第2話 これは、わたしのはじまり
――これは、まだティエナが冒険者として歩き出す前のこと。
朝靄の中、森は静かだった。
小鳥のさえずりも風の音も控えめで、まるで誰かの門出を見守っているかのようだ。
木造の小屋の前で、ティエナはリュックの紐をきゅっと締めた。
淡い水色の肩までの髪がそよぎ、青いマントがふわりと揺れる。
胸元の宝石が光り、背には金色に輝く弓と矢筒。
足元には、白くもふもふした小さな竜――ノクがちょこんと座っていた。背中にはおそろいのマント。
「本当に行くの?」
白い竜の瞳には、ほんの少しだけ寂しそうな色が揺らめく。
「うん。じいちゃんの言いつけだもん」
ティエナは小屋を振り返り、身体の前で手を合わせた。
「……行ってきます」
返事はない。でも、その静けさは温かかった。
その姿を見ていたノクは、少しだけ呆れたような笑みを浮かべる。
「リュックの紐、緩んでるよ」
「え、また!? ありがと、ノク」
しゃがんで結び直すと、ノクが大きくため息をついた。
「まったく……じいさまの教え、ちゃんと覚えてるの?」
「うぅ、耳が痛い……でも、ノクがいるから大丈夫だよね」
「……そうだね。まぁ、ぼくがしっかり見てるから、安心しなよ」
ノクは、その小さな身体で誇らしそうに背筋を伸ばした。
*****
――あ、改めて自己紹介するね。
わたし、ティエナ。街で暮らすために、この森を出ることになったんだ。
これまでずっと、森の中でじいちゃんと白い竜のノクと一緒に、静かで穏やかな暮らしを送ってきた。
じいちゃんは元・冒険者で、わたしに狩りやサバイバルの方法を厳しく教えてくれた人。
食料の確保や獲物の解体法まで、毎日みっちり鍛えられて、狩人として育てられてきたんだ。
……でも、そんなじいちゃんは、先月静かに亡くなった。
だから今、わたしはじいちゃんの言いつけ通り、森を出て人の街で暮らしてみようと思ってる。すっごく不安もあるけど、すっごく楽しみでもある――そんな気持ち。
あと、わたしにはひとつ秘密がある。
実はわたし、転生前の記憶を持っていて……。
……元・神さまだったんだ。
水と命を司る女神、ティエル=ナイア。
でも今は、その力も記憶もほとんど忘れてしまっていて、普通の人間として生きようって決めたんだ。
このことは、ノク以外、誰にも話したことがなくて。じいちゃんにも……最後まで打ち明けられなかった……。それが、少し心残りなんだ。本当のこと、言えばよかったかなって。
小屋の脇にある苔むした小さな祠。
ここは、じいちゃんが毎朝掃いていた、静かで大切な場所。
わたしにとっては、『じいちゃんのお墓』の代わりでもある。
「じゃあね、じいちゃん。また来るね」
そう言って手を合わせると、空気がきらりと揺らめいたような気がした。
朝露が輝くように、優しく、静かに。
わたしは、じいちゃんと一緒に過ごしたこの森の空気を、肺いっぱいに大きく吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐き出していく。
――よし。この森ともしばらくお別れだ。前を向いてしっかり歩こう。
「さて、街での暮らし、思いっきり楽しんでみようかっ!」
その声に、ノクがくすっと笑ってくれた。
「張り切ってるね。……でも、無理はしないように」
「うん、大丈夫。ノクが一緒だから」
肩にひょいと乗ったノクが、ふんわりと尻尾を巻いた。
「じゃあ、行こうか。街ってやつを見にいこう」
「うんっ!」
わたしたちのマントを軽やかにはためかせる風が、とても気持ち良かった――。
*****
森を抜けると、景色がぱっと開けた。
背丈ほどもある木々の壁の向こうに、緩やかな草地と一本の街道。
その先に、遠く「スタト」の街の屋根が霞んで見える。
「……うわぁ。ほんとに、街が広がってる……」
初めての一人旅だ。白竜のノクがお供にいるから、厳密には独りではない。けれど、行き先も歩く速さも、自分の意志で決めている旅は、これが初めてだった。
