく。ただ、確認するような、落ち着いた響き。
ティエナの視線が揺れる。何かを言いかけた唇が、閉じられる。
フィンは、それを待っていたように、言葉を続けた。
「なぜ使わなかった? ……言えない理由でも、あるのか?」
沈黙。
答えは、ない。
だから、フィンは静かに言った。
「隠してるってことで――間違いねえよな」
*
何も言えなかった。
言葉が、喉の奥で止まったまま、どうしても外に出てこない。
ティエナは、ぎゅっと膝の上で両手を握りしめていた。冷たくなった指先が、小さく震えているのが自分でも分かる。
――わたしは、“隠してた”。
頭では、そう理解している。けれど、ここで「はい」と答えてしまえば、なぜか“この今”という瞬間が、ぽろりと崩れて、全部が壊れてしまう気がして――怖かった。
このパーティには、水の神の信徒――オーキィがいる。この力を使えば、気づかれてしまうかもしれないという不安があった。もし、神として知られてしまったら……。恐れられるかもしれない。あるいは――神の化身として敬われるかもしれない。そうなったら、もう“ティエナ”ではいられなくなる。“ティエナ”として、一緒に笑っていた時間が、全部どこかへ行ってしまう気がして――それが、怖かった。
*
重たい沈黙が、部屋を包んでいた。
誰もが、ティエナの答えを待っていた。だが、その唇からは一言も出てこない。
最初に声を漏らしたのは、ノクだった。
「……怒ってるってこと?」
声は、ほんのささやきだった。けれど、それが空気に触れた瞬間、全員の視線がノクに向く。
ノクは慌てて首をすくめ、耳をふるふると揺らす。
「ち、違ったらごめんってば……」
フィンは、わずかに視線をティエナから外した。そして、静かに首を横に振る。
「怒ってねぇよ」
その言葉は、ティエナに向けたものだったのか、ノクに向けたものだったのか。それとも――自分自身に向けたものだったのか。
答えはない。けれど、声は穏やかだった。
オーキィは一言も発しなかった。ただ、ティエナの横顔をじっと見つめたまま、ゆっくりと指先を組み直す。
その瞳にあるのは――優しさではない。信頼でも、疑念でもなく。ただ、判断を保留する静かな強さだった。
イグネアは、ふと視線を落とし、隣に座るティエナの手の上に、自分の手を重ねる。
「……ゆっくりで、いいんですのよ」
その一言は、まるで氷に小さなひびを入れるような、やさしい圧だった。
*
再び、静寂が部屋を満たした。
ティエナは視線を落としたまま、言葉を返せずにいる。
フィンは、ゆっくりと立ち上がった。
「仲間ってのは、それぞれの力を出し合って支え合うもんだ」
「でも――力があるのに、出し惜しみして、誰かが死んだら……」
フィンはポケットからパーティ編成の申請書を取り出す。
「それが一番、悔しくて、取り返しがつかねぇ」
その言葉と同時に、彼は申請書を真ん中から破り捨てた。
破られた紙片が、乾いた音を立てて机に落ちた。
その行動には、怒りも焦りもなかった。
ただ、信頼の責任を背負う者としての覚悟だけがにじんでいた。
「だから訊いたんだ。怒ってるわけじゃねぇ」
「ただ、お前が何をできて、何をできないのか――それだけは、知らなきゃならない」
「命を預ける以上、それを知らずに進むわけにはいかねぇんだ」
そして、静かに言った。
「三日だ」
「三日のうちに、答えを出してくれ」
「それまでに納得できる返答がなけりゃ――パーティは無かったことにさせてもらう」
ティエナは、何も言えなかった。
ただ、少しだけ、唇を噛みしめる。
その手が、机の下で小さく震えていた。
*
宿に戻ったあと、誰も多くを語ろうとはしなかった。
夕食を済ませ、風呂をすませ、それぞれが自室へと戻っていく。少し重たい空気をまとったまま、夜が静かに深まっていった。
ティエナの部屋。小さなランプの明かりが、壁に柔らかい光を落としている。ベッドの足元には、ノクが丸くなっていた。
「……ねぇ、ノク」
ティエナがぽつりと声を落とす。
「フィン、怒ってたと思う?」
ノクは、ぴくりと耳を揺らし、頭をもたげる。
「ううん。怒ってなかったよ」
「そっか……でも、こわかった」
ティエナは自分の手を見つめる。
「スタトの頃は、あんまり深く考えてなかったんだ。力も、ただの“ちょっと変わった水魔法”だって思ってた」「でも……オーキィが“信徒”だって知ってから、怖くなった」
