195.触れた感触<2>
「なっ……!」
びくりと飛び上がり、離れようとする私の手首を、ルゥルゥの手の平がぐっと掴んだ。
揺れて少しだけ水が零れたけれど、ルゥルゥは気にすることもなく、そのままこくり、こくりと水を飲み続けている。
手の平に触れている彼の唇の感触を意識してしまい、パニックを起こしている私。
「……じっとして」
少しだけ顔を上げたルゥルゥが、低い声で言った。
ちらりと向けられた青の瞳に、また心臓が大きく跳ねる。
その時、脳裏に蘇ったのは、焔さんの声だった。
『――梨里さんは、僕のものなのに』
耳の奥で響いた声と、紅い光が揺れる、黒い眼差しも思い出す。
すると一瞬で、身体に籠もっていた熱がさっと引いた。
――違う。
あの時、焔さんが私の手の平に口づけた感触とは、違う。
そう意識した途端に、冷静さも取り戻せた気がする。
そう、違うのだ。
あの時は熱に浮かされていたようなものだったし、ぼんやりした中に感じた触れあいと言葉だったけれど……。
それでも……これは、焔さんの唇の感触じゃない。
今私に触れているのは、ルゥルゥだ。
男性に突然こんなことをされれば驚くし、どきどきはしてしまう。
でも、好きな人のそれとは全然違うのだということも、わかってしまった。
「……ルゥルゥ。ちょっとごめん。離してもらってもいい?」
そっと声を掛けると、彼はあっさりと身を起こし、手首も開放してくれた。
「……離したけど」
ちょっとどころじゃなく、不機嫌なのが見てとれる。
申し訳ないとは思いつつ、私は「ごめんね」と微笑んだ。
「くすぐったかったから。それより、お水足りた?足りないならもっと出すから、今度は貴方の手の平を出してもらっていい?」
「…………」
先ほどは何も考えず、自分の手の平で差し出してしまったけれど、やっぱり良くなかったと思う。
だから今度は、彼の手に……とお願いしたのだけど。
「……?ルゥルゥ?」
返事がない。
黙りこくって俯いてしまった彼の顔を、覗き込む。
むすり、と頬を膨らませているように見えるのは、気のせいではない、ような。
ちら、と彼と目が合って……次の瞬間にはルゥルゥの手が伸びてきて、再び私の手首を掴んでいた。
「えっ、ルゥル――」
「……ねぇ」
掴まれた腕が、強引に引き寄せられる。
折角距離を取ったのに、これじゃ意味がない。
勢いのままに前へと――ルゥルゥの胸元へと倒れ込む。
「ちょっと、いきなりあぶな――!」
今度は私がむっとして声を上げる。
が、しかし。
顔を上げた私の視界いっぱいに、ルゥルゥの整った顔が迫っていて、驚いて言葉が途切れた。
本当に、何を考えてるのかわからない――。
至近距離で合ってしまった青い瞳に、私の怒ったような、驚いたような顔が映っている。
「俺は、お前の――」
そうしてルゥルゥが、何かを言いかけた時だった。
「……おやおや。やはり貴方でしたか」
「!」
突然背後から掛けられた穏やかな声に、ルゥルゥがはっと身体を離す。
がさ、と広場の入り口に現れたのは、薔薇の茂みに不釣り合いな、真っ黒の司書ローブを着た男性だった。
「レグルさん……?!」
「こんにちは、リリー様」
レグルはいつもと変わらない優しい微笑みのままで、私たちの所まで歩いてくる。
「……ちっ」
小さな舌打ちが聞こえて、ルゥルゥからふわりと風が巻き起こる。
それは一瞬のことで、レグルがこちらに到着する頃には、ルゥルゥはまた人間の姿に変化していた。
「レグルさん、どうしてここに……」
「たまたま、リリー様たちがこの中庭に入っていくのが見えたので。リリー様への頼まれごとがありましたし、つい追いかけてきてしまいました」
レグルは穏やかな声でそう答えると、私の隣に立ち、そっと肩に手を添えてきた。
ぴくり、とルゥルゥの身体が揺れる。
「……お前は、司書の中にいた男だな。見覚えがある」
「はい。使節団の皆様の受け入れも担当している、リヒトー・レグルと申します。お話し中、お邪魔してしまい申し訳ございません」
すっと頭を下げるレグルをしばらく睨み付けていたルゥルゥは、やがてぷいと顔を背けてしまった。
「別に良い。……もう、用事は済んだから」
「ルゥルゥ、もう大丈夫なの?」
こんな所まで連れてきて、私に水をねだったのだ。
不調だった身体は、あんな少しの水でも治るものなのだろうか。
