第93話 死を恐れた、その先に
「力を――。神の力を全て置いていけ」
ヴァルセリオの声が謁見の間に冷たく響く。
その視線はわたしを見ているようでいて――わたしの奥にある神の姿をのぞき込んでいるようだった。
「……神の力を得て何をしようというの?」
わたしは頬の滴を拭いながら、皇帝の目を射抜き返す。
ヴァルセリオはたった一言。短い言葉を口にする。
「何も」
それだけだった。
何も? 一体どういうこと?
理解が及ばない。
「神の力を得て、何かを成そうなどというつもりはない。それとも、世界を統べるなどと言った方が良かったか?」
「じゃあ何の為に……! これだけ多くの犠牲を払って何の為に神の力を求めるの!?」
わたしは思わず声を荒げた。
ヴァルセリオは眉ひとつ動かさずに静かに口を開く。
「我は――死を忌避する。我という存在が、死と共に消えてしまう。それだけが許せぬ。その為には永遠の命が必要なのだ」
なっ……!?
何もする気がないのに、永遠の命が欲しい!?
それに……
「人間は皆、死した後にも想いや記憶を残すでしょう? 貴方が居なくなってもその後に世界は続くんだよ? 何もかも消えるわけじゃない」
目を閉じれば、わたしは今でもじいちゃんの姿を鮮明に思い出せる。
残るものは絶対にある。
残るのは良い感情ばかりじゃないかもしれない。竜信仰の信徒たちだって、怒りや悲しみの記録を残してきた。だけど、そこには――人の想いが残されていた。
「それをどうやって我が確かめる? それは――無いも同じだ」
……この男は、自分以外に心底興味がないのであろう。
だから、今生きる人たちだけでなく、過去に生きた人も簡単に愚弄するのだ。
「そんなつまらない理由で……!」
じいちゃんやノクの死に意味がないなんて言わせない。
イグネアやフィン、オーキィたちが今も氷漬けにされていることが戯れなんて許せない。
腕が強張り、握った拳に力が籠る。噛んだ唇が切れそうだった。
わたしの手が弓に伸び、弦を引き絞っていた。
セレノスが一歩進み出ようとするのを、ヴァルセリオが軽く手で制止する。
「撃ってみても構わないが、その程度の弓では我は殺せんぞ?」
ヴァルセリオは表情を全く変えずに話を続ける。
絶対的な自信を感じる。
きっと本当に矢を防ぐ手段があるのだろう。
だけど、わたしは弓を下ろすことはできなかった。
「自分の命は大切なのに、どうして他の人の命を敬えないの!?」
「なぜそう思う? 我は余人にも十分に敬意を払っておると思わんか。我がその気になればいつだってどこにいようが他者の命の灯など簡単に消すことができる。それを今まで安穏と生活をさせてきたではないか」
ヴァルセリオはひじ掛けを指先でトントンと叩いた。
「――全ての氷塊を今ここで砕くこともできるのだぞ」
……!
わたしは……弓を下ろさざるを得なかった。
「改めて告げよう、ティエル=ナイアよ。神の力をここに置いていけ。さすれば民の安寧は約束してやろう」
「……置いていけって言っても、荷物じゃないんだしそんな簡単にできるわけ――」
「できる」
わたしの言葉を遮るようにヴァルセリオが断定する。
「シルヴィオが神の欠片をお前に渡したように、お前も我に神の力を渡すことができるはずだ」
そうだった。シルヴィオさんは自ら、わたしに神の欠片を渡した。だからこそ、わたしもまた、神の力を移すことが――できるのだろう。
ここまでだった。
わたしがいくら考えても、ヴァルセリオを説き伏せることも、組み伏せて皆を蘇らせることもできそうになかった。
「……力を渡したら、皆は助けてくれるんだよね……」
ヴァルセリオは大きく頷く。
「約束しよう」
「――わかった」
わたしは手の平に意識を――神の力を集中させる。
それはやがて蒼い輝きとなり、一塊の水となって空中に姿をあらわした。
ヴァルセリオが目を開き、満面の笑みを浮かべて顔を輝かせた。
「おお――これが神の力!」
玉座から立ち上がり、手を伸ばした――その時、
「ごふっ!」
――ヴァルセリオの胸から長い刃が突き出していた。その背に誰かが立っている。
皇帝の目が大きく見開かれ、口から血の塊がこぼれだす。
「き、きさ……ま! ネリオ……! いったい何処から……!」
突然のことに、わたしも声が出ない。
そして、刃が引き抜かれると、皇帝はその場で地面に崩れ落ちた。
「あぶない所でした。もう少しで陛下――ヴァルセリオに神の力を盗られるところでしたね」
そう言って刃を一振りして鞘――仕込み杖にしまう。
その姿は、そう、神の記憶で垣間見た、じいちゃんのパーティに居た伝説の冒険者の内の一人。
水の神官衣に身を包んだ男――ネリオ・アストリア。その人が当時と変わらぬ姿のままで立っていた。




