第94話 因果を越えて
皇帝はネリオによって背から刃で貫かれ、地面に崩れ落ちた。
「がはっ……! セ、セレノスは……なにを、しておる……!」
ヴァルセリオは地面を這ったまま胸元に手を当てる。
「セレノスですか? そんな人はもうとっくに居ませんよ。ここに居たのは、最初から私です。幻影魔法は得意なんですよ、ほら」
そう言いながら、セレノスの姿を模してみせる。
「陛下が凍結魔法を拡散したあの日、この人には湖の底へ沈んでいただきましたとも。その時から、陛下が相対していたのはずっと――私です」
ネリオは再び自身を元の――水の神官衣に身を包んだ姿に戻った。
そして、ヴァルセリオに一歩近づくと、
「おっと、回復魔法は使わせませんよ。封印魔法が得意なのもご存知でしょう、陛下?」
そう言い放ちながらヴァルセリオを蹴り上げた。
「き、貴様……なぜ、動ける……! 我とセレノス以外は凍結した……はず……」
「それは陛下がおっしゃってたでしょう? 神は凍結できないと」
ヴァルセリオの目が驚愕で見開かれる。
「……どういう、意味だ……!」
「その昔、神の降臨から水の大精霊の討伐まで任せていただき、助かりました。その時にね、神の力を少々拝借しておいたんですよ」
わたしの脳裏に当時のネリオの姿が思い浮かぶ。
度重なる封印術の失敗。だが、そのたびに『水の大精霊』の力は確かに削られていった。私が自ら滅びを選んだため、最終的に封印そのものは成らなかったが、この男はそれを「失敗した」と漏らしていた。
――あの時には、すでに力を奪われていたのだ。
わたしは水の塊として放出した神の力に手を伸ばしたけど――遅かった。
ネリオが伸ばした手が蒼い輝きを吸い上げる――。
「神の力で老化を抑えていたのに、わざわざ加齢していく幻影を重ねて、この一瞬のために三十年以上待ちました――長かった」
わたしはネリオの死角に紛れるよう一瞬で身体を沈ませて水の塊の後ろに隠れると、しゃがんだまま疾駆して、ネリオの手首目掛けてナイフを振り上げた。――が、硬い衝撃に弾かれる。
「くっ……! 《清流の手》かっ!」
ネリオの手首周りには一瞬にして水の膜が生じ、それが即座に凍り付いて氷の防壁へと変わっていた。
「そう言えば、ご挨拶してませんでしたね、ティエナさん。ご存知かもしれませんが、私はネリオ・アストリアと申します」
そう言いながらネリオが頭を下げる。
その周りには水流が渦巻いた。
「何が目的なの!? 神の力を返して!」
わたしは水のコントロールを奪取しようと思ったけど――できない。
神の力を失ったわたしには、権能を操ることが出来なかった。
ネリオは優しそうな微笑みを浮かべると――手を振りかざし、水流をヴァルセリオの顔に纏わりつかせた。
苦悶の表情を浮かべ咽喉を掻きむしる老獪な皇帝は、口からゴボゴボと空気を吐き出す。
『このような……ところで……! ゆる……さ……!』
声にならない叫びをあげるヴァルセリオ。やがてその手は力を失い床に崩れ落ちた。
悲壮な表情を浮かべたままヴァルセリオは地に伏せた。
――あれだけ自らの命を欲していた男は、自ら得意とする属性の水によりその生涯を閉じることになった。なんという因果だろうか。
「陛下は無欲でした。神の力があれば何でも出来る――それこそ、この世を統べることさえ可能になると言うのに」
追悼するかのように胸に手をあてて目を伏せるネリオ。
わたしはその瞬間に矢を三発――額、首、胸に向けて放つ。
「……!」
だけどネリオを取り巻く水流が生きた蛇のように蠢き、その腹に矢を掴み取る。
「陛下もおっしゃっていたでしょう? 弓矢は効かないと」
ネリオが手を振りかざすと、矢を受け止めていた水流が超水圧の細い激流となり、瞬時にわたしへ迫る。
わたしは横に跳ねて、間一髪でそれを回避する。そのままこの広い間で立ち止まらないように走り抜け、柱の陰に身を隠してしゃがみ込む。その瞬間、柱を貫通して頭の上を水圧が突き抜けていく。
柱から転がるように飛び出しながら、矢を二発放つ。だが、これも水に受け止められた。
そのまま隣の柱まで駆け抜ける。
そこでネリオの攻撃が止まった。
「……おかしいですね。思っていたより、水の出力が弱い」
それはそうだろう。
シルヴィオさんがわたしに神の欠片を譲った時、内側から神の力を押さえつける枷をかけて渡して来た。わたしもそれを真似たんだから。
でも……もっと押さえつけられると思っていた。シルヴィオさんと同じく、三十年間体内に神の力を宿していた者の優位性というところだろうか。
とはいえ、叩くなら今しかない。このまま時間が経てば経つほど手が付けられなくなる……!
わたしはふたたび柱から飛び出しネリオに駆け出そうとした時――謁見の間の扉前があわただしくなったかと思うと、突如、扉が開かれた。
そして、慌てふためく兵士たちが八人、室内に入ってきた。
「陛下! これは一体何事――!」
「入ってきちゃダメ!!!」
わたしの叫びが兵士に届いても、見知らぬ者の声が聞き届けられるわけもなかった。
「貴様ら、どこから入った! ここで何をしている!」
剣を抜き放つ兵士たち。
「おっと、陛下が亡くなられたことで皆の凍結が解けてしまいましたか」
ネリオの水流の矛先が、わたしから兵士たちに向かう。
――権能は使えない。でも、出来る範囲の事をやる!
「水よ! 今静まりて防壁となれ! 『氷の盾!!』」
今のわたしの魔法じゃ正面から受け止めることはできない。だから――逸らす!
兵士たちの前に現れた『氷の盾』はネリオの水流を斜めに受け止めその流れを脇へとズラす。一撃は受け止められたが『氷の盾』は甲高い悲鳴のような音を立てて簡単に砕け散った。
「死にたくなければ、早くここから立ち去って!」
振り返っている余裕はない。ネリオの次の攻撃に備え、すぐに動けるように意識を割く。
だけど、兵士たちはなおも躊躇するような素振りを見せ、動こうとしない。
そこにネリオの水撃が再び飛んでくる。わたしは近くの兵士を押し倒して直撃を回避させる。でも、他に三人が胴や腕を貫かれていた。
「今のわたしじゃ守れないから! 早く行って!」
二人の兵士が「応援を呼んできます!」と負傷した兵を連れて立ち去ってくれたが、なおも三人が残っていた。
盾を構えわたしを守ろうと前に出る。
「ティエナさんですね。我々は以前、クリスタ湖の防衛任務にあたっていた者です。その節は、ありがとうございました!」
そう言いながら、彼らはネリオとの間に立ちはだかる。
あの時の兵士たち……気持ちは嬉しいけど、この場は退いてほしかった。
「危ないから、早く逃げて!」
「このようなところで何をされているのかは知りませんが……加勢いたします!」
「そんなの良いから、早く……早く逃げて!」
だけど、彼らは雄たけびをあげてネリオに突撃していく。
わたしを背に守りながら、その身をも盾にして、ネリオまでの道を開いてくれた――。
ひとり、そしてもうひとりと、倒れていく。
わたしはナイフを抜き放ち彼らを追いかけ、最後に倒れ行く兵の背を飛び越えて――。
「ネリオォォォォォォ!!!」
その勢いのまま、掲げたナイフを輝かせて、ネリオの頭上へ目掛け落下する――。