「気づかれたらどうしようって。ずっと、喉の奥が冷たくなる感じがして……」
「わたし、“ティエナ”でいたいのに……」
ノクは何も言わずに、ティエナの足元へ寄り添ってくる。ふわりと、その背に額を乗せる。
「話さなきゃ、とは思うんだよ。ほんとは、ね」「フィンたちに、ちゃんと……でも、言える自信、なくて」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、ノクが静かに言う。
「言いたいこと、全部じゃなくてもいいと思うよ」
ティエナは、少しだけ目を見開いた。
「全部じゃなくて、いい……?」
ノクは、こくりと頷く。
「ぼくには、“ティエナ”が見えてるもん」「フィンたちにも、少しずつ見せていけばいいんじゃないかな」
その言葉が、胸の奥にそっと届いた。全部じゃなくても、伝わるものがあるかもしれない。いまの“ティエナ”として、歩み寄れるかもしれない。
……でも。
「あーもうっ、わたしのバカバカバカバカー!」
「なんで水葬の泡なんて、あんな堂々と使っちゃうのよ……!」
ティエナはベッドの上で手足をブンブン振り回す。
その様子を見ていたノクが、小声でぽつりとつぶやいた。
「……それ、別にバレてなさそうだったけどね」
ティエナは、振り回していた腕を止めて、枕に顔を埋めた。
パタッ。
力尽きて、仰向けに倒れ込んだ。
……それでも、話さなきゃって思ってる。ちゃんと、自分のこと。でも――イグネアにだけは最初に伝えたかった。
*
ノクには自室で待っていてもらった。きっと、そばにいたら甘えてしまいそうだったから。
イグネアの部屋をノックするには、ほんの少しの勇気がいった。
「イグネア……起きてる?」
「ええ。どうぞ」
部屋の中には、整った香の匂いが淡く漂っていた。ティエナはそっと戸を閉め、遠慮がちに部屋の中央まで進む。
「少しだけ……話してもいい?」
「ええ。ティーカップは二つございますわ」
イグネアが指差した机の向かいに、ティエナはおそるおそる座る。湯気の立つハーブティーの香りが、張り詰めた胸の奥をほんの少しだけ和らげてくれた。
それでも、最初の言葉を出すのには、時間がかかった。
「……わたし……たぶん――水の神だったの」
カップを両手で包み込んだまま、ティエナは目を伏せて言った。
「今は、人間として生きてて……女神だった頃の記憶は、思い出せないことも多いけど」
「でも……名前を聞いたとき、胸がぎゅっとなって……」「昔、その名前だった気がするって、思ったの」「それから、ずっと……怖くて。知られたら、壊れちゃうかもって」
イグネアは、何も言わずに聞いていた。眉ひとつ動かさず、ただ穏やかに、言葉の続きを待ってくれていた。
「……でも、イグネアには、話しておきたかった」
しばしの沈黙のあと、イグネアが口を開いた。
「その記憶は、本物ですの?」
「……全部じゃないけど。少しずつ、確かだって記憶が、増えてきてる」
イグネアは、静かに目を細める。
「では――今のあなた。リヴァードさんに育てられた記憶も、あるのでしょう?」
ティエナは、ゆっくりと頷いた。
「うん。じいちゃんに拾われて、育てられて……その記憶は、ちゃんとある」「今のわたしは、その記憶でできてると思う」
イグネアは、静かに微笑んだ。
「ならば、あなたはその記憶とともに今を生きる者ですわ」「伝説に育てられた、少し魔力の高い普通の少女――それも、十分に誇るべきことですのよ」
「あなたがどういう存在であるかは、他の誰かではなく、あなた自身が決めてよろしいのですわ」
イグネアは、ゆっくりとカップを置き、ティエナをまっすぐに見つめた。
「あの日、わたくしが申し上げた“また、興が乗ったときは秘密を聞かせて”という言葉を、覚えていてくださったのですね」
イグネアは、目を細めてそっと微笑んだ。
「……ありがとう」
その一言に、ティエナの胸の奥で何かが崩れた。
こらえていたものが、音もなくあふれ出す。涙が、止まらなかった。
「う、うわあああああああああああん……っ」
しゃくりあげながら、声にならないほど泣いた。肩を震わせて、顔を隠して、子どものように泣きじゃくった。
イグネアは何も言わず、ただそっと、ティエナの背中に手を添えた。
優しく、ゆっくりと撫でてやる。まるで、何もかもを包み込むように。
どれくらい泣いただろう。ようやく落ち着いた頃には、夜は、静かに、深く――更けていた。