ティエナは小さく息を呑み、眩しそうに空を見上げた。
「何度か来たことがあるはずなのに、遠くに見える街並みが、今日はまったく違って見えるね!」
「そりゃそうだよ。じいさまが一緒じゃないし、荷物も背負ってるし。大変さが全然違うよね」
肩に乗ったノクが、呆れたように笑った。
「そうだとしても……今日は、わたしの記念すべき第一歩だから!」
つられたように笑いながら、ティエナは一歩、草を踏みしめて歩き出した。
――そのとき。
脇にある草むらの奥から、バキバキッと枝を踏み砕くような音が響いた。
「ノク、今の音……」
「うん、来るよ。たぶん……ツノイノシシ」
茂みを割って、黒い体毛と赤く濁った瞳を持つ魔物が現れた。鋭い牙、禍々しい気配。
それをノクが視界にとらえると、ぼそっと呟く。
「最近この手の魔物増えて来たね……」
瘴気とマナが混じりあって生まれた『ミアズマ』に侵され、活性化した個体。
こうした存在を人々は魔物と呼ぶ。
「普通のツノイノシシより、だいぶ凶暴化してる……」
ティエナは弓に手を伸ばしかけ、ふと止めた。
「……じいちゃんだったら、弓を選ぶと思うけど」
彼女は右手をすっと掲げ、水の気配を集める。
「水よ、刃となれ――《穿て》!」
言い放つ声とともに、空気が震え、ティエナの掌から螺旋状の水流が放たれた。
鋭い槍と化した水が魔物の頭部を貫き、突き飛ばす。
一瞬にして地面に転がった魔物は、もう動かなかった。
ティエナは魔物の横まで慎重に足を運ぶと、その場に屈んで手でその身体に触れる。
「よし……! うん、お肉は新鮮そう。いい感じ」
「あのさ、『権能』――軽々しく使っちゃダメだって」
ノクがティエナの肩に飛び移り、耳元で囁いた。
「前に『目立つな』って言ったの、覚えてる?」
「だって、矢を節約したかったし……こっちのほうが確実だから」
ティエナは苦笑しながら、腰から小瓶とナイフを取り出した――だけど、再びナイフをしまい、代わりに両手をかざした。
「……ここで解体するのは時間かかるし、匂いも出るし……今日は特別ね」
手のひらから淡い水の膜があふれ、魔物の体を包み込む。
「《清流の手》」
神の権能に応じて、空中に透明な水が滲むように現れる。その水は細い糸となって魔物の死体へと絡みつき、触れた端から血と汚れをそっと剥がし落としていく。
汚れが洗い流された死体は、まるで光を帯びたように清められていった。
続いて、泡状の水がふわりと展開される。
「《水葬の泡》」
魔物の体がすっぽりと水の泡に包まれ、縮んでいく。
やがて手のひらに収まる水の塊となり、ティエナはそれを小瓶に注いで封をした。
「……誰かに見られたら、ほんとにアウトだからね」
ノクが警告するように言う。
「うん、気をつける」
わかっているのか、わかっていないのか、笑顔で返答するティエナの肩で、ノクが眉をひそめながらも小さく頷いた。
だが、その会話の一部始終を、木陰からじっと見つめる瞳があった。
金色の髪に、赤を基調とした装飾の多い服。
腰には宝飾の施されたレイピア。
イグネア・フレアローズ。
森の調査依頼で訪れていた彼女は、突如走った魔力の波動に驚き、足を止めた。イグネアの感覚からしても、その揺らぎはどう考えても尋常なものではなかった。
木陰から見える青い髪の少女は、どう見ても田舎の旅人風だ。
けれど、たった一撃で魔物を仕留めたその魔力制御と出力に、イグネアは内心で舌を巻いた。
自分でさえ、あれほどの貫通力と命中精度を保つ魔法を一瞬で展開するのは難しい、と。
名前も知らない、ひとりの少女。
しかし、その少女がただ者ではないことだけは、はっきりしていた。
「――面白うございますわ」
誰にも聞こえないほどの小さな囁きを零す。
イグネアの胸の内に、静かな興味が湧き上がった。
彼女は踵を返し、優雅な足取りで草むらを離れていった。
その瞳には、鋭くも楽しげな光が宿っていた。




