69.大賢者様と私<3>
これが――この、生成りの本『雨の音』が、私の本で間違いないと、焔さんはそう言って微笑んだ。
やっぱり、という気持ちと同時に、じわりと胸に湧き上がってくるこの感情は……なんだろう。
温かいような、くすぐったいような。
「ええと……」
何から聞こう?
聞きたいことは沢山あったはずなのに、沢山考えたはずなのに。
いざとなると、喉の奥で言葉が絡まってしまって、私は一度口を閉じてしまった。
そんな私を優しく見守っていた焔さんから、静かな声が降ってくる。
「きっと、僕に聞きたいこと……沢山あるよね。いいよ、きちんと話すから、聞いて」
「焔さん……」
彼の言葉に、ぐっと胸が詰まる。
いつも彼の優しさに甘えてばかりいる自分が悔しく思えて、握った手のひらに力を込めた。
いつまでも、憧れのこの人に背を押されてばかりではいられない。
「……この本を読んで、私の書いたものだって気づいてから、私、沢山……色々なこと、考えました」
「うん」
「聞きたいことも考えたことも、沢山あった気がするんですけど……取り敢えずひとつ、聞いてもいいですか?」
「うん、いいよ」
彼の声は柔らかく、次の言葉を促してくれる。
「……焔さんは、いつから知っていたんですか?」
「いつから、か……」
そう。いつから、この本のことを知っていたのか。
それがまず一番に、私の聞きたかったことだった。
「ちょっと待っててね」
焔さんはそう言って、一度長椅子から立ち上がるといつも仕事をする机のほうへと歩いていった。
かがみ込んで机の下でごそごそしていたと思えば、手のひらサイズの小さな文庫本を片手にこちらへと戻ってくる。
「あ、それ……」
その手にあったのは、間違いなく、私の作った『雨の音』の文庫本。
世界にたったふたつしかないその本の、片割れだった。
「いつから知っていたのか、って言ったよね?多分だけど、この本がお店に並んだ次の日からだと思うよ」
「並んだ、次の日……ですか?」
「うん。この本自体はね、佐久間さんが書棚に並べようとしているところに偶然居合わせて、それで買わせてもらったんだ。読んでみたら、すごく気に入っちゃって。次の日に路地裏に行って、佐久間さんに書いた人のこと色々聞いたんだよ」
懐かしそうに話す焔さんは、優しい視線で文庫本を見つめながらふふ、と笑った。
「最初は教えてくれなかったんだけどね。僕、どうしても気になっちゃって。随分としつこく聞いて、内緒だぞってこっそり教えてもらったんだ。君が書いた本なんだよって」
「それじゃあ……もう、最初からずっと、知ってたってことなんですね」
「うん。内緒って言われてたし、君には言わなかったけどね。その後も、君が書いたって本は必ず買いに行って読んでた。……毎回、楽しみにしてたんだよ」
それはそれで……恥ずかしい。
でも、自分が書いていた物語を毎回楽しみにしていた、と、そんな風に言ってくれる人が居たなんて。
どうしよう、すごく嬉しい気持ちでいっぱいだ。
「なんだか、その……自分で聞いたことなんですけど、恥ずかしい、です。でも……ありがとうございます。嬉しいです」
恥ずかしさが勝る中、両手で顔を覆いながらそう言うと、焔さんの微かな笑い声が聞こえた。
「どういたしまして。……僕こそ、いつも素敵な物語を読ませてもらっていて、ありがとう」
焔さんの言葉にも、頷きを返すので精一杯だ。
路地裏で普通に働いていたあの頃から、知られていたというのはなんだかもう恥ずかしい。
けれど恥ずかしがってばかりもいられない。
焔さんがずっと前からそれを知っていたのならば、もう一つ、聞きたいことがあった。
なんとか羞恥心をとどめて、もう一つの問いを口にする。
「あの、焔さん。もう一つ聞いてもいいですか?」
「うん、いくつでも」
「焔さんはどうしてあの時、私をこの仕事に誘ってくれたんですか?私が、その本を書いたっていうの……知っていたから、ですか?」
これも、聞きたいと思っていたことだった。
