94.ロランディアの魔女<1>
ミモレに無事、マナブックを渡すことが出来た日の夕食後。
いつもは素直にリブラリカへと帰るところを、私は未だロランディア図書館に残っていた。
薄暗くなってきた室内。
ロランディア図書館内に割り当てられた自室で、エメラルド色に淡く輝く小さなマナブックを見つめる。
昼間、あの泉のほとりで。
――『お姉ちゃんには、読んで欲しい……です。きっと、役に立つから』
ミモレに言われた一言が、ずっと胸に引っかかっていた。
役に立つ、って何に……?
やっぱり、魔術書の調査に役立つってことだろうか?
彼女には、調査の話なんて一言もしていないはずなのに。
ころり、と手の平の上で転がったマナブック。
『翡翠色の日記』というタイトルのこの本は、一体どんな内容なのだろう。
「……ええと、マナブックの読み方は、確か……」
私は、魔術の適性はあるのに、魔術は使えない。
それでも、身の内にマナを持っている魔力持ちのため、マナブックなどの魔道具を使うことはできたりする。
以前シャーロットに教えて貰った通りに、マナブックを乗せた手の平に意識を集中させる。
ほわりと手の平が温かくなるような感覚。
次いで、マナブックが光の粒子を散らしながら、鮮やかさを増した。
ぱっと一瞬煌めいて、マナジェムから上方に、扇状の映像が現われる。
元いた世界でいう、ホログラムのように映された映像。
そこには、翡翠色の表紙のシンプルな本が浮かんでいた。
「綺麗な本……」
これといった装飾もないけれど、凜とした美しさを感じる見た目の本だ。
もう片方の手を翳してゆるりと動かすと、映像の中の本もくるりと回る。
表紙、裏表紙、背表紙……どれだけ眺めても、タイトル以外に作者の名前がない。
日記、というタイトルから、中身が誰かの手記のようなものだということはある程度推測できるけれど……。
ますます中身が気になってきてしまった。
「……おい、まだ帰らないのか?」
映像を見つめながら、本文を読むでもなく黙り込んでいた私に、アルトから声を掛けられる。
ふと顔を上げれば、いつだったかのように、すっかり陽が暮れきっているせいで、部屋の中はほぼ真っ暗になりかけていた。
部屋のカーテンを閉め、テーブルの上にあったマナランプに灯りをつけ相棒を振り返る。
「うーん……どうしようかなって」
「あ?」
「この本が気になるから、たまには私もここに残って、本読んでもいいかなーって」
本を読むだけならば、いつものようにリブラリカから元の世界の自宅へ帰ってでもできる。
しかし、今読みたいのは活字ではなくて、マナブックだ。
元の世界へ持ち帰ることは出来ても、大気中にマナ――魔力の元が存在しない元の世界では、私の持っている魔力量では起動すらしてくれない。
実はちょっと前に試してみて、無理だということは確認済みだ。
だから、この本を読むのならばこちらの世界に居るときじゃないといけない。
リブラリカの最奥禁書領域で読むのでも構わないのだけど……何となく、どうせなら焔さんの近くに居たいと思った。
幸い、こうしてベッドのある自室も用意してもらっているし、一晩くらい泊まっても何も支障はない。
「うん、今日は読書する日ってことで、こっちに残るよ」
「……お前がそうしたいっつーなら止めないけど。イグニスのやつには一言、言って置くんだぞ。心配するから」
「ん、わかった」
そうと決まれば、早速焔さんに会いに行こう。
暗くなった館内を歩くために、手持ち用の小さなマナランプを持って、私は自室を後にした。
廊下は、ぽつんぽつんと申し訳程度に付いている弱い照明があるだけで、足下はほぼ月明かりのみといった暗さで包まれていた。
しんとした館内に、森の音がかすかに、さああっと耳に届く。
……ちょっとだけ、怖い、かも。
小さく肩を震わせると、足下を付いてきていたアルトが「どうかしたか?」とこちらを仰ぎ見てきた。
