88.小さな願い
「ふあ……」
我慢しきれなかった欠伸が漏れかけて、慌てて口元を押さえる。
昨日、久しぶりに会えたシャーロットとの会話に夢中になって、自宅に帰り着くのも就寝するのもかなり遅くなってしまった。
お陰でばっちりと寝不足だ。
こんな状態での静寂の中の書架整理は、どうしても眠気との戦いだった。
だめだめ、ちゃんとお仕事しないと。
眠気を振り払うように頭を振って、脚立を手に次の書棚へと移動して――。
「――あ」
「!」
のぞき込んだそこには、いつか見たふわふわの栗色の髪の少女が、本を抱えていた。
綺麗な翡翠色の瞳がまた、大きく見開かれて――。
「――っ待って!」
今度こそはと、逃げられる前に私は声を上げた。
一度は素早くこちらに背を向けた彼女だったけれど、私の言葉にびくりと背を震わせて、立ち止まる。
――慎重に、怖がらせないように。
「……突然呼び止めて、ごめんね。前にも驚かせちゃったよね」
優しい声を意識しながら、脚立を脇に置いて、そっとその場にしゃがみ込む。
「逃げないでくれたら嬉しいな。……はじめまして、私、リリーっていうの」
「…………」
そっと、彼女がこちらを肩越しに振り返った。
まだまだ強ばったように見える小さな身体。
「貴女のお名前は?」
微笑みとともに、静かに尋ねる。
少女はまだびくびくしながらも、少しは話をしてくれる気になったようだ。
恐る恐るこちらに身体を向けると、隅のほうの床に視線を落としながら、ぼそぼそと小さな声で応えてくれた。
「……わたし、ミモレ。こんにちは」
やった、大進歩だ!
心の中だけでガッツポーズを取りながら、慎重に次の話題を探す。
「ミモレちゃん、可愛い名前だね。……図書館、好きなの?」
「えと……本、好き、だから……」
「そっか。私もね、本、大好きなの。一緒だね」
こくん、と、彼女は小さな頭を小さく縦に振る。
この調子なら、少しは会話できるかな……と思った時。
「声がすると思ったら、ミモレだったのね」
ふと背後から、レディ・オリビアが顔を覗かせた。
彼女を視線に捉えたミモレが、ぱあっと表情を明るくする。
「オリビア……!こんにちは!」
「こんにちは。今日はリリーとお話してたのね」
「うん」
ととと、と小さな足音を立ててレディ・オリビアに歩みよるミモレ。
レディ・オリビアは優しく微笑みながら身をかがめると、ミモレの髪をそっと撫でた。
「リリーはね、王都のリブラリカから来てくれている司書さんなのよ」
「えっ」
その言葉に、驚いたようにミモレがこちらを振り返る。
「うん、私、普段はリブラリカで、大賢者様と働いているの」
「大賢者様と?!わあ……」
途端にミモレの翡翠色の瞳がきらきらと輝いて、向けられる尊敬の眼差しが眩しい。
ミモレはちょっとだけ躊躇うように視線を泳がせたあと、そろそろと数歩、こちらに近寄ってきて、胸元に抱えた本をぎゅっと握り絞めた。
「あの……おねえ、ちゃん?」
「うん?」
「……わ、わたし……ずっと、リブラリカに行ってみたいって、思ってて……」
「うん」
「あの……あのね、その……」
ミモレはもじもじと言いづらそうにしながら、不安げな視線をレディ・オリビアへと向ける。
レディ・オリビアがそれに優しく頷くと、小さな少女は頬を染めながら、まっすぐにこちらを見つめた。
「大賢者様に、お願いがあるの……!」
午前中の書架整理を早めに切り上げた私は、いつかのようにまたひとり、保管書庫へと足を向けていた。
昼食の前に、ミモレからの頼まれごとを焔さんへ相談しておこうと思ったのだ。
アルトはまた気を遣ってくれたのか、「先に行ってる」なんて言ってとことこと食堂へ向かってしまうし。
……もう。
相棒のことを考えながらしたノックの音に、返事がないのはいつもの事。
一度小さく深呼吸してから、ドアノブへと手を伸ばした。
「焔さん、梨里です。ちょっとよろしいですか?」
静かに入室して声を掛けると、机に向かう意外と細身に見える背中が、くるりと振り返った。
