君と私の母親
私はの名前はミカン。飼い主である林檎に付けられた。
大好きな林檎に付けられた名前を私は大好きだし、林檎に「ミカン」と呼ばれるのも大好きだ。この名前に誇りを持って生きている。
しかし、今ばかりは。
「貴女お名前は?」
「あ、えっと、ミカンです」
正直に名乗ってしまった事を深く後悔している。
その女性は私の名前を聞いて、懐かしい笑顔を浮かべた。
◆
春野桃に会いに行く。
そんな不愉快な理由で昼前に家を出た林檎を見送ってから、私は一人寂しくベッドで不貞寝していた。
ソファのが日当たりも良く心地いいが、ベッドの方が林檎の匂いが強く残っている。それを嗅ぎながらゴロゴロして、寂しさの穴を懸命に埋めていた。
しかしそれでも収まらず、洗濯カゴから林檎の寝巻きを取り出してベッドへ持ち帰る。
林檎がいない時に限って、林檎への想いがひどく扇情的になってしまうのは悪い癖だ。
愛おしい匂いの染み付いたそれに顔を埋めながら、イマジネーション林檎を堪能していたその時。
キンコーンと、チャイムがなった。
なんてタイミングの悪い。私の林檎タイムを邪魔するとはなんて不埒者なんだ。自分の眉間にシワが寄るのがよく分かる。
私は小さく舌打ちをすると、パーカーを羽織ってフードを深めに被る。人前に出るにはこの頭に生えた耳を隠さねばならない。
耳をなるべく平にしてフードの盛り上がりを抑えつつ、「はい」と声をかけながら玄関扉をガチャリと押し開けた。
大方、宅配か勧誘だろう。宅配ならさっさと受け取って、勧誘なら追い返そう。そして早く寝室に戻って私はイマジネーション林檎とゴロゴロするのだ。
そんな欲求に駆り立てながら対面した来訪者に、私は呆然としてしまった。
「あら? ここ、鈴木林檎の家で合ってますよね?」
そこに立っていたのは、久しく見ていなかった顔。懐かしい人物。
林檎の母親、鈴木檸檬だった。
檸檬は驚いた様子で、私のことを頭から足先までじっと観察してから、
「えっと、林檎はいる?」
私は動揺で震えそうになる声をなんとか押し留め、林檎は外出中である旨を伝える。すると檸檬は、
「あらそうなの。じゃあ待たせてもらおうかしら」
と言い、そして、
「貴女お名前は?」
そう、問いかけてきた。残念ながら私は、長い年月を共にしたこの名前を、咄嗟に誤魔化すようなことができなかった。
「あ、えっと、ミカンです」
◆
リビングでお茶を飲んで一息ついてる檸檬を前に、私は内心激しく動揺していた。
檸檬が来るなんて聞いてない。いや、檸檬が来ると連絡を受けているのであれば、林檎が家を空けるわけがない。
ということは、この人はアポ無しで来たのか!?
心臓に汗をかきまくっている私に対して、檸檬は相変わらずのんびりとした口調で訊ねきた。
「ミカンちゃん、林檎は普段どうかしら。あの子ちゃんとやってる?」
「えっと、いつも仕事帰りはぐったりしてます」
「あらぁ。仕事上手くいってるって言ってたのは嘘だったのかしら」
すまない林檎。お前の見栄を崩してしまった。
動揺に加え、林檎への罪悪感がのしかかり、私はもうパニックだ。
それが故に、さらに口を滑らしてしまった。
「あの子どうせ家事も出来ないでしょう。不器用だもの、普段何食べてるのかしら」
「あ、食事は私が作ってるので――」
見開かれた檸檬の目に、全身から冷や汗が吹き出した。
やってしまった。林檎は檸檬に誰かと同居してるとか話してないはずだ。どうしよう。どう誤魔化そう。
しかし予想に反して、檸檬は嬉しそうな声を上げて笑顔を浮かべた。
「あらあら、ミカンちゃんが作ってくれてるの? ありがとうね」
てっきり同居しているのかとか、そういう事を聞かれると思っていた私は、「あ、は、はい」と間抜けな返事しか出来なかった。
まぁ深堀されないのならば、それに越したことはない。私はそうポジティブに捉えることにした。
それにしても、流石は林檎の母親というべきか。順応が早すぎやしないか。
娘の家を訪ねたら、娘のペットと同じ名前の知らない女が出て、更に同居しているような発言まで飛び出してしまった。それなのにそれを受け入れてニコニコ笑っていられるなど、正気の沙汰ではない。いや、言い過ぎか。
とはいえ流石に、私がかつて狼だったあのミカンだと言っても理解できやしないだろうが。ひとまず、この状況をしのげればそれで良い。
檸檬はその後も、林檎に関してあれこれ訊ねてきた。
「林檎、好き嫌いしてない?」
「基本何でも食べてくれますよ。ビールを飲みすぎるので、金曜だけに規制してますけど……」
「ミカンちゃんに迷惑かけてない?」
「迷惑なんてそんな……私が林檎のことが、その、好きなので……」
「あらあら、それは良かったわ。林檎、ほとんど友達いないから。これからもずっと一緒にいてあげてね」
「はい、勿論」
