196.痛むこころの、行き場とは
――梨里がカフェで、ルゥルゥと話をしていた頃。
一方、最奥禁書領域の焔のところには、白いジャケットに輝く蜂蜜色の髪をした彼が訪れていた。
「んー、美味しい紅茶だね」
「…………」
「なんだよう、俺が折角こうして訪ねてきてやったっていうのに。ここ最近、本当に恋愛小説ばっかり読んでるんだなあ」
「……はぁ」
ぱたん、と膝の上で本を閉じて、向かいに座る猪王子へと視線を向ける。
目が合うと、彼はにこりと爽やかな笑みを向けてきた。
今日も唐突に、ふらりと最奥禁書領域へ入ってきた『彼』。
瞳の輝きを見るまでもなく、その気配はライオットではない――。
「……ザフィア。今日は何の用?」
「その返答!つれないなぁ。数百年越しの親友とのお茶だぞ?もっと嬉しそうにしたっていいだろうに」
「その数百年越しのお茶とやら、今日で何回目かわかる?」
「ええと……うん? 9? いや、10回目だったかな?」
「君……ほんとに暇なんだね」
「失礼な!暇なわけないだろ? 俺がこうやってこの子の身体を借りる度に、この子が半べそになりながら、山になった仕事を徹夜でこなしてるんだぞ」
……こいつ、自分の子孫になんてことをしてるんだ。
じとっとした目で見ても、ザフィアはけろりと笑顔のままだ。
こういう所は、昔から本当に、王という存在に向いた性格だなと感心する。
やはり、放っておこう。うん、それがいい。
そう心に決めて、自分の分の紅茶を傾ける。
ザフィアは、俺の態度など気にもせず、にこにこと話続けていた。
「それはそうとさ。最近はどう? そうやって恋愛小説読んで、何か勉強になってる?」
「うーん……」
確かに、色々な恋愛小説を読み漁ってはみたけれど。
特に自分の中で何かが変わった……とか、そんなこともない。
……多少、思うところがないわけではないが、些末なことまでこいつに話す必要性も感じない。
曖昧に肩を竦めて返事にすれば、ザフィアは大袈裟に溜め息をついて長椅子へと背を預けた。
「おいおい……。そんな調子でどうするんだよ」
「どう、と言われても」
「ここに来る途中、今日も見たぞ。あの子と青い妖精が、楽しそうにしているところ」
「……あいつが来てるのは、知ってる」
表情に出さないよう気をつけたが、ほんの少しだけ指先が動いたかもしれない。
そうでなかったとしても、長い付き合いであるザフィアの目は誤魔化せないようだった。
「ふうん。気にはしてるってわけか。……でもイグニス。お前、わかっててこんな所に引きこもってるなんて、本当にそれでいいのか?」
「良いも何も、言ってることがわからないけど」
「いや、わかってるだろ。あの子が他の男と楽しそうにしてるんだぞ? お前、何とも思わないわけ?」
ちくり、と胸に痛みを感じた。
――何とも思わない、訳がない。
だからといって、……俺には、何もできない。
痛みと苛立ちに似た感情を見ないふりして、俺はそっと視線を落とす。
「リリーは、楽しい時間を過ごしてる。それを邪魔することないだろ?」
――それを邪魔する権利なんて、俺にはないのだから。
梨里から好きだと言ってもらったとはいえ、彼女の想いに応えてもいなければ、彼女の恋人でもない俺が、ふたりを邪魔することなんてできない。
「彼女が心変わりしたり、あの妖精に彼女をかっ攫われたりしたらどうするんだよ?」
「そんなこと、起こる訳がないだろ」
「起きるわけないなんて、なんでわかる?……彼女は人間だ。人間は、簡単に心変わりする生き物だろ?」
「……彼女に限って、そんなこと、ない」
最後の方が尻すぼみになってしまったが、俺は小声で、そんなことを呟いていた。
……なんだよ。
これじゃあまるで、俺が彼女を、その……想っているみたいじゃないか。
