第91話 粛然なる帝都オルガナリア
ヴァルセリオ・アクレディア――帝国を統べる皇帝。わたしを呼びつける為に国土の人間を凍結させた危険な人物。
神政院院主セレノス――天界の『私』に干渉して地上へ堕とし、『私』が死ぬ原因を作った張本人。
帝都に行けば、他にもまだ誰か待ち構えていたりするのかな……。
ひょっとしたら、帝都の人間だけは凍結していなくて、普通に生活していたりする可能性もある……?
……まるで頭の中に靄がかかったみたいで、考えがまとまらない。
考えても仕方の無いことばかり脳裏を巡り、ずっしりと頭にのしかかるようだった。
心なしか重く感じる足を、引きずるかのように一歩一歩前に進ませ……気が付けば街の外にまで辿り着いていた。
視線の先の石畳に、ぽつぽつと黒い染みが生まれる。
「さっきまで晴れてたのにな」
顔を上げれば陽を遮るように雲が覆い、大粒の雨が地面を濡らし始めた。
水が地面を打つ音は、あっという間に絶え間なく鳴り続けるようになる。
髪の毛が額にべっとりと纏わりつくけど……払う気にもならなかった。
「……アルバのところに戻らなきゃ」
厩舎……あっちだ。
通りには雨ざらしの氷像たちが立ち並んでいる。雨粒が頭の先から頬を伝い顎先へ、そして地面へ滴る。それはまるで涙を流しているように見えた。そして雨に打たれても氷が溶けることは――無い。
人々の意識はあるんだろうか。もし意識があったら、きっととても辛いことだろう。いっそ意識が無い方が楽に違いない。――そんなことを考えていたら、頬に、ふっと温かい感触が当たる。
白い鼻面がわたしの顔に押し付けられ、そのまま力を込めて身体を押してくる。
白銀のたてがみが頬を撫で、くすぐったかった。
「ちょ、ちょっとアルバ、なになに? 押さないでっ」
わたしが不甲斐ないから怒ってるの?
……違うか。元気づけようとしてくれてるんだよね?
それにお前だって、シルヴィオさんが戻ってこないと困るもんね。
「うん、ありがとう。大丈夫、ちゃんとやるよ」
わたしはアルバの鼻先を撫で返して頬を寄せる。
わたしにはやるべきことがあるんだ。――先に進もう。
「いこう、アルバ。オルガナリアへ」
白い首筋をぽんぽんと軽く叩いて、わたしは背中に飛び乗った。
アルバが身体を持ち上げて、天高くいななく。
白い尾をたなびかせるアルバと共に、降りしきる雨の街道を、水も泥もはね上げながら全力で突き抜ける。
すべてのケリをつけるために。
*
「ありがとう、アルバ。ここまででいいよ。待っててくれたら嬉しいけど……お腹が空いたなら、どこへ行ってもいいからね」
アルバの頭を抱きしめて、その温もりを確かめる。
本当は「また迎えに来るから」って笑って言いたかった。けれど――これから向かう先に、必ず帰り道があるとは言い切れない。
ここまで連れてきてくれて、ありがとうね。
「じゃあ、行ってくるよ」
弓の弦に指をかけて張り具合を確かめ、矢筒に残された矢を確認。矢自体は収納袋にも入れてあるけれど、すぐに対応できる分だけは矢筒に移しておかないといけない。
権能で戦えるなら問題ないけれど、対人間で戦闘するのであればきっと速さが物を言う。
あとは腿ベルトのナイフ。わたしが物理戦闘するならこの弓とナイフの二つになる。
どちらも状態は問題ない。
――よし、前に進もう。
幾夜を越えて辿り着いた先に見えるのは、均一に加工された青黒い石が積み上げられた巨大な城壁。
どこまでも整然と伸び続けるその姿は「わずかなズレも歪みも許さない」という主張を強く感じる。
城門に向かって足を進ませる。
「……ルーミナと同じ、か」
思わず口から零れた声。
街道から城門に向けて綺麗に整列した入場者たちと、これから旅に出立しようとしている人たち。もれなく凍結していた。
「帝都の人だろうがお構いなしに凍らせちゃうんだね……」
城門前を見ただけでわかる。――これは帝都の人も既に全滅しているだろう。
胸の奥にずっと何かが詰まったような苛立ちを抱えながら、城門を目指す。
もちろん城門は――開け放たれており、その先には凍り付いていないローブ姿の者が待ち構えていた。
わたしは考えるより先に、弓を構えていた。
「……セレノス!」
力の限り弦を引き絞った。
目の前の老獪な男は、長い顎髭を撫でながら、落ち着いた素振りで笑ってみせる。
「ふふふふ、オルガナリアまでようこそおいで下さいましたティエル=ナイア様。
どうかその弓はおろしていただけませんかな? この身体は本物でして、それで射られては死んでしまいます」
こいつは……!
頭の中が煮えたぎるようだ。
思わず手が滑って額を射抜いてしまいかねない。歯を食いしばって怒りを抑える。
「これほどの命を巻き込んでおきながら、自分の命は惜しいという理屈が通ると思うの!?」
「いやはや、私なんぞは老い先短い命。それを惜しむのは当然でございましょう。
それと勘違いされては困りますが――誰も死んでなどおりませぬ。今はまだ、ね」
……こいつの言う『今はまだ』というのは、裏を返せば『いつだって皆殺しにできる』と。そう言いたいのだろう。
吐きそうなほど腹が立つけど……途方もない人数の人たちが人質に取られている以上、わたしも無茶はできない。
不本意だけど……わたしは弓を下ろした。
その姿を見て、セレノスが満足そうに大きく頷いた。
「ご理解いただけたようで何よりです。では――陛下の下へまいりましょう」
片手を胸の前にあて、仰々しく礼をしてみせるセレノス。
そして踵を返し、城に向けてゆっくりと歩き出した。
城壁の内側に入ると、前方には城へと続く大通りが伸びている。
はるか遠くまで、幾重にも区画を区切る塔や屋根の影がかすかに見える。
本来ならば人が行き交い賑わっているのであろう。
ただ延々と氷像が立ち並ぶだけの、悪趣味な美術館のようだ。
――少し遅れてわたしも歩きはじめる。ただ、拳を握り締めて。




