第97話 水面の向こうへ
わたしは全ての神の力を本当の意味で取り戻して――意識下の空間から抜け出したはず――。
だけど、ここは違う。
まだ現実じゃない。夢うつつのような世界。
水が――どこまでも広がっている。
水面に波紋が浮かぶ。
覗き込んでみると、そこにぼんやりと私の顔が映る――。
……?
『私』の顔!?
ティエル=ナイアとしての顔が水面に映っている。
慌てて、わたしは自分の顔に触れてみた。
う~ん……たぶん……ティエナだと思う。正直触っただけじゃわかんない。
どっか別に鏡ないかな……。
あー、でもこれやっぱり夢かな。
だって、わたしはもうティエナだし。神の姿なんてとうに失われたわけで……。
そんなことを、ぼーっと考えていた。
<……ティエナ>
ここ……どこなんだろう。
<……ティエナ?>
どうやって帰ったらいいのかなぁ。
<話を聞きなさい、ティエナ!>
「ひゃあ!?」
そーっと水面を覗き込むと、目くじらを立てた『私』がそこにいた。
<貴方はどうして、そんなに間抜けなのですか>
「え、それは……『私』だから?」
<私は……そんなに間抜けじゃありません>
「でも、わたしと一緒で、ケーキ好きでしょ?」
水面の向こうで『私』は少し考える素振りを見せたけど、照れくさそうにこくりと頷く。
「クッキーも好きでしょ?」
こくり。
「恋愛写本も読みたいよね?」
こくり。
「そう言えば帝国にも美味しいケーキ屋あるらしいから行かないとね?」
<それは聞き捨てならない情報ですね。私も行かないと>
「ほら、わたしと一緒じゃん」
そこで、『私』はバツが悪そうに目を伏せながら、ごほんと咳払いをした。
<ちゃんと私の話を聞きなさい>
「はーい」
『私』をからかうのもなかなか楽しいけど、ちゃんと話も聞いてあげないとね。
<いいですか、ティエナ。貴方は今、選ばなくてはなりません。神として生きるのか、それとも人として生きるのかを――>
……。
考えたことも無かった。
神とか、人とか関係なくて、わたしはわたしだと思っていたけど。
生き方を選ぶ……?
神として、というのはティエル=ナイアとして?
人として、というのはティエナとして、かな。
でも、その生き方を選ぶことで、いったい何が変わるのだろう。
<この三十年ほど、天界は水の神を欠いた状態で進んできました。ダンジョンで会ったリュミナ=シエの話では、私の代わりは彼がしてくれているようでしたが、歪な状態であることは間違いありません>
そんな事言ってた気がするなぁ。腹が立ったから、いろいろ忘れてたよ。
<スタト街の地下水路にミアズマが満ちていた事を覚えていますか?>
あぁ、覚えている。
……ノクと一緒に入ったっけ。
「エンラットが大量発生してたやつだね! 懐かしいなぁ」
わたしの言葉に『私』が呆れたようにため息をつく。
<本来であればあのような事が起こるわけもなく、あれは天界に私という水の神が欠けている為に起きた、不具合のようなものなのです。
このまま放置すれば地上で水に関わる色んなところで、ミアズマの気配が増していくでしょう>
そうなると今度は魔核の魔物ではなく、普通に魔物が増えてしまうということか。
「それって良くないよねー? ……でも、対処する方法あるの?」
『私』はこくりと頷く。
<水の神が戻れば良いのです。――その為には、ティエナ。あなたが神として天界に戻るか、神の力を放棄して別の誰かに譲り、それを神として天界に送る――このどちらかになります>
人を辞めて神に戻れと、そう言われているのか。
さもないと、地上は魔物で溢れるぞ、と?
