君の知らない私の想い人
「そういえば、桃のその恩人の子はなんていう名前なの? 気になるわ」
「あれ、言ってませんでしたっけ。名前はですね、鈴木林檎、っていうんですよ!」
◆
箸を落として固まる私に、桃が心配したように声をかけてくる。
心臓の音が嫌というほどはっきり聞こえる。困惑のあまり、声が思うように出ない。
「ど、どうかしましたか?」
どうしたもこうしたも……今、桃は自分の恩人の名前を"鈴木林檎"と言った。聞き間違えではないだろう。
鈴木林檎。それは毎日のように職場で呼んだ名字であり、いつか呼べたらいいなと、常日頃から思っていた名前だ。
いやいや、同姓同名なんていくらでもいるじゃないか。何を焦っているんだ私は。
激しくなった鼓動を抑えようと、深呼吸を何度か繰り返してなんとか落ち着きを取り戻す。
不安そうな顔で私を見つめている桃に、私は無理やり笑顔を作って向けた。
「ごめんなさい、ちょっと身近な人と同じ名前だったから、動揺しただけだから、心配しないで」
「そ、そうですか……」
大丈夫。鈴木も林檎も、よく聞く名前じゃないか。この程度の偶然なら起こってもおかしくはないだろう。
そう、自分に言い聞かせる。
不安そうな目でこちらを見ていた桃が、ふと思いついたように箸を止めて言った。
「その子の学生時代の写真もあるんですよ。見ます?」
その提案に、私はしばし迷う。名前だけならば同姓同名の可能性もある。しかし、ここで写真を見て、それが本当に鈴木さんだったら――
しかしあろうことか、私が悩んでいる間に桃は、
「ほら、この子です!」
と、そのスマホ画面に表示された写真を、私の目の前に差し出してきたのである。
視界に飛び込んできた、女子高生二人が肩を寄せ合っている自撮り。左側で屈託のない笑顔を浮かべているのは、どう見ても桃だった。今よりもだいぶ幼く見えるが、それでも一目で分かる。
そしてその隣―桃の右側に居る少女も、やはり一目で分かった。分かってしまった。
今よりも髪が少し長く、柔らかな笑みでこちらにピースサインをしている女の子。
それは、どう見ても鈴木さんだった。
「……苺さん? どうしたんですか?」
その写真を見て思わず黙り込む私に、桃がまた不安そうな表情を浮かべる。
思考がぐちゃぐちゃに混ざり、私は混乱した頭を何とか整理しようと頭を抱えて俯いた。
私は一年以上鈴木さんに想いを寄せてきた。
しかし、桃と出会って、一緒に暮らし始めて……桃が恩人に会うと聞いて、不安になった。
桃が私の元を離れて、恩人―長年の想い人へと移ってしまうのが怖かった。
そして、その相手は鈴木さんだった。
整理はついたものの、心の乱れは収まらない。どう転んでも、今の関係が崩れてしまう気がした。
鈴木さんを選んだら、桃との関係は当然終わる。
桃を選んだら、鈴木さんへの想いを閉じ込めなければいけない。
桃が鈴木さんへと移ったら、私はどうすることも出来ない。
白を切って、誤魔化して、「何でもない」と笑えば、この現状は続くかもしれない。だけれど、
「……その鈴木林檎さんは、私の、会社の部下なの」
あんなことがあった直後に、桃に隠し事なんて出来るほど私は強くなかった。あの悲しそうな目を、もう見たくないのだ。
私の言葉に顔全体に驚きを浮かべて、私とは裏腹に、目を輝かせて、
「え! すごい、そんな偶然ってあるんですね!」
とはしゃぐように、明るい笑顔を浮かべた。
私はそんな桃に、なんとか笑顔を返して、「そうね」と短く相槌を打つ。
どうすればいいか、分からない。私はどうしたいのか、何を選びたいのか。
桃に気づかれないように、そっと、溜息を吐いた。
◆
鈴木さんに想いを寄せていたはずの私はいつの間にか、鈴木さんと桃のどちらかを選ぶことが出来なくなっていた。




