第9話 白霧レモネードと記憶の本棚
朝の騒ぎが落ち着き、ギルドの混雑もようやく収束し、昼食もとうに済ませたころ合い。
柔らかな日差しが、スタトの街を包む空気を、すこしだけ穏やかにしているようだった。
そんな陽気の中、とある果汁屋の前で、肩に白い竜を乗せた、青いマントを羽織った少女と、背筋をピンと伸ばした赤いドレスの少女がショーケースを眺めていた。
「わあ……これが白霧レモネード……!」
ティエナはショーケースに指先をあて、瞳を輝かせてその中を覗き込んでいた。
ガラス越しに並ぶ瓶。淡い金色の液体には、小さな白い花弁が浮かんでいる。寒冷地でしか採れない氷花草から抽出された香気と微かな泡が、涼やかに立ちのぼっていた。
「うふふ、ちゃんと約束は守りますわ。ティエナさん、一杯どうぞ」
イグネアはふっと微笑むと、店主に銀貨を差し出した。支払いひとつ取ってみても、その所作に淀みはなく、上品さを感じさせるものだった。
銀貨一枚あれば、ちょっといい宿で一泊できる。それを微笑みをたたえたまま、ためらいなく支払うイグネアを見て、ティエナは思わず感嘆の声を漏らした。
「これは、わたくしからのご褒美ですわ。どうぞ、召し上がれ」
「……本当にいいの? わたし、ほんのちょっと頑張っただけだよ?」
「ふふ、ティエナさんは謙遜しすぎですわ。あの時のあなたの力が無ければ、わたくしたちは勝てませんでしたわ。……それに、勢いとは言え、わたくしがお誘いしたのですから」
「わたしの方こそ助けてもらっちゃったのに。イグネアさん、すっごく頼りになるね!」
「そう言っていただけると、光栄ですわ」
「う、うんっ……! 本当に、ありがと!」
ティエナはそのままレモネードの瓶を胸元で抱きしめ、嬉しそうに目を細めた。
「ねぇノク、見てこれ……すっごく綺麗で……うわ、冷たっ!」
ノクは軽くため息をつきながらも、その様子を見守っていた。
瓶を抱えたまま、もったいないからと飲むのをためらっていたティエナが、ふと何かに気付き、ノクに視線を向ける。
「そういえば、ノクって……結局なにものなの?」
ノクは少しだけ間を置き、視線をそらす。
「……いまさら、それを聞くんだ?」
「うん。だって、なんかあらためて気になって……普通の魔物には見えないし、でも精霊でもなさそうで……」
「ぼく自身も、よくわかってないんだけどね……でも、ティエナと出会ってから、ずっと眠っていた何かが少しずつ目を覚ましてる気がする」
静かに耳を傾けていたイグネアは、思案をめぐらせたまま口を開く。
「魔物にしては知性が高すぎますし、精霊獣とも異なりますわ。使い魔のように主従の枠にも収まらず……むしろ、何か古い契約の名残が、独自に変質した存在のようにも見えますの。例えば、失われた契約獣の末裔とか……」
「うーん……だんだん話が壮大になってない?」
困った顔でノクがイグネアに手を振った。
「ふふ、ですが何者であろうと、ノクさんのことは好ましいと思っていますわ」
イグネアは微笑み、ティエナの肩の上に掴まるノクの頭を指先で軽くつついた。
「……ありがと。でも、あんまり距離近いと……ちょっと照れるんだ」
イグネアとノクが話している横で、ティエナはストローに口を付け、陽の下で光を反射し燦然と金色に瞬く『白霧レモネード』を口に運んだ。
その飲み物はひとくち含むだけで、ひんやりとした清涼感と、さっぱりとした酸味に加え、ほのかな氷花草の爽やかな香りと、その奥に感じる上品な甘さが、口いっぱいに広がって、ティエナの脳を感動の衝撃で揺さぶった。
「お、おいしい……!」
ティエナの頬を伝って、ポロリと涙が一滴こぼれた。
そんな小さなやりとりが静かに続く中、三人は肩を並べて歩き出した。
行き交う人で喧騒が絶えない通りを歩いている最中、ティエナはふと脇に寄って立ち止まると、笑顔でノクに視線を向けた。
「ねえ、ノクのこと、ちょっと調べてみよっか」
「調べるって……どうやって?」
「う~ん、そうだねぇ……どうしよう」
「ノープランだったの……?」
ふたりの会話を聞きながら、イグネアは口元を押さえて上品に笑った。
「うふふ、古書店ですわね。わたくし、こう見えて文献捜索は得意なんですのよ」
「おお〜イグネアさん、頼りになる〜!」
本屋と聞いてノクの耳がピクリと揺らぐ。
「おっ、なんか面白そうだね。よし、レッツ書物ハントだ!」
*
通りを一本入った先、木造のアーチと蔦に覆われた古書店の軒先に、ティエナたちは足を踏み入れていた。
中は静かで、木の匂いと古紙の香りが混じる落ち着いた空間。天井まで届く書棚には、魔導技術書や旅の記録、錬金素材辞典など、ぎっしりと本が詰まっていた。
「うわぁ……すごい……」
ティエナは目を輝かせて店内を見渡し、棚の間を行ったり来たりしていた。
ノクはといえば、最初は「調べもの」という名目で真剣な目で棚と向き合っていたが──
「……お、これ初版だ……」
気づけば一人、口角を上げて、奥の棚で興味深そうに本をめくっていた。
「ノク、こういうの好きだったよね?」
「まあね。あんまり役に立たないときもあるけど……見たことない本を開くと、ちょっと高揚するんだ」
そんなやりとりをしているうちに、イグネアが店主に話しかけていた。
「こちらに、神獣や契約獣、古の生き物に関する記述のある文献はございますかしら」
「んー、そっち系はあんまり動きがないんでね。奥の棚にある『伝承分類』のタグがついてるところを見てくれれば」
「ありがとうございます。ティエナさん、ご一緒に?」
「うんっ!」
──そして、ティエナの目に、不思議な装丁の一冊が映る。
革のような、それでいて紙とも違う質感。金の装飾が縁を飾り、表紙には見たこともない──けれど、どこか懐かしい──文字が刻まれていた。
普通なら意味などまるでわからない、不思議な装飾の羅列。
なのに、ティエナには、それが『読めそうな気がする』ような感覚だけが、静かに心を揺らしていた。
「……なんだろ、これ……」
その声を聞きつけて、ノクとイグネアも本を覗き込む。
「それ、なんかの装飾? 本当に文字なの?」
「わたくしも初めて見ますわ。魔導文字でも古典でもない……文字の構造が意味を持っていないようにも見えますけれど……」
「……でも、どこか神代文字の流れを感じますわね。『水の神ティエル=ナイア』が祀られている東の方の古い時代の祭文に、ちょっと雰囲気が似ておりますの」
イグネアの口から自分の『神』だった時の名前を耳にした瞬間、ティエナの心臓がひとつ、強く跳ねた。
胸の奥で、なにかがひゅっと凍る。けれど、誰にも悟られぬよう、そっと呼吸を整えた。
ティエナは再び本の表紙を見つめる。読めそうで、でも読めない。文字のようだけど、意味が頭に入ってこない。なのに、視線が離せない。
その本にそっと触れた瞬間――ティエナの意識に、遠い記憶が流れ込んできた。
「この本、知ってる……?」
そんな既知感めいた感覚が、ティエナの中で静かに沸き上がった。
懐かしさと、言葉にならないざわめきが胸の奥で静かに広がっていた。
記憶の扉が、誰にも聞こえない小さな軋みを立てはじめていた。




