第83話 月下に煌く終焉の竜
早く、進まなきゃ。
そう思う気持ちとは裏腹に、足取りが重い。
心臓が裏返りそうなほど胸が痛む。
地底の空間全体が、うねるような咆哮で震えていた。
天井の岩盤がきしみ、砂が降り注いだ。
苔や根が絡む地面を踏みしめ、一歩ずつ、確実に進む。ここを越えたその先には――白い毛並みを逆立てて威嚇する巨大な竜――ノクが待っている。
その真上。遠く高い天井にはぽっかりと穴。崩れた岩盤の隙間から夜気が流れ込み、月光が差していた。竜の白い毛が、月光の粒のように煌いた。
「ノク……」
わたしのことはわかるんだろうか。
問いかけに意味はあるんだろうか。
「ねぇ、ノク。聞こえる?」
わたしの声に竜の耳が微かに揺れる。
痛みに耐えるように顔をゆがめ、ゆっくりと瞳を開く。
逆立つ毛並みがふわりと倒れた。
<ん……あぁ、ティエナか。よく来たね>
空気を震わせない声が、わたしの心に染み入るように届く。
あぁ、久しぶりだな……ノクの声だ。
でも……視界が滲んでよく見えないや。ノクの顔、しっかり確かめたいのに。
熱い滴が頬を伝う。
一歩ずつ、少しずつ、わたしは歩み寄り――その大きな頭に触れて語り掛けた。
「ちょっと見ない間にずいぶん大きくなったじゃん」
ノクの目が細くなり、わたしに顔をすり寄せる。
わたしは、大きな額をそっと撫でた。
「じいちゃんのお家建て替えないと入んないね。これは大変になるよ。……ねえ、ほら、一緒に帰ろう?」
わたしはノクの頭を抱きしめる。
それなのに、ノクは悲しそうに瞳を伏せて、わたしを振り払うように頭を横に振った。
<ティエナも知ってると思うけど、ボクは竜の石像だった――>
「うん、知ってるよ? それが何?」
<きっとティエナのことだから、もう何度も竜を越えてやってきたんでしょ? ならわかってるよね――ボクの体内にも魔核がある>
真っすぐにわたしを見つめる瞳の奥に、慈しむような光が見える。
「だから? それがどうしたの?」
少し身体を起こしてノクが翼を一振りすると、辺りに突風が巻き起こった。
腕で顔を覆い、思わず顔をしかめる。マントがはためく音が耳に残る。
<――ボクは竜だ。絶望の底にいる者の最期を聞き届ける存在。その者が望むなら世界も喰らわないといけない>
何一つ納得できない言葉が、脳を震わせるように聞こえてくる。
「なんでよ! ノクがそんなことする必要ないじゃない!」
わたしはただただ声を荒げてノクに叫ぶ。
……だけど、ノクは責めもせず、そよ風みたいな眼差しで受け止めていた。
<ボクの意識がなくなれば、それはもうノクじゃない。ただの終焉の竜。
必要がある、ない、ではなく、ただ滅びに向かうだけの存在。
だから、もうティエナとは一緒に居られないよ>
「どうしてそんなこと言うの!? わたしたち家族でしょ!?」
ノクがゆっくりと横に首をふる。
<このままだと世界が滅ぶ――だから今のうちにボクの魔核を取り出して?>
衝撃的な言葉だった。
体内の魔核を取り出してほしいということは――ノクが、自分を殺してほしいと言っているのだ。
ノクをわたしが殺す?
できるわけがない。
じいちゃんがいなくなり、今はわたしのたった一人の家族だ。
「いやだ! そんなの絶対にいやだ!」
大きな粒がボロボロと瞳から零れ落ちる。
胸が痛い。苦しい。
<もともとボクは命もって産まれる存在じゃなかった。もっと早くに終焉の竜として顕現していたかもしれない。
それを、偶然じいさま――リヴァードの献身的な祈りがノクという形にしてくれただけ>
ノクが穴が空いた天蓋の向こう。月を仰ぎ見る。
焚き火の前で、じいちゃんもよく見上げていたあの月を。
<魔核に加護の力で強制的にマナを流し込む。エリオットが絶望に囚われた人たちを何人もつれて来たよ。その人たちの怒り、悲しみ、恐怖……そういった強い感情がボクの中に流れてくるんだ。つらいつらい記憶。だからボクは皆の願いを叶えないといけない>
悲しそうにノクが微笑む。
わたしが、ノクを守れなかったばっかりに。
顔からぽたぽたと滴が地面に落ち、ほんの一瞬滲んで消える。
マントの裾を固く握りしめた。
<でもねティエナ、悲しまないで。今回はたまたまエリオットという人間に囚われただけで、遅かれ早かれ、いつかこの日が来たんだよ。これは運命だったんだ。
あ、そうそう。レオがね、ボクにマナを流し込むのを最後まで抵抗してくれてたんだよ。結局エリオットに振り切られちゃったんだけど……今まだこうして意識もってティエナと話ができてるのは――レオのおかげだね>
ノクが目を細めてわたしの身体に頭をすり寄せた。
涙が止まらない。くしゃくしゃになった顔で、力なくノクの額を撫でた。
<さぁ、もう時間が無い。身体の奥の衝動が抑えられなくなっていく……お願いだ、ティエナ。早くボクの胸にある魔核を――取り出して>
ノクが苦しそうな顔で、頭を揺らしながらゆっくりと持ち上げる。
差し込む月がノクの顔を照らし、光が涙のように零れ落ちる。
「……ない」
できない。そんなもの、できるはずがない。
――何か例外は? 他に封じる術は? わたしにできることは他にないの?
考えは弾かれて、喉だけが締め付けられる。
ああ、ノクの声が聞こえない。
聞こえてくるのはノクの喉から絞り出された唸り声。それが、冷たい空気を震わせる。
牙を剥き口から垂れたよだれが、わたしの手の甲を濡らす。
何かから逃れるように、しきりに頭を振る。
大きな爪が大地を引っ掻き、土が舞う。
ふと、ノクと共に夜を過ごした野営のことを思い出す。
焚き火の煤が舞い上がり、大地に転がって抱きしめあって感じたノクの温もりと、湿った土の匂い。
次の瞬間、巨大な手が月を遮り――
――わたしへと振り下ろされた。




