第96話 弓に宿る想い
ネリオの額を矢が捉え――眉間を貫き、そのまま彼方へと飛んでいく。
「がっ……!」
ネリオの身体が大きく揺らぎ、その場に膝をつく。
このあやふやな意識下の空間において、致命傷というものはないのかもしれない。
ただ、ネリオの意識がじわじわと拡散していくことだけが見て取れた。
わたしは弓を携えたまま、ネリオへと歩み寄った。
輪郭がほころんでいくネリオが、弓をきつく睨みつける。
「忌々しい……リヴァードめ……! 人の心のない悪鬼が、最後の最後まで……邪魔をするのか……!」
腹の底から怨嗟の声を、うめくように吐き出す。
ネリオとじいちゃんの間に何があったのだろう。
それはわからない。わからないけど……。
わたしの家族を、そんな風に言うことだけは、どうしても許せない……!
「じいちゃんのこと、何にも知らないくせに……! 勝手なことばっかり言って……!」
わたしはネリオの眼前に弓を突きつけた。
涙がポロポロとこぼれた。
「じいちゃんのこと、何もわかってないくせに! じいちゃんはね……厳しかったけど、凄く優しかった……。じいちゃんを貶める言葉、わたしは絶対に許さないから!」
ネリオがニタリと口角を吊り上げ、いやらしく笑う。
「奴もどうせ神の力に魅入られて、手元で育てていただけさ。いつか必ずその力を奪おうと考えてな。へまをして先に死んでしまっただけだろう」
パァン!
「……最低」
わたしは思わずネリオの頬を叩いていた。
涙が止まらない。
……残念だけど、この人とは、分かり合うことは出来ない。
「神の力は全て返してもらうけど……最後に貴方にも見せてあげる」
まずわたしは目を閉じて、自分の中に――ネリオに奪われていた神の欠片も含めて――権能がすべて戻っていることを確かめた。
そして……
これは、やらなくてもわかっていたから、今まで一度もやったことはなかったけど――
ネリオに見せてやろう。じいちゃんの想いを。
《泡涙のさざ波》
物品や場に染みついた『感情の残滓』を読み取る、感応型の権能だ。誰かが何かに込められた強い想い、記憶、情動などが残っている時にだけ、その一端に触れられる。
それを、じいちゃんの形見の弓に使う。
この場は意識下の空間。わたしとネリオの意識が繋がっている場所だ。――だから、ネリオにもきっと鮮明に見えることだろう。
弓に宿った想いが形になる――。
空間に煌く粒子が現れたかと思うと、泡のように膨れ上がり――やがて人の形を成していく。
白髪の目つきの鋭い老人――いつもどこか不機嫌そうで、でも鋭い視線の奥にはいつだって水のような優しさを湛えている。
その視線がわたしに触れる。
そして小さく頷くと、一歩ずつ、ゆっくりと、わたしの方へ歩み寄ってくる。
「ティエナか……ここまで、よく耐えてきた。よく頑張ったな」
武骨な手が、わたしの髪を優しく撫でた。
懐かしい、大きな手――。
旅を終えた後も、生活のために、わたしのために、ずっと酷使し続けてきた、じいちゃんの硬い指先が――わたしの髪を梳く。
「じいちゃん……」
さらに涙が溢れてしまう。顔がもうぐしゃぐしゃだ……。
神の力を隠すのにも、じいちゃんの名声に助けられた。
この旅の中で、わたしはじいちゃんの面影に――たくさん、たくさん抱きしめられて、ここまでやってきた。
わたしは、じいちゃんの大きな身体に手を回して、ぎゅっと力いっぱい抱きしめた。
じいちゃんがそっと身体を抱き留めてくれる。
少しの間、その温もりを感じていた。
「積もる話もあるだろうが、ここに長居は禁物だティエナ。もう行きなさい」
それだけ言うと、肩をつかんで、優しく引き離す。
……もっと一緒に居たい。離れたくない。
でも、わかってる。
これはじいちゃんの残滓。お別れは――もうとうの昔に済ませたのだ。
「うん、ありがとう、じいちゃん。わたし……行ってくる」
最後ぐらいは涙を拭いて、笑顔でお別れをしよう。
じいちゃんの身体からそっと離れて。にっこり笑った。
わたしの顔を見つめて、じいちゃんも微笑みを浮かべる。
わたしはネリオに振り返り、
「さっきの悪口は、じいちゃんに直接謝ってよね。……じゃあね」
それだけ言うと、意識を集中して――この意識下の空間から抜けてわたしの身体へ戻るように、神の力を働かせた――。
*****
養女を見送ったリヴァードは、ネリオを振り返る。
その相貌は、先ほどまでの優しい面持ちとはかけ離れており、視線だけで射殺すかのように冷たく、鋭かった。
「ひっ!」
ネリオが思わず小さな悲鳴をあげる。
「お前……俺の養女に酷いことをしてくれたようだな」
自意識の崩れから輪郭が崩壊し始めているネリオは、リヴァードの気迫におされ尻をついて後退る。
声を震わせながらリヴァードに呪詛を投げかけた。
「おおお、お前が……水の資質で私より優れていたお前が、私の家に養子になど来なければ……私は両親に認められ続けたはずなのに……!」
「だから……出て行ってやっただろう」
「その後も、私はずっと比べられ続けた……! だから、調べた……! お前……王家の血を引いていたんだな!? ずるい、ずるいぞ! あのヴァルセリオと同じ資質……! そんな奴が忌子として隠され……私の家に来るなど、私が勝てるはずもない……!」
リヴァードは腕を組み、黙って聞いていた。
「それなのに水の神官としての地位も名も何もかも捨てて、ただの『狩人』として生きるだって? ば、馬鹿にしやがって! お前が『リヴァード・アクレディア』として生きてくれていれば私はこんなに追い詰められなかった……! 私が……生家を滅ぼすこともなかった……!」
リヴァードは、軽くため息をついて顔を上げた。
「言いたいことは、それだけか?」
リヴァードは、ゆるりとネリオへ詰め寄っていく。
そしてネリオの顔へ開いた手を近づけていく。
「ひ、ひいいいいい!!!」
ネリオは恐怖に顔を引きつらせ――そのまま輪郭を失って霧散した。
リヴァードはつまらなそうに、眉を上げる。
「リヴァード・アクレディアなんて名乗ったら……養女が怖がるだろうが」
そうしてリヴァードの残滓もまた、無へと帰した。




