第72話 閉ざされた揺り籠
「水の神を大精霊に閉じ込めたのは――神政院かもしれん」
シルヴィオさんが拳を強く握りしめ、口を激しく噛みしめると、その唇にうっすらと朱が滲んだ。
普段冷静なシルヴィオさんが激情をあらわにしている。
胸の奥が、すり潰されるように痛んだ。
人が神を殺そうとした。その事実にわたしは目の前が暗くなる思いだった――。
シルヴィオさんが苦々しく吐き捨てる。
「親和性の高い精霊に意図的に神を降ろそうとしたのか。一人の人間の不老不死のために神をも操ろうというつもりか」
ティエル=ナイアを母と思っていると言ってくれたシルヴィオさんだ。
神が死んだ後、残された力の有効利用という意味では諦めがついていたのかもしれない。だけど、そもそも神を「殺すこと」を前提に利用したことが彼の逆鱗に触れたようだった。
わたしも――こうして利用されたのなら、怒らないといけないのかもしれない。
でも、目の前で怒ってくれる人がいることで、わたしは冷静でいられた。
神としての存在を利用された――という事実にさえ目を瞑れば、わたしは人としてじいちゃんやノク、いろんな人たちに大切にされ、友達もできて幸せな毎日を送ってきたと思う。天界にいた時とはまた違う、温もりを与えてもらったのだ。それには感謝している。
わたしは怒りで震えるシルヴィオさんの手に自分の手をそっと重ねた。
手甲越しでは温もりも伝わらないだろうけど、少しでも落ち着いてくれればと願った。
シルヴィオさんはそれに驚いたのか、目を見開いてわたしの顔を見る。
そしていつもの冷静さを取り戻していった。
「……ヴァルセリオ・アクレディア皇帝陛下は他人の命をなんとも思わない恐ろしい方だ。水の神が人として生きていると知れば、間違いなくお前を殺し、その力を手にしようとするだろう」
瞼を少し伏せ、揺らぐ瞳でわたしを見つめる。心配してくれているのだろう。
でも――。
「シルヴィオさんから神の欠片を返してもらったんだから、たぶんわたしさらに強くなったよ? 普通の兵士じゃわたしを捕まえることもできないでしょ。心配いらないよ」
にっこり笑ってそう言った。「そうだな」という返答がくるものとばかり思っていたけど、反応は違った。シルヴィオさんのその瞳は依然として何かを憂う色を湛えていた。
「陛下は強い。高齢であられるが、おそらく水魔法を使わせれば未だ陛下の右に出る者はいない。俺ではその神髄を見ることすらできない。陛下が秘めたるその力は――ティエナ、お前をも食いかねん」
「えええ、どういうこと!? 神を越える人間が居るってこと?」
シルヴィオさんがゆっくりと頷いた。
うーん、にわかには信じられない……けど、実際に人間でも凄い人たちはたくさんいた。シルマークさんも規格外だろうし、イグネアも限界を越えて来た。だからきっとシルヴィオさんが言っていることも本当なのだろう。
わたしは自分の手のひらをぎゅっと握りしめた。
記憶は蘇ったが、力が漲るような感覚は無く、どこか違和感が残っている。
「――ティエナ。お前はここを出たらすぐにノアランデ王国へ帰れ」
壁に背を預けたまま、顔も上げずにシルヴィオさんがそっけなく告げた。
突然のことに、わたしは一瞬言葉を失ったが、意味を理解するとシルヴィオさんの視界を遮るように足を運んだ。
「そんなの無理だよ! ノクだってまだ取り戻してないのに!」
「万が一お前が捕まって陛下に取り込まれでもしたら――この世界はたった一人の男に支配されることになるぞ」
「捕まらないし、負けなければ良いんでしょ!? それより、ノクの居場所――エンドレイク教団の拠点はわかったの!?」
シルヴィオさんは眉間に皺を寄せると、疲れたようにため息をつく。
「ここから戻るころには、アクレディア帝国とノアランデ王国双方の軍が南方の境界を固め終わっているはずだ。軍が前線の魔物討伐をしている間に、精鋭が本拠地を叩く手はずになっている」
「その本拠地を教えてよ! 討伐が上手くいっても軍がノクを無事に返してくれる保証はないでしょう?」
「……わかった。ここを出たら詳しく話そう。だが、その前に奥の部屋にある書物を回収してきてくれないか」
顎を上げ、部屋の奥を指し示す。巨大なガラスが立ち並ぶその向こう側には扉も朽ちて崩れた小さな部屋が、暗闇を湛えて口を開けていた。
シルヴィオさんは無言でランタンを差し出し、わたしはそれを受け取る。
「書物って?」
「青い装丁の本があるはずだ」
「何に使うの?」
「……ただの想い出回収だ」
「ふぅん?」
産まれた場所と言ってたし、何かあるのかな。
まぁ、用事なら早く済ませた方が良い。さっさと回収しちゃおう。
奥の部屋に足を踏み入れる。長年誰も使ってないのだろう。足元から埃が舞う。
――暗くてよくわからないな。
手に持ったランタンを前に突き出し、ぐるりと周囲に向けて動かす。
部屋の隅から隅へ、明かりを動かしていくが、崩壊した棚しか見当たらない。
「ねぇシルヴィオさん、どこにあるの――」
その時。入口から風が舞い込んだ。金属を擦るような軋む音が空気を伝い――そしてガシャンとひと際大きな金属音が響く。――扉が閉まった音だった。
追い打ちをかけるようにガラガラと何かが崩れる大きな音が扉の向こうから聞こえてくる。それがさらなる不安を煽った。
「ちょっと、え? 何?」
わたしは床で足を滑らせながら、慌てて扉の前に辿り着くも、押しても引いても扉はびくりともしなかった。
だったら――壊して進めば良いよね。
権能を以てすれば、これくらいの扉なら簡単に壊せるはず。
「……あれ?」
思ったように力が出ない……。どうして?
扉の向こう――さらに遠くから、微かにシルヴィオさんの声が聞こえる。
「お前に渡した神の欠片は、この三十年ずっと俺の中にあった物だ。多少は俺の言うことを聞いてくれる。同化に抵抗し、力を蝕むようにしておいた。それでもいずれお前に馴染んでいくだろうが、一週間はかかるだろう。その間、ここで頭を冷やせ」
力が――押さえつけられているような感覚。
「遺跡から出たらノアランデ王国に帰るのだ。エンドレイク教団は俺が全て終わらせる」
「シルヴィオさん! ねぇシルヴィオさん! 待って! わたしも戦う!」
扉を叩く激しい音が、室内に空しく響く。
やがて、声も――気配さえもしなくなった。
地下遺跡の一室。シルヴィオさんの生まれた場所。
静まり返った部屋に、ただわたしの息遣いだけが取り残された。




