第10話 泡涙のさざ波
頭の奥が、ずきりと痛んだ。
浮かぶのは、薄く霞んだ記憶の断片。
──天界の、誰か。
名前も、姿も思い出せない。でも、その誰かが自分のために書いてくれたのだと、ティエナにはわかっていた。
華やかな装丁に似合わず、中身は──
まっすぐで、少し気恥ずかしくて、それでも愛おしいくらい甘い、恋の物語。
神様が読んで泣くなんておかしいと笑いながらも、何度もページをめくったあの日々を、ティエナは思い起こしていた。
「天上恋歌……」
ぽつりとこぼれた言葉に、ノクとイグネアが同時に顔を向ける。
「ティエナ?」
「これ……昔、すっごく好きだったやつ……! ただの恋愛小説なんだけど……読み返したら、なんか……泣けてきて……」
ぽた、と一滴。
本の上に、水の粒が落ちた。
「……ティエナさん?」
心配したイグネアがそっとティエナの肩に手を添える。
そのとき、ティエナの手元には──淡く光った水がにじんでいた。
本の表面に沿って、きらきらと波紋のような揺らぎが広がっていく。
その水が、ゆるやかな弧を描いて、彼女の掌に集まり、淡い光を強めた。
──《泡涙のさざ波》。
胸の奥をかき乱す感情と、薄く眠っていた記憶が触れ合って、ティエナの中で何かがカチリと噛み合った気がした。
「……いまの、なに?」
ノクがぽつりとつぶやく。
「感情……この本に、関わった誰かの想いが……すごく伝わってくる」
ティエナは、自分の掌に残る水の感触を確かめるように指を握りしめてから、ふらりと隣の棚へ移動した。
一冊、また一冊と本を手に取り、ページをめくるたびに、ぴくんと眉が動いた。
「これは……うん、なんだか『書いた人が途中で飽きてる』って感じがする……」
「こっちは……わあ、すごく怒ってる。あ、このページは泣きながら写してる……」
次々と流れ込んでくる感情に、ティエナの表情もころころと変わっていく。
そんな様子を見ていた店主が、カウンターの奥からひょっこりと顔を出した。
「……ねえ嬢ちゃん、それ、どうやってわかるんだい?」
「えへへ、ちょっとだけ便利な魔法がありまして」
笑ってごまかすティエナに、店主は怪訝な顔を返しつつも、「まあ、壊さないならいいけどさ」と呟いて奥へ引っ込んでいった。
そんな折、ティエナの手が、自然とある本へと伸びる。
表紙には小さな星の飾りがあしらわれ、淡い色のインクでタイトルが印字されていた。
ぱらりとページをめくると、ふんわりと優しい言葉が目に飛び込んでくる。
「『きみと星を待っている』……だって。ときめくタイトルだなぁ」
数ページめくっただけで、ティエナの頬がふにゃりとゆるむ。
「……これ、好き。これだけは、絶対に欲しい……!」
とろけそうな顔で恋愛写本をかかえるティエナの横で、ノクが呆れた顔で言い放った。
「思わせぶりだっただけで、自分の趣味の本かい」
ため息ひとつついたノクが、かぶりを振ったのちにそっと店内の奥を見やる。
「ティエナ」
「ん?」
「さっきの『あれ』が使えるなら――あの棚にあるやつ、ひとつ見てほしい」
ノクが顎で示したのは、少し埃をかぶった古びた棚だった。
その中からティエナが引き出したのは、革の表紙もすり切れ、背表紙にはかろうじて『竜信仰と供犠の記録』の文字が読み取れる、見た目にも年季の入った一冊。
水を媒介にそっと手を置くと、微かに震える感情が流れ込んでくる。
──畏怖。祈り。逃げ場のない崇拝。何かを恐れ、何かを捧げる。
「……これは……こわい想いを感じる……。けど、たぶん……ノクにも関係ありそう」
ティエナはその本も、静かに手元に加えた。
そして、胸に深くしみこんでいた感情を、そっとひと息で吐き出すようにして──手にした本をぎゅっと抱きしめ、小さくうなずいた。
「……よしっ。じゃあ、お会計しよっか!」
ぐっと気持ちを切り替えたティエナは、腕に何冊かの本を抱えながらカウンターへと歩き出した。
「『きみと星を待っている』、このシリーズ、全部一冊ずつください! それから……この竜信仰の記録も!