確か、秘書の仕事をするようになってすぐの頃。
寂しかったから、私を秘書に誘ったのだと彼自身から聞いたことがある。
でも、もしかしたらそれ以外にも、理由があったんじゃないか。
この本の存在を知った私は、そんな風にも考えていた。
問いかけて、そっと焔さんの目を見つめると、黒く綺麗なその瞳は、何かを迷うように微かに揺れていた。
「どうして君を秘書に誘ったか、か……。そうだね、君がこの物語の作者だと知っていたから、それも理由のひとつかな」
ずっと持っていた本をテーブルに置いて、焔さんは紅茶を一口、優雅に飲んだ。
「路地裏が閉店してしまったのはとても寂しかったけれど、仕方ないことだったからね。……そうして路地裏がなくなってしまって、君がどうしているのか、気になっていたところにあの日、会えて。あの時の君の話を聞いて、君がこのまま物語を書くのを辞めてしまうんじゃないかって思ったら……すごく、嫌だったんだ。君に物語を書き続けてもらうために、自分に何かできることはないのかな?って考えて、それであんなことを言ったんだよ」
「焔さん……」
話しながら自嘲気味に肩を竦めてみせる彼の姿に、ほんの少し胸が痛む。
「こんな理由だなんて知ったら、梨里さんにがっかりされちゃうかもしれないけど。……確か前にも、僕が寂しかったからって理由で君に秘書になって欲しかったんだって話したこと、あったね」
「……ありましたね。覚えてます」
「結局はさ……僕の我が儘なんだよ、全部。勝手にここに引きこもったくせに、寂しくなって。君に物書きを辞めて欲しくなくて、秘書にならないかって誘って。……大賢者なんて呼ばれてるくせにさ、子供っぽいよね」
「そんなこと、ないです……!」
「梨里さん……」
思わず大きな声を出してしまって、はっとした。
驚いたように微かに目を見張った焔さんの姿に、いつかのように、思わず手を伸ばす。
少し前の真夜中に見た時のように、寂しそうな横顔をした彼を見ていたら、衝動的に身体が動いていたのだ。
そうして、ティーカップをテーブルに置いたところだった焔さんの手を、ぎゅっと掴んだ。
そんな顔しないで欲しい。
「たとえ、私を秘書にと言ってくれた理由がそうだったとしても、私は――私は、焔さんのこと子供っぽいだなんて、思いませんし、がっかりもしません」
「梨里さん……」
「ひとりでいたら、寂しいって思うのは普通だと思います。私の書いたお話を、気に入って頂いたのだって嬉しいです。それに、焔さんにこのお仕事をもらえたからこそ、私はこうやって働くこともできているし、この世界に来て、沢山のことを学ぶこともできました!これって全部、焔さんのお陰です」
思っていること、気持ち、全部を上手くは言葉にできないけれど。
伝わって欲しい、という心のままに、ぎゅっと掴んだ手に力を込める。
「焔さん、私は――っ」
――貴方のことを。
勢いづいたままに、口にしようとした言葉は、しかし私の手を逆に包みこむように握り返してきた、焔さんの手の感触に途切れる。
「――梨里さん」
私の手をぎゅうっと握って、焔さんの真剣な瞳が間近に迫っていた。
至近距離で覗き込んだ彼の黒曜石のような瞳の奥に、紅い光が揺らめいたように見えて、その真剣な輝きから目をそらすことができなくなる。
「梨里さん。この際だから、ずっと前から思っていたことを、言わせてほしい」
「焔さ……」
「聞いて」
今まで聞いたことのないような低い響きに、どくんとまた、心臓が暴れ出す。
――ちょっと、待って。
これは、この状況は。
驚きと緊張で固まる思考とは別のところで、淡い期待が脳裏を掠めていく。
そんな、そんなことって……あるわけない。
辛うじて動いている理性がそんな期待を否定する。
「僕は、ずっと……ずっと前から」
その言葉の先は。
待って。もしかして。いや、そんなはず――。
「好きなんだ」
確かに耳に届いたはずなのに。
その一言の衝撃が大きすぎて、私は彼を見つめたまま、固まったまま動けずに居た。




