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【WEB版】大賢者様の聖図書館  作者: 櫻井 綾
第3章 美しき華炎の使者

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195.触れた感触<2>


「なっ……!」


 びくりと飛び上がり、離れようとする私の手首を、ルゥルゥの手の平がぐっと掴んだ。

 揺れて少しだけ水が零れたけれど、ルゥルゥは気にすることもなく、そのままこくり、こくりと水を飲み続けている。

 手の平に触れている彼の唇の感触を意識してしまい、パニックを起こしている私。


「……じっとして」


 少しだけ顔を上げたルゥルゥが、低い声で言った。

 ちらりと向けられた青の瞳に、また心臓が大きく跳ねる。

 その時、脳裏に蘇ったのは、焔さんの声だった。


『――梨里さんは、僕のものなのに』


 耳の奥で響いた声と、紅い光が揺れる、黒い眼差しも思い出す。

 すると一瞬で、身体に籠もっていた熱がさっと引いた。

 ――違う。

 あの時、焔さんが私の手の平に口づけた感触とは、違う。

 そう意識した途端に、冷静さも取り戻せた気がする。

 そう、違うのだ。

 あの時は熱に浮かされていたようなものだったし、ぼんやりした中に感じた触れあいと言葉だったけれど……。

 それでも……これは、焔さんの唇の感触じゃない。

 今私に触れているのは、ルゥルゥだ。

 男性に突然こんなことをされれば驚くし、どきどきはしてしまう。

 でも、好きな人のそれとは全然違うのだということも、わかってしまった。


「……ルゥルゥ。ちょっとごめん。離してもらってもいい?」


 そっと声を掛けると、彼はあっさりと身を起こし、手首も開放してくれた。


「……離したけど」


 ちょっとどころじゃなく、不機嫌なのが見てとれる。

 申し訳ないとは思いつつ、私は「ごめんね」と微笑んだ。


「くすぐったかったから。それより、お水足りた?足りないならもっと出すから、今度は貴方の手の平を出してもらっていい?」

「…………」


 先ほどは何も考えず、自分の手の平で差し出してしまったけれど、やっぱり良くなかったと思う。

 だから今度は、彼の手に……とお願いしたのだけど。


「……?ルゥルゥ?」


 返事がない。

 黙りこくって俯いてしまった彼の顔を、覗き込む。

 むすり、と頬を膨らませているように見えるのは、気のせいではない、ような。

 ちら、と彼と目が合って……次の瞬間にはルゥルゥの手が伸びてきて、再び私の手首を掴んでいた。


「えっ、ルゥル――」

「……ねぇ」


 掴まれた腕が、強引に引き寄せられる。

 折角距離を取ったのに、これじゃ意味がない。

 勢いのままに前へと――ルゥルゥの胸元へと倒れ込む。


「ちょっと、いきなりあぶな――!」


 今度は私がむっとして声を上げる。

 が、しかし。

 顔を上げた私の視界いっぱいに、ルゥルゥの整った顔が迫っていて、驚いて言葉が途切れた。

 本当に、何を考えてるのかわからない――。

 至近距離で合ってしまった青い瞳に、私の怒ったような、驚いたような顔が映っている。


「俺は、お前の――」


 そうしてルゥルゥが、何かを言いかけた時だった。


「……おやおや。やはり貴方でしたか」

「!」


 突然背後から掛けられた穏やかな声に、ルゥルゥがはっと身体を離す。

 がさ、と広場の入り口に現れたのは、薔薇の茂みに不釣り合いな、真っ黒の司書ローブを着た男性だった。


「レグルさん……?!」

「こんにちは、リリー様」


 レグルはいつもと変わらない優しい微笑みのままで、私たちの所まで歩いてくる。


「……ちっ」


 小さな舌打ちが聞こえて、ルゥルゥからふわりと風が巻き起こる。

 それは一瞬のことで、レグルがこちらに到着する頃には、ルゥルゥはまた人間の姿に変化していた。


「レグルさん、どうしてここに……」

「たまたま、リリー様たちがこの中庭に入っていくのが見えたので。リリー様への頼まれごとがありましたし、つい追いかけてきてしまいました」


 レグルは穏やかな声でそう答えると、私の隣に立ち、そっと肩に手を添えてきた。

 ぴくり、とルゥルゥの身体が揺れる。


「……お前は、司書の中にいた男だな。見覚えがある」

「はい。使節団の皆様の受け入れも担当している、リヒトー・レグルと申します。お話し中、お邪魔してしまい申し訳ございません」


 すっと頭を下げるレグルをしばらく睨み付けていたルゥルゥは、やがてぷいと顔を背けてしまった。


「別に良い。……もう、用事は済んだから」

「ルゥルゥ、もう大丈夫なの?」


