第84話 薄氷を砕いて
天高く振りかざされたノクの大きな手が、わたしへと振り下ろされた。
――ほんの一瞬。視界が暗くなる。
「死にたいのか!」
白銀の輝きが、さざ波のように空中を舞った。
その一筋の銀髪が鮮明に視界に焼き付く。
蒼い瞳がわたしを射抜く。次の瞬間、彼の腕の中に抱き留められていた。
「……シルヴィオさん!」
傷だらけで昏倒していたシルヴィオさんの意識が戻ったことが素直に嬉しかった。
あぁ、良かった。ちゃんと治癒魔法が効いていたんだ。
「……無事で、よかった……」
「他人の心配をしている場合か!」
わたしを床に下ろすや否や、シルヴィオさんは剣を抜き放ち、深く大地を蹴り抜いてノクへと駆け出した。
迷いのないその後ろ姿を見て、わたしの心がきつく搾り上げられるように締め付けられた。
「やめて! シルヴィオさん、それはノクなの!」
刀身に蒼く氷を纏わせたシルヴィオさんの一閃がノクの体表を引き裂く。
白い毛が、空を舞った。
わたしの叫びはどこにも届かない。
ノクが大きな手を振るうと、シルヴィオさんが薙ぎ払われる――その瞬間、煌めく堅い障壁がシルヴィオさんの前に現れてその身を守った。
振り返ると、脇腹を押さえ足を引きずりながらやってきたシルマークさんが、空いた手を前に突き出していた。
「おい、シルヴィオ! その『盾』は最後の一枚だぞ! 大事に使え! ガハッ」
「シルマークさん!」
体勢を崩すシルマークさんにあわてて駆け寄りその肩を支える。
ローブの隙間から見えた首筋には、いくつもの青い痣が浮かんでいた。――きっと、体中に怪我をしているのだろう。
すぐにわたしは治癒魔法を唱え、傷を癒した。
「あぁ、ありがとな嬢ちゃん。いやもう、外部マナをコントロールする力も残っとらん。だが、嬢ちゃんが向かうべきところは儂じゃない」
瞬きもせず真正面からわたしの瞳を見据え、そっと腕をあげるとノクを指し示した。
立ち向かえと、そう言ってるのだ。
わたしに戦えと。
「でも、あれはノクなんだよ!」
「そんなもんはわかっとる!!! だが、このまま捨て置けんのじゃ!」
はじめて声を荒げるシルマークさんを見た。
眉を吊り上げ脇目も振らず、ただわたしの顔だけを睨みつけた。
「リヴァードが悪しき魔物にならぬよう守ろうとした、あの石像を――こんな形で世に解き放ってたまるか!」
シルマークさんが痛烈な想いを叫びに変え――わたしの両肩を掴んで激しく揺すった。
じいちゃんの――想い。
そこへ、激しく床を打つ靴底の音を立てながら、イグネアが駆け寄ってきた。
刹那、破裂するような音が響く――気がつくと、イグネアの平手がわたしの頬を打っていた。
頬が熱い。皮膚の火照りが、頭のもやを洗い流す。
「しっかりなさい! あなたにはノクの願いがわからないのですか!?」
眉を吊り上げ、わたしの襟首を掴んだ。怒りの形相。そんなイグネアの瞳から、一筋の滴が零れた。
ノクの――願い。
ノクが振り下ろす鋭い爪を『盾』で受け流しながら、シルヴィオさんが咆哮する。
「ティエナ! お前は大精霊と同化していた時、何を思った! 思い出せ!」
普段は冷静なシルヴィオさんが、咽喉が裂けんばかりに声をあげていた。
わたしの――記憶。
大精霊と同化していたあの時、自分ではどうしても身体がコントロールできなくて、わたしは願った。『誰か、わたしを止めて――』と。
今、ノクは自分では止められない衝動に突き動かされて、やりたくもない破壊行動を起こそうとしている。
世界を引き裂くような激しい咆哮が、脳の奥まで貫いた。
顔をあげるとノクが天を仰ぎ叫んでいた。
それに応じるように、次々と光の剣が呼び出され天を覆っていく。その刃はわたしたちに向けられていた。
「くるぞ」
シルマークさんが低い声で言った。
きっとノクは今、泣いてる。わたしが助けないといけない――。
耳鳴りにも似た、弦をかき鳴らすような甲高い音を響かせながら――
天から、雨のように光の剣が降り注ぐ。
わたしは手を振りかざす。
――襲い来る光を遮るように、氷の天蓋が現れ、わたしたちを守る。
氷は衝撃を受けると、薄氷の皿みたいな音を立てて砕け、欠片が宙を舞った。
月光を受けて、氷の欠片が空に溶けるように消えていった。
「もう少し待ってね、ノク。――苦しみから、解き放ってあげるから」