なんだか段々恋人の親に挨拶している気分になってきた。あながち間違ってはないが、私も林檎と同様、檸檬のことは母親のように思っているのだ。心境が複雑すぎて笑えて来る。
◆
かれこれ檸檬がやってきて三十分は経っただろうか。漸く檸檬の質問攻めも途絶え、私はほっと一息吐いた。
「それにしても、林檎遅いわね。どこに行ってるか知ってる?」
時計を見ながらそう言う檸檬に、私は「あっ」と声を漏らす。
「あの、ごめんなさい。林檎は今日、えーっと、友人に会いに行くと言っていたので、多分暫く帰ってこないかと……」
もっと早く言うべきだったと、檸檬に頭を下げる。しかし気にした様子もなく、檸檬は相変わらずニコニコとしている。
「あら本当。あの子が友達に会いに行くなんて……昔からミカンちゃんにべったりだったでしょう」
「あはは、そうですね」
「母親としても心配だったから、良かったわ」
私としては良くないが。とはいえ林檎の交友関係を束縛する気はないし、林檎は私を世界一愛してくれるという自負があるから、文句など口にしない。不機嫌になるのは許してほしい。
「そうそう私も用事があって、ついでに寄ったのよ。ミカンちゃんと話せるのが嬉しくて、つい長居しちゃった」
檸檬はそう言うと、慌てて手荷物をまとめ始めた。
「実はね、最近デビューした作家さんのサイン会がこの辺であって、それに行く予定だったのよ。時間はたっぷりあるから、まだやってるはずだけど」
なるほど、そういうことだったのか。用事ついでに林檎の顔を見ようとしたのか。母親らしいが、タイミングが悪かったな。
私は玄関先まで檸檬を見送る。靴を履いた檸檬は、少し立ち止まって、私を振り返って微笑んだ。
「林檎、一人で暮らしていけるか心配だったけど、ミカンちゃんが支えてくれてるなら安心ね」
「はい、ずっと林檎を支えます」
断言すると、檸檬は嬉しそうに
「そうね。昔から貴女達はずっと一緒だったものね」
と、笑った。
――"昔から"?
そういえば、会話の中でも何かずれていたような……。
まるで、"ペットのミカン"と"対面しているミカン"を混同させていたような……。
戸惑う私に、檸檬は悪戯っぽく囁いた。
「フードは多分何か隠したくて被ってたんでしょうけど、もう片方、隠し忘れてるわよ」
その言葉に、私は自分の背後を振り返った。
そこには、剝き出しの尻尾が、垂れ下がっていた。
――尻尾をズボンの中に仕舞うの、忘れてた!!
檸檬は慌てる私を面白そうに眺めていた。不意にその手が伸びて、私の頭にポンと置かれる。
「ミカンを引き取る話が無くなったのは、こういう事だったのね」
「……」
「これからもあの子をよろしくね」
「……信じれるん、ですか? こんな事」
声が震える。しかし檸檬はあっけらかんとした様子で
「あら、だって貴女、ミカンちゃんなんでしょ?」
と、昔のように撫でながら笑ってくれた。
信じてくれるなんて、受け入れてくれるなんて、思っていなかった。だって、こんな事有り得ないじゃないか。
「ミカンちゃんと話せるなんて夢みたい。嬉しいわ」
あぁ、でもそうだ。この人は、私を受け入れてくれた林檎の母親なのだ。
「……うん。私も、話せて嬉しい」
"林檎の友人"のフリを辞めたら、敬語も取れてしまった。でも、いいのだ。だって檸檬は、私達の母親なのだから。
「今度はちゃんと連絡してから来るから。そしたら、三人でご飯食べましょ。ミカンちゃん、作ってくれる?」
気が付いたら、涙が零れていた。それを指で拭い、私は檸檬にまっすぐ向き合った。
「勿論。檸檬の料理を見て学んだんだ。味は違うと思うけど」
「うふふ、ミカンちゃん私のこと呼び捨てにしてたのね」
怒った様子もなく、愉快そうに笑う檸檬。そういえば檸檬のことはずっと檸檬としか呼んでなかった。なにせ、檸檬と話す機会などなかったのだから、呼び方など気にしたことがなかった。
でも……うん。檸檬は私達の母親なのだから、こう呼ぶのが正しいのだろう。
「また来てくれ――お母さん」
「えぇ。またね、ミカンちゃん」
◆
檸檬が去ってから暫くして、林檎は帰ってきた。
上機嫌そうに文庫本を見せてきたから何かと問えば、なんでも春野桃は小説家で、そのサイン会に行っていたらしい。サインしている間しか話せなかったが、春野桃も喜んでくれたらしく、林檎は嬉しそうだった。
ひとしきり話し終えた林檎は不思議そうな顔をして、二つ、私に問いかけた。
「そう言えば誰か来てたの? というか、家に上げたの?」
客人用のスリッパを仕舞い忘れていて、それに気が付いたらしい。
「うん。ちょっと話せば長くなる」
「そっか。じゃあお茶しながら聞こうかな!」
「あぁ」
私も早く林檎に話したい。
そして、紅茶を用意する私に、もう一つの質問が投げかけられた。
「なんで私のパジャマ、ベッドに散らかってるの?」
……今日はなんだか、よく仕舞い忘れる日だ。