 こんな所まで連れてきて、私に水をねだったのだ。

 不調だった身体は、あんな少しの水でも治るものなのだろうか。


「……助かった。もう、いい」

「そう……」


 ルゥルゥは私に向き直ると、少しだけ柔らかい声でそう言って、本の入った荷物を抱え直した。


「今日はもう帰る。……お前も、仕事かなんか、あるみたいだし」

「あ、それじゃあ、玄関まで――」

「見送りはいい。ひとりで帰る」


 ルゥルゥは素っ気なくそう言うと、「じゃあな」と背を向け……すたすたと薔薇の茂みに消えていってしまった。

 ……行っちゃった。

 体調が悪いようには見えなかったし、まぁ……足りなかったりするようなら、また頼みにくるのだろう。

 レグルとふたり残された東屋は、段々と夕陽も薄れ、宵の色が混ざり始めている。

 しんと沈黙が流れる中、私ははっとしてレグルへと振り返った。


「あ……すみません。レグルさん、それで私に用って?」

「…………ええ」

「?」


 何だろう……声が、固かったような。

 そのまま、また無言になってしまうレグルに、訳も分からず首を傾げる。

 するとひとつ、大きな溜め息がふたりの間に落ちた。


「リリー様。すみません、用事は特にありません」

「え?」

「中庭に入っていくお二人を見かけたというのは、本当です。私は……私はただ、心配になって後をつけただけです」


 静かにそう告白して、レグルは再び溜め息をついた。


「リリー様とあの方が、最近親しくしていらっしゃることは知っておりました。ただ……あの方は、妖精なので」

「あ……」


 その言葉に、ようやくレグルの心配の意味を理解する。

 そうだった。

 普通は、『妖精』というだけで、警戒されて当然なのだ。

 私はただ、ルゥルゥと本について話すのが楽しくて……警戒だとか、そんな気持ちはすっかり忘れてしまっていたけれど……。


「先ほども、リリー様が困っていらしたようなので、嘘をついて邪魔をしてしまい……。すみません」

「い、いいえ!その……心配させてしまって、申し訳ありません」

「私が勝手にしたことです。……ところで、ひとつ窺ってもよろしいですか?」

「はい……」


 静かに持ち上げられたレグルの指先が伸ばされ、――一瞬、私の頬を掠めたような気がした。

 しかし、その手は私に触れる前に、引き戻される。


「リリー様。……あの日、私の気持ちを告げた日のことを、覚えていらっしゃいますか」


 どきり、と心臓が跳ねた。

 ――あの日のことを、忘れられるわけなんてない。

 僅かな痛みを伴った鼓動を抑えようと、無意識に胸の辺りを握りしめる。

 レグルがこちらを見下ろす、モノクル越しの緑色の瞳。

 真剣で、切なさを孕んだその眼差しが、心に刺さるようだった。


「あの時――貴女は、心に決めた方がいると、仰いましたよね。それは……先ほどの彼では、ありませんよね?」

「……っ」


 吸い込んだ空気が、喉の奥でひゅっと音を鳴らした。

 答えようとした言葉が、喉でつかえて音にならないのは、なぜ。

 胸が、押しつぶされそうに痛むのは、どうして。

 もう一度、ゆっくり息を吸って……私は、懸命に彼の瞳を見返した。


「違い、ます……!」


 間違いなく、違う。

 あの時も今も――私は、……私が想っているのは、焔さんだ。

 胸の痛みに、ぎゅっと瞼をつむってしまった私の頭上で、レグルは今、どんな表情でいるのか。


「……そうですか」


 溜めていた空気ごと吐き出すように、レグルさんが言った。

 そろり、と顔を上げると、いつも通りの柔らかな微笑みを浮かべたレグルが、そこにいた。


「もう大分、暗くなってしまいましたね。食堂の辺りまでで良ければ、お送りします」

「……ありがとうございます」


 優しい言葉に、お礼を言って……歩き出したレグルの大きな背を追い、すっかり暗くなった薔薇の茂みへ足を踏み出した。

 ……この、胸の痛みの理由も。

 彼が私に問いかけた言葉の、意味も。

 私は、ちゃんとわかっているのだと、思う。

 胸がこんなに痛むのも、泣きたい気持ちでいっぱいなことも、堪えるのに必死だった。

 今、誰かに優しくされでもしたら、堰を切ったように泣き出してしまうだろう。

 声を出したら、震えてみっともないだろう。

 だから、レグルと別れる時もただ、頭を下げるだけにした。

 最奥禁書領域に戻って、一目散に小部屋へと駆け込み、やっとほっとした。

 ――今、焔さんの顔を見たら、絶対に泣き出してしまうと思ったから。

 今だけは、一人でいたかった。







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