あと、さっきノクが選んでたこの三冊。契約獣とか、精霊関係のやつも一緒に!」
ティエナは笑顔で、本を一冊ずつカウンターに並べていく。
「あと……この『天上恋歌』も。わたしにとって、特別だから……」
店主は本の束をざっと見渡しながら、指を折って数える。
「ふむ、『きみと星を待っている』は全四冊で……八枚。参考書が三冊で六枚。こっちの竜信仰の記録はボロボロだから一枚。
天から落ちてきたとか言われてたこの読めないやつも一枚でいいや。全部で……十六枚だね」
「はいっ、お願いしますっ!」
ティエナが元気よく銀貨を差し出す。
銀貨十六枚あれば、切り詰めて暮らせばひと月は生活できるぐらいの金額だ。
それを気前よくポンッと差し出した少女に、店主は目を丸くした。
一枚ずつ本物かどうかを確認しつつ、丁寧に数え終わった店主が笑顔を浮かべた。
「めずらしい子だねぇ……まいどあり」
ノクはふわりと浮かびながら、ティエナに目を向ける。
「……ありがと、ティエナ。ちゃんと読むからね」
その言葉にティエナは笑顔で頷き返した。
その直後、カウンターにもう一束、ずしりと重みのある本の山が置かれた。
思わずティエナと店主の目が丸くなる。
イグネアが涼しい顔で告げた。
「わたくしはこちらを。おいくらかしら? あとで使いの者に取りに来させますから、預かっておいてくださいまし」
その仕草も声も、どこまでも堂々としていて──ティエナには、まさに「お嬢様」そのものの風格に見えた。
書店をあとにして、三人は再び街の大通りへと足を向ける。
日は高く、通りには露店の呼び声と人々のざわめきがにぎやかに響いていた。
「ふふ、あの書店……いい雰囲気でしたわね」
「うんっ! 本の種類もすごく多かったし、あれもこれも気になっちゃって……!」
「買いすぎないようにしなきゃね……ってもう遅いけど」
ノクは自身の本も買ってもらっている手前、あまり強くは言えなかった。
何を言いたいかは十分わかっていたので、ティエナはにへらと笑ってその場をごまかした。
「せっかくだし、ちょっと寄り道していこうよ。露店、なんかいいにおいする~!」
買い物袋を抱えたまま、ティエナの足取りは自然と弾んでいく。
その背中を追いながら、ノクとイグネアも歩調をそろえた。
──と、そのとき。
通りの少し先で、騒がしい声が聞こえた。
「てめぇ、イライラさせやがって……わかってんだろうなぁっ!」
怒鳴り声の主は、数人の青年たちを前に仁王立ちしている大柄な男。
見るからに乱暴そうな雰囲気に、ティエナはぴたりと足を止めた。
「……あれ、喧嘩になりそう……」
そのつぶやきに、イグネアが目を細めて前方を見つめる。
「少々、お待ちになってて。確認してきますわ」
そう言い残すや否や、イグネアはスカートの裾を少し持ち上げて──人波を切るように駆け出した。
遅れて状況を察したティエナも、驚きながら一歩前に出る。
「まって! わたしも行く!」
軽やかな身のこなしで、イグネアのあとを追いかけていく。
青年たちの顔が引きつり、周囲の空気がじわじわと張りつめていく。
通りにいた人々が、自然と半歩、また半歩と、じわじわ距離を取るように下がっていった。
誰もが関わらない方がいいと感じている空気が、ティエナにもひしひしと伝わってきた。