なんでもない、と首を振って、音を立てないように足を踏み出す。
柔らかな絨毯に吸い込まれていく足音と、動く度にさらりと耳を掠める、自分が起こした衣擦れの音。
慣れない感覚に、無意識に緊張して身体が固くなっていくのを感じた。
「…………」
落ち着いて、大丈夫。怖くない。
正面の階段を降りながら、足下にアルトがいるのを何度も確認する。
私はひとりじゃないし、同じ館内に焔さんもライオット王子も居てくれる。
だから大丈夫。
自分に言い聞かせるように、何度もそう心の中で唱えて……それでも心臓が落ち着かないのは、何故だろう。
何だか、肌がじっとりするような。
かと思えば、ぴりっと何かが神経を撫でていくような。
落ち着かない気持ちがどうしても静まってくれなくて、びくびくしながら階段を降りきった、その時だった。
「……あら?」
「っひ……!」
突然の声に、びくっと大きくその場で飛び上がった。
……数十センチ、飛び跳ねたような気がする。
口から心臓が出そうとはこのことか、という程驚いた。
ばっと振り返った正面玄関のホール。
私の反応に驚いた、という顔でそこに居たのは、昼間とは違った質素なドレスにショールを羽織った、レディ・オリビアだった。
「あ……レディ……」
まだばくばくと暴走している心臓の辺りを握りしめながら、私の唇からはちょっとうわずったような情けない声しか出ない。
「ごめんなさいね、驚かせてしまったみたいで……。こんな時間に貴女がいるなんて、思わなかったものだから」
彼女だって驚いただろうに、申し訳なさそうに謝らせてしまうなんて。
罪悪感に、必死に散らばった理性をかき集め、心臓を宥めようと深く息を吸った。
「……いえ、私こそ申し訳ありませんでした。ちょっとその、驚いてしまって……」
「ここは夜、暗いから仕方ないわ。それで、こんな時間にどうかなさったのかしら?」
「あ、えっと……マスターに会いに行こうとしていました」
「ああ、そうよね。それしかないわよね」
彼女は頬に手を当てると、そっと廊下の先――焔さんがいるはずの、保管書庫へと視線を向けた。
ここからでは見えないけれど、きっと今夜も、明かりがついたままなのだろう。
「さっき見に行った時も、明かりがついていたわ」
「保管書庫、ですか?」
「ええ。この時間は、私が館内の巡回をしているの」
「そうなんですね」
この時間は、ということは、私が知らないだけで、彼女とレグルの2人で、夜中に館内の見回りをしているのだろう。
リブラリカは確か、警備の騎士たちや夜勤の司書たちが見回りをしていたはずだ。
ロランディア図書館は彼女とレグルの2人だけしかない……ということは、休みもなく毎晩こうして、館内に異常がないか確認をしているのだろう。
司書の人数が少ない図書館というのは、本当に大変だ。
「……あ、そうだわ!」
レディ・オリビアは突然声を上げると、嬉しそうに両手を合わせて微笑んだ。
「大賢者様の所へ行く前に、私とキッチンへ行きましょう、リリーさん」
「キッチンですか?」
「大賢者様、いつも真夜中に紅茶を取りに来られるのだけれど、せっかくですもの。今から用意するから、リリーさんが持って行って差し上げたらいいわ」
続けて「お話をしに行くところだったのでしょう?」と微笑まれて、私は食い気味に首を縦に振っていた。
「はいっ!ありがとうございます……!」
「2人分、とびっきりのお茶を用意するわね」
嬉しそうな笑顔で頷いてくれたレディ・オリビアの背中を追いかけて、保管書庫とは反対側にあるキッチンへと歩いて行く。
焔さんへは、今夜は私もここに泊まる、と、それだけ伝えるつもりだったのだけれど……。
彼女が言う通り、せっかくのふたりきりの時間だ。
焔さんさえ忙しくなければ、お茶を楽しむ間くらい、またゆっくりと話をする時間が取れるかもしれない。
ほんの少し、淡い期待に膨らむ心を胸に、足取りが軽く感じられた。




