第92話 傲岸不遜の皇帝ヴァルセリオ
オルガナリアの長い長い大通り。ゆっくりと前を行くセレノスの後を、ただ黙って付き従う。
「ときに、ティエル=ナイア様。人の姿になられた後、リヴァードに育てられたという話は本当でいらっしゃいますかな?」
「……わたし、無駄話する気分じゃないんだけど」
「おやおや。否定なき場合は肯定したと同義ですぞ。……しかし因果なものですな。あの逃亡者リヴァードがティエル=ナイア様の保護をしていたとは」
……どういうことだろうか。でもわたしは口を開く気にはならなかった。
「ご存じないかもしれませんが、幼き頃のリヴァードを帝国でも有力な神官の家に養子として送り込んだのは我々神政院でしてな。
水の神官としての才能を見込んで助けてもらったものを、将来の地位も名も捨てて逃亡しましてなぁ。当時はそれで神政院も陛下に叱られたものです。
ですが、こうして水の神を保護し育ててくれていたのであれば、生かしておいて正解だったわけですな」
我慢が出来なかった。
気が付けばわたしは背中側から腕を回すようにして、セレノスの喉元にナイフを突きつけていた。
「お前はそれ以上じいちゃんの名前を口にするな。また言うようなら、その喉を切り開いて、血が尽きるまで存分に喋らせてやる」
本気だった。
そもそも、凍結を起こしているのはヴァルセリオであり、セレノスの力ではないと言っていたのはこいつ自身だ。
だったら、セレノスの命を絶ったところで、人々の置かれている状況はさほど変わらない。
「おやおや、その短絡的なところも随分奴に似てしまわれて……っと、失礼」
セレノスは首筋に当てられたナイフにも構わず、口を動かしていた。
首筋から赤い滴が滲み、一筋垂れる。
「ですが心得ました。失言の数々は、謝罪申し上げましょう」
そうしてセレノスは唇を閉じ、口角を上げた。
わたしはナイフをしまって、セレノスを前に促す。
「ヴァルセリオの下へ、黙って案内して」
セレノスは笑みを保ったまま静かに頷くと、再び前に歩きはじめる。
通りの先には、黒く荘厳な宮殿がそびえ立っている。
もうすぐ――もうすぐだ。
*
黒曜宮殿と呼ばれているらしい漆黒の建物。
静まり返った石床に敷かれた赤い絨毯の上を進む。
セレノスとわたしの靴音だけが、くぐもった音を立てていた。
この大きな通路の脇には天井を支える黒い石柱が立ち並ぶ――兵や使用人たちの氷像と共に。
どこに寄り道することもない。ただ真っすぐに、謁見の間に向かう。
そして、大きな扉を前にして、セレノスが手を一振りすると、使役された水の塊が扉に張り付き、ゆっくりと押し開いていく。
重い鋼が擦れて、地面を揺るがすように鈍く響く。
扉の先、さらに奥。
玉座に片肘をついて身を斜めにして座っている、豪華な衣装に身を包んだ銀髪の老人。だけどその人物が放つのは、老人とは思えない、衰えた者には決してできない鋭く冷たい視線だった。
……じいちゃんも、怒ってるときはあんな目つきだったな。
うん、こっちは頑固で容赦ないじいちゃんの厳しい修行も乗り越えて今を生きているんだ。今更そんな目つきひとつで怯みはしないよ。
弓をギュッと握りしめる。
わたしに構わずセレノスが前に進む。
「陛下――ティエル=ナイア様をお連れいたしました」
ヴァルセリオの視線がわたしに注がれる。
「本当に……いたのだな。全土氷結が戯れにならずに済んだわ。よい、脇へ控えよセレノス」
「ははっ」
セレノスは顔を伏せ、頭の前に両手を掲げる。少しだけ顔をわたしの方へ振り向くと、嫌な笑みを残して玉座の脇へと進んでいった。
「この凍結は、あなたの仕業で間違いないの? いったいどうやってこんな酷いことをしたの!?」
広い――。この空間にはわたしたち三名だけ。
静かな空間にわたしの声が反響して消える。
「……まあ、教えてやってもよかろう。我は『他人のマナ』を行使できる。今氷漬けになっている者は『そのもの自身のマナ』を使って自らの身体を凍結させている。だが、例外はある。我が予め除外した者と――『神』には効かん」
ヴァルセリオは崩していた姿勢を正し、わたしに指先を向けた。
「この大陸――まあ半分程度だろうが、その範囲内にいる者は『凍結』するように魔法を放った。もし『神』が居れば簡単にあぶり出せるというわけだ」
シルマークさんは身体の外に巡るマナを知覚して扱える。ヴァルセリオはさらにその先――他人のマナをも操れるという。
これがシルヴィオさんが言っていた皇帝の『見えない底』だったのか……。
「そんなことで全ての人を犠牲にしたの!? もし神が居なかったら、もしわたしがここに来なかったらどうするつもりだったの!」
わたしの叫びに応えたのはセレノスだった。
「かようなことはありますまい。シルヴィオ卿の振る舞いを見ていればわかりますとも。彼の内にあった『神の欠片』を手放したのは明白。――彼も凍結したのでしょう?」
セレノスは顎髭を撫でながら続ける。
「あとは『終焉の竜』の周辺を覗いていれば良いだけのこと。あれを倒せる者がいるとすれば、神かそれに匹敵しうる者しかいない。首尾よく討伐されれば、全てを凍結させて、そこで動ける者を見続ければ良いだけの事。――貴方も天界でよくこの世界を覗いておったでしょう。『境界の水鏡』は便利なものですなぁ?」
……!
わたしが娯楽気分で地上を覗いていたことが見ぬかれている。
それを接点に、地上へ引き落とす呪いを飛ばしたのか……。
「……それで、わたしにどうしろっていうの? 言っておくけど、神様って人間の願いを叶えるほど万能じゃないし、有能でもないんだよ?」
それを聞いたヴァルセリオが鼻で笑う。
「力を――。神の力を全て置いていけ」
ヴァルセリオの放つ言葉は、それだけで身体の芯まで凍り付かせるような響きをもって謁見の間を震わせた――。