またも大規模な人質を取られている気分だ。しかも今度は自分に言われている。これは困った。
「はぁ……。じゃあわたしが天界に帰ればいいんだね? 神の力をホイホイ誰かに渡すわけにもいかないし」
みんなと……離れ離れになるのは、嫌だなぁ。
でも、わたしのワガママで地上を危機に晒す訳にはいかないよね……。
『私』は目を瞑り、黙って聞いていた――そして、まるで内緒話をするみたいに小声で語りかける。
<私にひとつ、提案があります。ティエナ、貴方はノクの魔核を持っていますね?>
「うん? 持ってるけど……これがどうかしたの?」
わたしは収納袋から白銀に輝く宝石のような魔核を取り出した。
<神の力を全て――その魔核に移すのです。そうすれば、ノクは新たな水の神として蘇るでしょう>
……!?
「えっ……!? それは本当!?」
『私』は静かに頷いた。
<その代わり、貴方は全ての権能を失い、ただの人になります。それでも――>
「おっけー! それでいい! 神の力全て捨てるから、ノクを蘇らせよう!」
悩むことなんて何も無い。
<即答なのね>
『私』は思わず苦笑する。
わたしはノクが生きてさえいてくれるなら、それで良かった。
「そうと決まればさっさとやっちゃお? どうすれば良いの?」
<では、その魔核をこちらに差し出してください>
『私』の言うがままに、そっと魔核を水面へ重ね、ゆっくりと沈みこませる。
水面の向こうの『私』の手元に魔核が移った。
そして『私』――ティエル=ナイアの身体がひときわ大きく蒼く輝くと、優しい微笑みをたたえてわたしを見つめる。
<例え神の力を失おうとも、安心なさい。いままでも、そしてこれからも、貴方は貴方。なんでもないただの『ティエナ』なのですから。自信を持って生きていきなさい>
「ありがと。でも、そんなこと言われなくてもわかってるって」
神としてのわたしじゃなくて、ティエナとしてのわたしを、皆が、友が、支えてくれた。
失うものなんて何も無い。
「ねぇ、『私』!」
わたしと『私』の視線が交わる。
「今まで、ありがとう、それと……さようなら!」
その声を聞くと『私』――ティエル=ナイアは青い瞳をゆっくりと細め、そしてその身体が蒼い光の粒子となり、全て白銀の魔核へと吸い込まれていく――そして、一際大きく輝くと、その光の中から、全身の毛並みが蒼く染まった美しい竜の姿が現れた。
あぁ……。ノクだ。
色は変わっちゃったけど、あれはノクだ……!
身体の周りに水滴が弾け、水が宙に舞い、羽衣のように身体を覆う。
立派に成長した蒼き竜の姿になって、帰ってきた……!
わたしは水面の向こうへ叫ぶ。
「ねぇ、ノク! 聞こえる!? わたしだよ、ティエナだよ! わかる!?」
ノクの瞳がこちらを捉え、ニッコリと微笑んだ。
「なんだよ、ティエナ。また泣いてるの? 泣き虫だなぁ本当に」
「うん、うん……! しょうがないよね! 今ぐらいは許してよ……!」
わたしの言葉にノクは優しく目を細める。
「ごめんね、ノク! わたしの役割押し付けちゃった! 水の神様として、頑張ってね!?」
ノクに少しでも近づきたくて、わたしは水面に顔をぐいっと近づける。
そんなわたしの顔を見て、ノクがいつものように意地悪そうに笑うのだった。
「ほんとに、面倒なことは全部ぼくに回すんだから……。ちゃんと、報酬も用意しておいてよ?」
こぼれた滴が、水面に波紋を呼ぶ――。
「えへへっ、エルデンバルにある王室御用達のケーキ屋さんで何か買っていくね!」
「じゃあ、それで。期待せずに待ってるよ」
目を細めるノク。
水面が大きく波打って――この夢のような時が終わりを告げようとしている。
「うん、待ってて! 必ず、必ず会いに行くから!」
わたしは手を振った。
ノクは満足そうに頷いた――。
水面の向こうは美しくて――そして、遠かった。
風が止み――波紋が消える。
わたしは不思議なこの天と地をわかつ境界線をいつまでも眺め――そして、見知らぬ王宮の一室で目が覚めた。