「……助かった。もう、いい」
「そう……」
ルゥルゥは私に向き直ると、少しだけ柔らかい声でそう言って、本の入った荷物を抱え直した。
「今日はもう帰る。……お前も、仕事かなんか、あるみたいだし」
「あ、それじゃあ、玄関まで――」
「見送りはいい。ひとりで帰る」
ルゥルゥは素っ気なくそう言うと、「じゃあな」と背を向け……すたすたと薔薇の茂みに消えていってしまった。
……行っちゃった。
体調が悪いようには見えなかったし、まぁ……足りなかったりするようなら、また頼みにくるのだろう。
レグルとふたり残された東屋は、段々と夕陽も薄れ、宵の色が混ざり始めている。
しんと沈黙が流れる中、私ははっとしてレグルへと振り返った。
「あ……すみません。レグルさん、それで私に用って?」
「…………ええ」
「?」
何だろう……声が、固かったような。
そのまま、また無言になってしまうレグルに、訳も分からず首を傾げる。
するとひとつ、大きな溜め息がふたりの間に落ちた。
「リリー様。すみません、用事は特にありません」
「え?」
「中庭に入っていくお二人を見かけたというのは、本当です。私は……私はただ、心配になって後をつけただけです」
静かにそう告白して、レグルは再び溜め息をついた。
「リリー様とあの方が、最近親しくしていらっしゃることは知っておりました。ただ……あの方は、妖精なので」
「あ……」
その言葉に、ようやくレグルの心配の意味を理解する。
そうだった。
普通は、『妖精』というだけで、警戒されて当然なのだ。
私はただ、ルゥルゥと本について話すのが楽しくて……警戒だとか、そんな気持ちはすっかり忘れてしまっていたけれど……。
「先ほども、リリー様が困っていらしたようなので、嘘をついて邪魔をしてしまい……。すみません」
「い、いいえ!その……心配させてしまって、申し訳ありません」
「私が勝手にしたことです。……ところで、ひとつ窺ってもよろしいですか?」
「はい……」
静かに持ち上げられたレグルの指先が伸ばされ、――一瞬、私の頬を掠めたような気がした。
しかし、その手は私に触れる前に、引き戻される。
「リリー様。……あの日、私の気持ちを告げた日のことを、覚えていらっしゃいますか」
どきり、と心臓が跳ねた。
――あの日のことを、忘れられるわけなんてない。
僅かな痛みを伴った鼓動を抑えようと、無意識に胸の辺りを握りしめる。
レグルがこちらを見下ろす、モノクル越しの緑色の瞳。
真剣で、切なさを孕んだその眼差しが、心に刺さるようだった。
「あの時――貴女は、心に決めた方がいると、仰いましたよね。それは……先ほどの彼では、ありませんよね?」
「……っ」
吸い込んだ空気が、喉の奥でひゅっと音を鳴らした。
答えようとした言葉が、喉でつかえて音にならないのは、なぜ。
胸が、押しつぶされそうに痛むのは、どうして。
もう一度、ゆっくり息を吸って……私は、懸命に彼の瞳を見返した。
「違い、ます……!」
間違いなく、違う。
あの時も今も――私は、……私が想っているのは、焔さんだ。
胸の痛みに、ぎゅっと瞼をつむってしまった私の頭上で、レグルは今、どんな表情でいるのか。
「……そうですか」
溜めていた空気ごと吐き出すように、レグルさんが言った。
そろり、と顔を上げると、いつも通りの柔らかな微笑みを浮かべたレグルが、そこにいた。
「もう大分、暗くなってしまいましたね。食堂の辺りまでで良ければ、お送りします」
「……ありがとうございます」
優しい言葉に、お礼を言って……歩き出したレグルの大きな背を追い、すっかり暗くなった薔薇の茂みへ足を踏み出した。
……この、胸の痛みの理由も。
彼が私に問いかけた言葉の、意味も。
私は、ちゃんとわかっているのだと、思う。
胸がこんなに痛むのも、泣きたい気持ちでいっぱいなことも、堪えるのに必死だった。
今、誰かに優しくされでもしたら、堰を切ったように泣き出してしまうだろう。
声を出したら、震えてみっともないだろう。
だから、レグルと別れる時もただ、頭を下げるだけにした。
最奥禁書領域に戻って、一目散に小部屋へと駆け込み、やっとほっとした。
――今、焔さんの顔を見たら、絶対に泣き出してしまうと思ったから。
今だけは、一人でいたかった。




