89.夜の気配
「んあー……終わったぁ」
ぐーんと両腕を頭上に伸ばして、その後、だらりと椅子にもたれかかる。
シャーロットに呼び出されて、急ぎの仕事、しかもイグニスからのだ、なんて任されたのは、ある本をマナブックをにする仕事だった。
まぁ、マナブックの書記員をしている自分にとって、いつもやっていることなのだけれど……友人が必要としている、となれば気合いも入るというものだ。
写本し終えた小型携帯魔力結晶――通称マナジェムが3つ、机の上に淡い緑色の輝きを放ちながら転がっている。
その脇に置いてあるのが、今回写本を頼まれた原書――『翡翠色の日記』だ。
新緑色に染められた布表紙に、白いインクで書かれたタイトル。
分厚さはそこまでではなく、手帳くらいの大きさの、本当にただの日記帳といった見た目のこの本。
著者の名前は記されておらず、そこまで有名というわけでもないこの本が、どうやらイグニスたちの調査に役立つものらしい。
他ならぬ友人のためならばと、いつもより張り切って仕事に取り組んで、3冊分を2晩徹夜して完成させた。
さて、これをシャーロットに持って行かないと――。
眠気とだるさに抗いながら、よっこらせと席から立ち上がろうとした俺の背後から、盛大な溜息が降ってきたのはその時だった。
「……まったく。いつもこの調子で仕事をこなしてくださったのなら、もっと書記員の皆様の仕事がはかどりますのに」
「お、シャーロットか」
「……職場では副館長とお呼びなさいと、何度言えば理解するのです」
振り返ったところに、ちょうどこれから探しにいこうとした幼馴染み――もとい、ロイアー副館長が、不満そうな顔で腕組みをしていた。
「悪い悪い。……これ、頼まれてたマナブック。今ちょうど3冊分完成したところだよ」
「拝見致します」
手袋をつけた手でマナジェムを受け取ったシャーロットは、きらきら輝くそれをしばらくのぞき込んでから、こくんと満足そうに頷いた。
「問題なさそうですわね。お疲れ様でした。……急がせてしまって、申し訳ありませんでしたわ」
「なんだよ。そんなこと気にすんな。イグニスのためなんだろ」
「……ええ。それでもです。職員の体調管理と合わせて仕事を割り振るのも、副館長である私の仕事ですから」
しゃんと背筋を伸ばしたシャーロットが、いつものように凜と微笑む。
……俺は、こんな風に凜と立つシャーロットの姿を見るのが、本当に好きだ。
そんな彼女の姿が眩しくて、彼女に向ける目を細める。
徹夜の疲れなんて、簡単に吹っ飛んでしまう気がした。
シャーロットはそんな俺と目が合うと、はっとしたように一瞬で頬を染めて、ぷいっと明後日の方を向いてしまう。
そういう、昔から変わらない仕草まで、可愛らしい。
「な、何ですの、そんな緩んだ顔をして……!疲れすぎなんじゃありませんこと?」
「んー、そうかもなぁ。ちょっと張り切っちゃったし」
「今日はもういいですから、早めに帰宅なさい。残った仕事は明日、頑張ってくれればいいですから」
早口にそう言うと、シャーロットは最後にちらり、と俺の机に目をやって、くるりと踵を返した。
そのまま一度も振り返らずに、作業部屋を出て行ってしまう。
「へいへい。……まぁ、疲れたのは確かだし、お言葉に甘えさせて貰うか」
もう一度だけぐぐっと伸びをして、怠い身体を引きずりながら帰り支度を始める。
シャーロットが最後に見ていたそれを手に取って、胸ポケットに大切に仕舞い込んだ。
……彼女に選んでもらった、大切な大切な仕事道具のマナペン。
今度こそ折ってしまったりしないように、すごく大切に扱っている……俺の宝物。
制服のジャケットの上から、マナペンの入っている辺りをぽんぽんと優しく叩いた。
「あー、帰る前に食堂で飯でも食ってからにするか」
ぼそぼそと独り言を呟きながら、ぶらぶらと歩き出す。
時刻はまだお昼を過ぎたくらい。
こんな時間に帰宅するのは久しぶりだし、せっかくなら屋敷で一休みしたあと、夜の城下街に繰り出すのもいいかもしれない。
……イグニスとリリーは、元気にしているだろうか。
廊下から見えた青空に、ふとそんなことを思った。
夕方、いつもより早めにロランディア図書館から出てきた私は、アルトを肩に夕暮れ直前の道を歩いていた。
そろそろ頼んでいたマナブックができているはずだろう、と、焔さんから取りに行くように指示があったのだ。
今日はまた、リブラリカの食堂で夕食かな……なんてぼんやり考えながら向かった、村からほど近い森の中。
いつも通りリブラリカへ通じている扉に手を掛けようとして――ふと、何かの気配のようなものを感じた。
「?」
誰かの視線のような、それとも近くに人がいるような……?
「どうかしたか、リリー?」
「あ……えっと、今、何か……」
アルトが首を傾げる横で、キョロキョロと森の中に視線を彷徨わせるけれど。
……うん。特に、誰かがいるというわけでもなさそうだ。
「気のせい、かな」
きっとそうだろう、と頭を振って、気を取り直して扉をくぐった。
パタンと閉じた古い木製の扉。
再びしんと静まりかえった森の中を、ひらりと蝶が舞っていた。
――そろそろ、梨里はリブラリカへ着いた頃だろうか。
ここには本を痛めることのないように、と窓がないから、時間の確認はもっぱら机の上に半ば埋もれた置き時計をみるしかない。
もうとっくに陽が暮れただろう時間の頃、保管書庫の定位置に座りながら思考が彼女へと向いていく。
あの本のあの分量ならば、急ぎで頼めば恐らく、今日か……遅くても明日には完成しているはずだと思い、梨里に確認をお願いしたのだ。
明日こちらに来るときにはきっと、マナブックを持ってきてくれるだろう。
ぱたんと読み終えた本を閉じる。
今読んでいたのは、ザフィアが昔読んでいた本のうちの1冊。
薬草関係の本だったけれど、特にこれといった収穫はなかった。
深い溜息をつきながら、天井を仰ぎ見る。
机の上のティーカップとポッドは、随分前から空っぽだ。
……少し、息抜きしてくるか。
思い立って、よっこらせと重い腰を上げる。
向かったのは、図書館の正面玄関。
がちゃりと重たい音を立てて扉を開き外に出れば、わずかにむわっとした夏の夜の空気が全身を包み込んだ。
さすが田舎の夏の夜。
むっと濃い緑の香り、湿気の高さに、時折ざわりざわりと葉ずれの音。
その中に漂うのは、緑の香りよりももっと濃く深い――妖精の気配と、マナの密度だ。
深呼吸をすると、思い切りそれらの気配を吸い込んだ。
むせ返りそうな濃厚な空気。
「――ん?」
その中に、ほんの僅かひっかりを覚えて、ふと意識が引っ張られる。
向こうの方角、森のさらに向こう。
あちらから、微かに……ほんの微かに漂ってくる、このマナの気配は。
「…………」
意識の奥の奥、埋もれた記憶が引きずり出されそうになって、焔は思わず顔をしかめた。
……いや、気にするのはやめよう。
もし仮に「そう」だとしても、別に――今、構ってやる必要はない。
願わくば、やっかいなことになりませんように。
それ以上そこにいる気にもなれなくて、早めに退散しようと踵を返した。
夏の夜の空気に漂う、微かな気配は――。
さわりと揺れて、愉快そうにふわりと弾けた。




