第1話 神は水に還り、少女となった
灼熱の大地――本来は土と石の洞窟であるはずの空間は、いまや赤熱した岩盤と火柱に支配されていた。熱と瘴気がうねり、視界すらも揺らぐほどだった。
その中心で、イグネア・フレアローズは歯を食いしばる。
「っ、後方っ、火口に近づきすぎないで! 熱で崩れますわ!」
レイピアでサラマンダーの突撃を捌きつつ、仲間への指示を飛ばした。
焦げた前髪が額に張り付き、噴き出す汗が頬を伝い、地面へと流れ落ちた。
彼女の装束はすでに煤け、熱風で裾が焼け焦げていた。
相手はサラマンダーの大群。その背後に控えるのは、炎の主――イフリート。
唸るような炎熱の波が壁を這い、爆ぜた床石が飛び散った。
空中を舞う小さな白竜のノクが、身体を震わせて、微かに吠えた。
その身体から展開される光の膜が、仲間たちを熱気と火炎からかろうじて守っている。
「もう限界だよぉ! 熱気を防ぐだけで精一杯なんだから、誰か前見ててよ!」
仲間たちは疲弊していた。魔物の物量、環境の苛烈さ、そしてイフリートの存在。
それでもイグネアたちは退かなかった。
「……ティエナ。どこに行ったんですの……」
イグネアが小さく呟いた、そのときだった。
対岸。
灼けた溶岩地帯を挟んで向かい側に、ひとりの少女が地面に転がり込むように現れた。
「いたた……なにここ……!? 熱っつ!?」
青いマント、淡い水色の髪。
その姿を見つけた瞬間、誰かが叫んだ。
「ティエナ!? ティエナだ!!」
ティエナは体勢を立て直し、目前の光景に目を見張った。
燃え盛る魔物の群れ。その向こうに、仲間たちが押されている。
「……あれ全部、敵? へぇ。随分とわたしとの相性がよさそうな魔物たちね」
ティエナは、唇の端をわずかに上げて笑った。緊迫した戦場の空気をものともせず、どこか楽しげな、余裕のある顔だった。
ティエナはそっと一歩前へ出て、手を掲げ、息を吸い込んだ。
「水よ──」
「理を鎮め、流れを束ね、命を守る環となれ──」
「いまこそ奔りて、すべてを清めよ」
彼女の周囲に、水の紋がいくつも展開されてゆく。
空気がひんやりと震える。
とうてい常人には召喚できない圧倒的な水量が、ティエナの頭上に渦巻いてゆく。
その光景を見て頬を引きつらせたイグネアが、力の限り叫んだ。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい、ティエナ! その位置からでしたら、わたくしたちも巻き込まれますわ!!」
荒ぶる水の気配にノクも反応する。
「やばい、こっちに来る! みんな、ちょっとだけ熱いの我慢して! 防壁魔法に切り替えるよ!!」
そんな叫びの直後だった。
ティエナの目が、静かに細められる。
その唇が、小さく動いた。
「《天涙奔流》!」
詠唱とともに、天井から解き放たれたのは神性を帯びた奔流だ。
轟音と共に、世界のすべてを白く塗りつぶすような大瀑布が落ちてくる。
空間が震え、水が咆哮する。
ノクの結界がぎりぎりで展開され、仲間たちを包み込む。
「た、耐えて……お願いだから耐えてぇっ……!」
彼の小さな身体がぶるぶると震える。
光の膜が水流に押し潰されそうになりながらも、ノクは必死に魔力を注ぎ続ける。
火の壁を一掃しながら押し寄せる激流の中、防壁の内側だけが奇跡のように守られていた。
炎はかき消され、サラマンダーの群れは洗い流されていく。
イフリートすら、蒸気の渦に呑まれていく。
その直後――
静けさが訪れた。
誰かが息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。
ノクの防護魔法がすっと揺らぎ、淡く光を残して消えた。
ノクが息をついた瞬間――
ドォン、と地響き。
壁に打ちつけられた水流が反転――そして頭上で、水塊が形を崩す。
そして――だぱあああああん!!
行き場を失った水流が、頭上から容赦なく降り注いだ。
「わっぷ!?」「ぅあっつ!?」「うおおおおお!?」
パーティ全員が見事にびしょ濡れになった。
しばらくの間、誰も動かなかった。
「……まったく、加減というものを知りなさいまし……」
イグネアが前髪を垂らしたまま、絞るような声を出した。
ノクは尻尾をぶるぶると振って、水を飛ばした。
「……これ、ぼくのせいじゃないよね……?」
そして、対岸の岩場。
ティエナはそっと手を下ろし、水の消えた空間を眺めていた。
「……やっぱり、水ってすごいなぁ」
その声音には、どこか懐かしさを含んだ響きがあった。
――これは、かつて『神』だった少女が人として歩み始めた冒険の、ほんの一雫。