「あれ?梨里さん。……うん、大丈夫だけど。どうしたの?何かあった?」
少しだけ驚いたようにしながら時計を確認する焔さんに、いえ、と慌てて手を振った。
「すみません、あの、問題とかではないんですが……ちょっと頼まれごとをされたので、昼食前にその相談ができたらと思って。少し早く来ちゃいました」
「頼まれごと?……うん、取り敢えず話聞くよ」
「ありがとうございます」
焔さんの隣の椅子に腰掛けると、作業机の上に散乱した色々なものが目に入ってくる。
以前見た時とはまた違った、これまた見たことのない言語の古い本が積み上げられて新しい山ができているし、書き込みのされた用紙は束になって量が格段に増えていた。
「それで?」
わざわざ読みかけだった本を閉じて、こちらに身体を向けてくれる焔さんに、意識せず背筋が伸びた。
「ええと……実は午前中、書架整理中にこの村の子と会ったのですけど、大賢者様宛にって、ちょっとしたお願い事をされたんです。私ひとりじゃ判断がつかなかったので相談したくて」
「この村の子から?」
「はい、ミモレ、という女の子です。……リブラリカに所蔵があるはずの、『翡翠色の日記』という本を読みたい、と」
「……『翡翠色の日記』、だって?」
タイトルに覚えがあったのだろうか、焔さんが驚いたように目を丸くした。
「はい。私は聞いたことのないタイトルでしたし、そもそもリブラリカ所蔵だとしても、本人が出向かないのに本を持ち出して貸してしまうのは、規則違反になってしまいますから、どうしたものかと……」
「……ふむ、いや……。うん、そう、だね……」
何故か、何かを考え込むように顎に手を当て、俯いてしまった焔さん。
そのまま黙り込んでしまった彼に、私は首を傾げた。
ミモレがその本を読みたがることに、何かひっかかることでもあるのだろうか。
「……あの、焔さん?」
あまりにも長い沈黙に、おずおずと声を掛ける。
彼ははっとしたように顔を上げると、ちょっとだけ眉尻を下げた困ったような表情で笑った。
「っああ、ごめんね。えっと……うん、そうだね。所蔵分の本をそのまま貸してあげることはできないから、ロイアーに頼んでマナブックにしてもらおう。そうしたら、そのままそのミモレという子にあげてしまっても構わないから」
「!いいんですか?」
「うん。ちょっと待ってね、今ロイアーに手紙を書くから……」
ごそごそとまだ未記入の用紙を引っ張り出した焔さんは、煌めくマナペンでさらさらと走り書きを始める。
短く要点だけを書いたのだろうか、すぐに書き終えたそれを書類ファイルに挟んで、私の方へと差し出した。
「梨里さん、申し訳ないのだけど、昼食の後でいいからこれを急ぎロイアーに届けてもらえる?」
「はい、わかりました」
急ぎ、という言葉に僅かながらひっかかりのようなものを感じながらも、素直にファイルを受け取って頷く。
「それと……その、ミモレという子。梨里さんがよく見ていてあげて欲しいんだ」
「え?」
「何となくだけれど……たぶん、今回の調査について、重要な何かに気づけるような気がするから」
そんな意味深なことを言う焔さんに手を引かれ、椅子から立ち上がりながら私は――首を傾げるしかない。
ミモレが、あの子が何か知ってるってこと……?
「ええと、あの子が何か……?」
「うーん、ただの勘?みたいなものだから、当たるか当たらないかはよくわからないけど……取り敢えず、お願いね」
「はい……」
「よし、それじゃあ食堂に行こう」
引かれた手をそのまま握られて、戸惑いの中どきっと心臓が跳ねた。
割と華奢ですらりとした綺麗な手のはずなのに、こうされると、私の手をすっぽりと包んでしまうほど大きいのだということが嫌でも感じられる。
私の目の前には、細身なのに大きく見える、焔さんのローブの背中。
どきどきと強くなる鼓動が騒いで、胸元に抱えたままの書類を持つ手に、ぎゅっと力を込めた。
こんなふうに、ちょっとしたことで突然騒ぎ始める自分の感情には……まだまだ、慣れることはできなさそうだった。




