93.泉の少女<2>
図書館の建物をぐるりと回って、裏手をのぞき込む。
そこには小さな家庭菜園のような畑があって、そのすぐ傍まで森が迫っていた。
子供たちの話によると、この森に入ったところに池があって、そこでよく本を読んでいるらしい……けど。
「森に入ったところって言ってたけど……結構広いね」
「だなあ……どこらへんだろう?」
同じように隣で立ち尽くしているライオット王子も、困ったように腕を組んで唸る。
せめてどの辺りなのか、子供たちに聞いておくんだった。
後悔に溜息を零す私の肩口で、アルトが伸び上がってきょろきょろと周りを見渡すと、ついと前足で少し先の茂みを指した。
「リリー、あっちだ」
「え?」
「あそこの茂み。誰かが通った痕がある」
「痕って……」
戸惑う私を置いて、王子がその茂みへと歩いて行ってのぞき込む。
がさがさと茂みをかき分けて、すぐに「お」と声が上がった。
「リリー!本当だ、ここに道があるよ」
「ほらな?」
ふふんと得意気なアルトをひと撫でして、王子の元へと駆け寄る。
「ほら、ここ」
促されてのぞき込んだ茂みの奥には、確かに踏み固められた細い道が出来ていた。
ライオット王子に続いて、その道を進んでいく。
少しだけ傾いてきた陽はまだ鮮やかで、木々の葉を透かして綺麗な翡翠色に輝いている。
子供ひとりが通れるくらいの細い道は、数分で開けた場所へと私たちを導いてくれた。
「わぁ……っ!」
目の前に広がった光景に、私の口から微かな声が漏れた。
子供たちが小さな池、と言っていたものが、宝石さながらのエメラルドの煌めきを湛えて目の前に横たわっていた。
水面には色鮮やかな水中花が咲き乱れ、おとぎ話に出てくるかのような透明な美しさで溢れている。
小鳥が囀る声と、木々のざわめきに、清らかな水の音。
その様は、池と表現するより泉と言った方がしっくりくる気がした。
「……これは、美しいな」
王子まで、ほう……とうっとりしたような溜息を吐いている。
「――はい」
美しい。
それ以外になんと言葉にすれば良いのか、わからない。
あまりの光景に、一瞬ここへ来た目的を忘れかけていた。
「……あ」
鈴を転がすような、微かで小さな音に、はっと我に返る。
視線を巡らせると、泉のほとり……今居る場所から少し行った辺りにある切り株に、探していた小さな人影を見つけた。
泉に負けないくらいキラキラと輝く、翡翠色の瞳と目が合う。
一瞬びくりと身体を硬直させた彼女は、しかし相手が私だとわかると逃げることまではしなかった。
「お姉ちゃん……と、誰?」
物語の中に出てくるような綺麗な泉のほとりに、本をのぞき込む可憐な少女。
絵画のような光景に、私は一瞬ぼうっと見入ってしまいそうになった。
「あの子がミモレか?」
隣から上がったライオット王子の声に、はっと我に返る。
「あ、うん。そう……こんにちは、ミモレ」
「……こんにちは」
挨拶すれば、ミモレは本を閉じて胸元に抱えながら、小さな声で応えてくれた。
おどおどと視線が、王子の方へ向けられている。
彼とは初対面だからか、緊張しているようだ。
ミモレの様子に、ライオット王子は何かを察してくれたらしい。
「……俺、ここで待ってるから」
小さな声でそう言うと、彼はそっと私の背を押してくれた。
「……はい」
感謝を込めて頷いて、私は静かにミモレのほうへ足を進めた。
近づいた私に、ミモレが小さく首を傾げる。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「この前、ミモレが大賢者様にお願いした本、あったでしょ?それを持ってきたの」
「え……!」
ぱっとミモレの顔が明るくなる。
上着の裏ポケットを探ってあの巾着袋を取り出すと、ミモレを驚かせないようにゆっくりと彼女の前にしゃがみ込んで目線を合わせた。
「はい、これ」
ころんと手のひらに出てきた、オリバーのマナペンの色――エメラルドに輝くマナジェムを、ミモレがきらきらと期待に満ちた目で見つめた。
「所蔵してある本は持って来れなかったんだけど、マナブックを用意したの。大賢者様が、これを貴女にって」
「もらって……いいの?」
「うん」
そっと差し出された彼女の白い手に、マナジェムを渡す。
ミモレは小さな手のひらに落とされたエメラルドのそれを、指で摘まんで陽に翳すようにして見つめた。
「マナブックの読み方は、大丈夫?」
「うん、大丈夫。おうちにもちょっとだけあるから」
彼女は静かにそう答えると、大切そうにマナジェムをポケットにしまって、丁寧に私へと頭を下げた。
「お願いを聞いてくれて、ありがとうございました」
「どういたしまして」
微笑ましく思いながら返事をする。
ミモレは私を見つめると、しばらくして真剣な瞳で唇を開いた。
「……お姉ちゃんは、この本読んだこと、ある?」
「えっ……、ううん。まだ」
首を振ると、ミモレは腰掛けていた切り株から立ち上がり、泉の方へ身体を向けた。
さあっと流れてきた涼しい風が、エメラルドの水面と、ミモレのふわふわの髪を揺らして通り過ぎていく。
「お姉ちゃんには、読んで欲しい……です。きっと、役に立つから」
「え?」
「……この子も、そう言ってる」
突然の言葉に面食らう私の視界に、いつの間にかひらりと何かが飛び込んできた。
翡翠色に金色を溶かしたような、神秘的な光を放つように見えるそれは、ひらりひらりと優雅に羽を動かして、ミモレが持ち上げた指先へとそっと留まった。
見たことのないような、淡い光で出来ているように見える――蝶だ。
ほんの数回、ゆったりと羽を動かした蝶は、ミモレの指先を離れるとひらひらと風に乗って飛び、森の中へと消えていく。
「お姉ちゃん、本当にありがとう。今度、大賢者様にもお礼を言いに行きます」
「え、あ……うん、わかった」
「それじゃ、またね」
「……うん、また……」
何だか頭がぼんやりするような、ふわふわした感覚が抜けない。
そのままぼうっとしている私に再び頭を下げると、ミモレは踵を返して早足に森の中へと姿を消した。
私はその場にしゃがみ込んだ姿勢のまま、ライオット王子に肩を揺すられるまでぼうっとしたままでいた。
「……い、おい、リリーってば」
「――え?」
「大丈夫か?……どうしたんだ、ぼうっとして。疲れたか?」
「え、あ、いや……えっと」
何となく思考が回り出した頃には、ミモレの姿はもう見えなくなっていた。
「……ごめんなさい、ちょっと、疲れたのかも」
差し出された王子の手を借りながら、ゆっくりと立ち上がる。
いつの間にか陽はすっかり傾き、木の葉を透かす光は燃えるような赤い色に変わっている。
「沢山歩いたもんな。そろそろ時間だし、図書館に帰ろう」
「うん……」
そのままライオット王子に優しく手を引かれて、泉を背に歩き始める。
何となく名残惜しいような気持ちで最後に振り返った泉は、夕日の色に温かく色味が変わったエメラルド色をしていて、ちょっとだけ寂しい美しさに輝いていた。




