第95話 遺された弓
「ネリオォォォォォォ!!!」
跳躍と共に振りかざしたナイフを、ネリオの頭頂めがけて振り下ろす。
だけど、ネリオは笑みを崩さずに、
「そのようなもの!」
迫るナイフを、ネリオは頭上に集めた水で絡め取り、即座に凍結させて受け止めた。
余裕の笑みを浮かべるネリオ。
「――だよね!」
もとより、この一撃が通るなんて考えていなかった。
ナイフが宙に繋ぎ止められた瞬間、わたしは躊躇なく柄から手を離し、その勢いのままネリオの前へ滑り降り――その手をガッシリと掴んだ。
ネリオの手を直接掴んだことで、わたしは神性の一端に触れる――!
「神の力、返してもらうよ!」
渡すことができたのだから、取り戻すことだってできるはずだ。
戻ってこい、神の力。
水よ、応えろ。すべての命を育む清き力よ――。
*
キィィーーーーーーン。
耳鳴りのような音がする。
変な感じだ。
上下もわからない。まるで、水の中を揺蕩っているかのようだ。
暑くも寒くもない。あらゆる感覚が薄れてしまったような空間に、わたしはいる。
そして同じ空間に――ネリオもいた。
その表情には、先ほどまでの余裕は微塵も感じられなかった。
「なんだここは……意識下の空間――?」
神の力が共鳴し、互いの意識が混ざり合っている状態――とでも言えばいいのだろうか。
今なら、少しくらいは言葉が届くかもしれない。
わたしは胸の内で渦巻いていた問いを、ネリオに投げつけた。
「貴方は何をもって神の力を欲するの? 世界を統べて――その先に何を求めるの?」
波紋のように空間が揺らぎ、わたしの声はその向こう側にいるネリオへと、確かに届いていく。
「世界を統べたその先――世界中が、誰よりも優秀なのは私だと認める――」
思わず漏れたその言葉に、ネリオはハッとして口元を押さえた。
顔は羞恥にまみれ、唇を噛みちぎらんばかりに歪んでいる。
この空間が意識の底で繋がっているがゆえに、わずかな油断で心の内側をさらけ出してしまうのだろう。意志をしっかり保っていなければ。
……まあ、わたしは見られて困るようなものはないけれど、相手は違うようだ。
「そんな――つまらないことなの?」
「おのれおのれおのれ! 貴様にはわかるまい!? 忌々しいリヴァードの娘よ!」
「うん……わかんないや」
「神の力さえあれば、誰も私を無視することは出来なくなる! この力は絶対に返さんぞ!」
ネリオが咆えると、空間そのものがうねり、水の奔流が現れる。
権能――《清流の手》による水召喚だ。巨大な水のうねりがわたしへと迫る。
だが、わたしも同じように権能を用いて水を呼び出し、その奔流を正面からぶつけ返した――。
荒ぶる水が寄せては返す。
身体が、心が、その水に呑まれないように。互いに意識をしっかり保ち、その奔流をぶつけ合う。
永遠にも感じるせめぎあいが、ここで繰り広げられた。
「小娘、貴様も理解していると思うが、ここは意識下の空間。つまり、だ」
ネリオの相貌が怪しく光る。
突如ネリオの手に現れる金の錫杖。
「血肉になるまで磨き上げてきた力であれば、この場でも使えるということだろう!?」
「……なにを!?」
まるで手足のようになるまで振るい続けた武器や術なら、意志の力でこの空間に具現化できるということ……!?
わたしの反応が一歩遅れた。
ネリオの魔力が膨れ上がる。
それは権能とは違う、純粋な魔法の発動。錫杖がわたしに向けられ、その先から光の鎖が迸り、瞬く間にわたしの身体を縛り上げる。
……しまった!
これは記憶にある!
わたしが水の大精霊と同化していた時にネリオが放った『封印術』!
わたしの神の力を絞り出すように激しい衝撃が全身を襲う!
「ああああああああ!!!」
身体から……神性が抜ける……!
「気付いたか娘! この『封印術』は吸い出した力を私に封印する魔法! あの日あの時、貴様が自壊などしなければ、あの場で神の全ての力をこの身に宿せていたものを! だが、今度こそすべての力をいただくぞ!」
ぐ、ぐああああああああ………!!!!!!
負けない……!
意識を強く……!
だけど、術の力は強く――。抵抗も空しく、全身から力が抜けていくのがわかる。
その流れに呑まれるように、わたしの神の力も零れ落ちてしまう。
そして光の鎖から解き放たれ、わたしは地面ともわからない空間に倒れ込んだ。
「ふ、ふははははは! 神の力を、全ての力を、手に入れたぞ……!」
勝利に高ぶり両手を握り締めたネリオが、胸を反らせて天を突くような高笑いをあげている。
視界が滲む。
意識が混濁していく。
神の力を失って――わたしには抗う術が――
視界に映る、わたしの腕に巻かれた銀のブレスレット。それがわずかにキラリと輝く。
これは――ウィンディがくれた物だ。
あの時のウィンディの姿が、共にいたアクセル、グロウの姿が脳裏をよぎる。
そして、次々と、縁のある人たちの顔が思い浮かぶ――。
ノクとの決戦の時……シルマークさん、やっぱり強かったなぁ。
レオも……なんだかんだ言って、悪いやつじゃなかったんだよね。ただボタンを掛け違えちゃっただけなのに……大きく道を外れてしまったよね。
オーキィとフィンが駆け付けて来てくれたことも、嬉しかった。あの二人……ずっと仲良しで、わたしの大事な仲間だ。
わたしの心が折れそうだった時、イグネアがわたしを叱りつけてくれたね。いつだって、何度だって、わたしを奮い立たせてくれるのはイグネアだった。
ああ、ノク。ノクは、終焉の竜になっても、とても綺麗で、強かった――。もっと、ずっと一緒に居れるって思ってた。こんな別れが待っていたなんて……。今でも信じられない。
シルヴィオさん……。ずっとわたしの神の欠片を守ってくれててありがとう。そういえば最後になんて言ってたっけ……。
……。
ああ、そうか。
まだだ。まだ、わたしはやれる。
みんなが待ってる。みんなの所に帰らなきゃならない。
たとえ神の力を失っても――
血肉になるまで磨き上げてきた力なら――わたしにも、ある――!
手に力を込める。わたしは意識の底から、最後の武器を掴み取る――!
「ネリオ!」
わたしの呼びかけに、勝ち誇った顔でネリオがこちらを振り返る。
もう何もなす術はないと思い込んでいる――その油断を、わたしは見逃さない。
――淀む空間に閃く、刹那の躍動。
ネリオの額を――輝く一本の矢が撃ち貫いた――。