手元の綺麗な赤茶色の水面に映っているのは、見たこともないような、迷子のような己の顔。
そこには、見てはいけない感情が映っているような気がして、すぐに目を逸らした。
「……イグニス」
静かで真剣な声に、のろのろと顔を上げる。
手を組んだザフィアが、その薄紫の瞳を鋭くして、俺を見つめていた。
その眼差しの強さに、椅子に座ったままだというのに、後ずさりしたくなる。
「もう、やめろ」
「……何を」
「俺たちは確かに、残酷なことをした。……だからといって、お前が幸せになってはいけないなんてこと、ないだろ」
「…………」
「俺はもう死んだ身だが……、死ぬ間際まで、あいつと添い遂げられなかったこと……添い遂げるという選択をできなかったことを、深く後悔していた。お前だってもう、800年も独りで居たんだろう? ならもう、やめにしたっていいじゃないか」
ザフィアの言葉に、膝の上で握った拳の中で、爪が皮膚に食い込んだのがわかった。
「そんな……わけ、ないだろ」
――やめにしたっていい、なんて。
そんな簡単なものじゃない。
「あいつは――フィオレッタは、もう今、妖精の国に渡って幸せに暮らしてるんだろ? だったらもう、あいつのために、なんて……こんなことを続けていたって、何もならないじゃないか」
……彼の言う通り、最後に確認したとき。
もう何百年前のことかわからないけれど、その時には、彼女は妖精として、幸せに暮らしているという話を聞いた。
そのことに少し、ほっとしたのは事実だ。
でも――。
「……だからといって、俺があの時したことが、許されるわけじゃないだろ……」
800年ひとりでいて、沢山考えた。
梨里と出会ってから、まだ半年ほどしか経っていないが……その間に得た経験や、梨里と、彼女の周りの人間たちとの交流があって、フィオレッタへしてしまったことを悔いる気持ちは、更に深くなっていた。
もういい、だなんて……今やめにしてしまったら、積もりに積もったこの気持ちの、行き場がない。
俯き黙ったままでいる俺に、ザフィアの静かな声が降った。
「お前にも、思う事はあるだろう。だけど……もう一度言うぞ、イグニス。もう、やめていい。いいんだ。……俺は、お前には、後悔して欲しくないんだよ」
ザフィアが帰って、何時間経っただろうか。
気がつけば、時計は夜の9時を過ぎていた。
……あれ。
おかしいな、と思ったのは、その時だった。
いつもならば、とっくに梨里が夕食を持ってきて、一緒に食べている頃だ。
……もしかして、まだ、あいつと一緒にいるのだろうか。
その可能性に思い至ると、何とも言えない、焦りのような不愉快な気持ちで、胸が暗くなる。
彼女の気配を探ってみると、すぐ近くにいるのがわかった。
最奥禁書領域の中の、彼女に渡した小部屋にいるらしい。
梨里は、一度集中すると時間を忘れてしまうこともあるし……読書にでも夢中になっているのだろうか。
……彼女の顔が、見たいな。
未だもやもやした気持ちのままだったけれど、彼女の顔を見たら、これもまた晴れるだろう。
そう思ったら、すぐに身体が動いていた。
早足で彼女の部屋の前まで行き、ノックする。
「梨里さん、いるかな?」
声を掛ければ、部屋の中で物音がした。
「あ……その、ちょっと、待ってくださ……」
くぐもった彼女の声が、ちょっと掠れて聞こえた気がした。
「……?」
風邪? いや、でも、朝ご飯の時は元気そうだったけれど……。
そのまま待っていれば、少しして、きい、と小さく扉が開いた。
「……ごめんなさい、お待たせしてしまって」
「え――」
隙間からちら、と覗いた彼女の顔を見て、心底驚いた。
いつも柔らかな笑顔の彼女が、目元を赤く、泣き腫らしていたのだ。




