193.見ないふり、今はまだ
彼は、空を仰いで大きな溜め息を吐き出すと、足を組み替えて、私の背後の焔さんを睨み付けた。
「何をお話か、だって?そこの本の感想について、だけど」
ぶすっとした声が、不機嫌丸出しで低く響く。
「別にアンタに関係ないだろ。そいつ、もう今日の仕事は終わったって言ってたし。仕事時間以外に秘書が何してようが、アンタが口出すことじゃないと思うけど?」
彼の言葉に、私の両肩に置かれた焔さんの腕がぴくりと反応した。
「まぁね。でも僕は、この子の保護者でもあるから。それに……使節団に許されているのは、決められた日の訪問だけだったはずだ。今ここに君がいることを僕が咎めるのは、間違っていないでしょう?」
焔さんの声までとげとげしくて、二人の間に挟まれた私は、肩を竦めて身を縮こませるしかない。
先ほどは、急に焔さんが現れたことに驚いたが、今は二人の睨み合いにひやひやしている。
焔さんはいつも通りすっぽりとローブを被っているから、すごく目立ってしまって……先ほどからちらちらと、テラスの他の利用者たちがこちらを窺う視線を感じる。
妖精の彼のほうは、すっかり人間に見える変装?をしているからいいけれど……いや、やっぱり良くないか。
このふたりの会話内容では、周りに彼が何者なのか知られてしまうのも、時間の問題のように思えてくる。
「大体、そんな小細工しても、紛れ込むのは許されることじゃないって、君分かってる?」
「元々、人間に許して貰わないと行動すらできない、なんていうのがおかしいんだろ。こうして気遣ってやってるだけありがたいと思えよ」
「君たちとしてはそうなのかもしれないけどね。今は国賓としての立場ってものが――」
「――っマスターっ!」
いよいよ周りの利用者たちがひそひそと話しはじめて、私は慌てて立ち上がり、焔さんの口元を両手で押さえた。
国賓、という単語を聞かれてしまったら、それが妖精を指すということを、一般の市民にだって気づかれてしまう。
「リリー……」
「マスター、ここは人目もあります。騒ぎになったら大変ですから……」
懇願すれば、見つめる彼の瞳からすっと怒りが消えて、代わりに黒い瞳に映ったのは、何故か寂しそうな色だった。
……え?
焔さんの手が、私の手を包み込んでそっと下ろさせる。
自由になった焔さんの口元が、何かを言いかけた。
「……君は――」
「ちゃんと許可を取るために、人間の王には話、いってるはずだけど」
タイミング悪く、後ろから妖精の彼の声が被さってしまう。
すると焔さんは口を閉じてしまい、はぁ、とひとつ、重い溜め息を落として彼へと向き直った。
「確かに、そういう申請をしたことまでは知っているけど。まだ僕が許可を出してないはずだよ」
「待ってられなかったからなー」
彼はふいと明後日の方を向いて、グラスをくいと煽った。
その姿に、焔さんは再度溜め息をつくと、こちらへと向き直った。
「……ぜんっぜん良くはないんだけど。でもまぁ、こんな子供の我が儘に本気で付き合ってるのも馬鹿らしいから、今日の所は適当に相手して帰ってもらってくれる?リリー」
「あ、はい!わかりました」
「そんな指示に、素直に返事するなよ。っていうか子供扱いするな」
「僕から見れば、君もまだまだ子供だと思うけど?……じゃあ」
冷たい一瞥を彼へと向けた焔さんは、去り際にするりと私の髪を撫でると、その場にマナの粒子だけを残して、ぱっと一瞬で消えてしまった。
……もう、はらはらしすぎて、どっと疲れた。
「……なぁ」
「はい?」
私が再び椅子に腰掛け直しているところに、妖精の彼が真顔で首を傾げて尋ねてきた。
「お前たちって、そういう関係なの?」
「――っ違います!!!」
それは、何に対する苛立ちだったのか。
ばんっと思い切りテーブルを叩いて再び立ち上がり、大きな声を出した私の隣で、何が面白かったのか、彼はケラケラと笑っていた。
その後、結論からいえば、彼は夜のカフェ閉店の時間まで、たっぷりと粘ってから帰って行った。
途中でアルトがふらりとやってきて、ずっと私の膝で丸くなっていたけれど……おそらくは、焔さんが寄越した監視だったのだろう。
正面玄関に用意された馬車に乗り込む前、妖精の彼は、笑顔で手を振った。
「まぁまぁ楽しかった。続き読んで、また来るからな」
「……お願いですから、次来る時は許可が下りてからにしてくださいね」
「あー、まぁ考えとく」
にや、と口角を上げて馬車に乗り込む彼は、全く反省していないようだ。
街灯の灯る夜道へと馬車が走っていくのを見送りながら、私は大きく息を吐き出した。
色々と、気疲れしたというのもあるが……複雑な心が、ものすごく全身を重くしている気がする。
彼と本について語る時間は、本当に本当に楽しいのだ。
しかし焔さんのことを考えると、あまり心配を掛けすぎてはいけないとも思うし……かといって、異世界で出会った気の合う話相手である彼を、邪険にしたくもない。
妖精は恐ろしい存在だ、油断してはいけない……なんていう常識は、理解しているつもりでいる。
でも……本について、物語について、あんなにはしゃいで、私と変わらないほど楽しく話をするだけの彼を、遠ざける必要はあるのだろうか。
私は仲良くしたい、と思う。
でも、どうしても……妖精を警戒する焔さんのことを、気にしないでもいられない。
なんとも複雑な思考は、割り切ることができず、胸が詰まるばかりだ。
「なんというか、お前もお疲れ」
「アルト……」
肩に乗ったアルトが優しく労ってくれる声と、頬を滑るふわふわの尻尾に少し癒やされた。
「ありがと。……アルトも、監視だったのよね。お疲れ」
「まーな」
くあ、と不安定な姿勢で伸びをした彼は、だらんと肩の上で伸びる。
猫が液体、というのは聞いたことがあるけれど、どうやら使い魔という生き物も、液体であるらしい。
「もうこんな時間だし、イグニスのやつと一緒に夕飯、食ってけ。……機嫌も取っておいた方が良い」
「…………。そうだね」
一瞬、遠い目になってしまったけれど、きっと暗いし、誰も見てなかっただろう。
今日はモニカに、焔さんの好きなメニューにしてもらえるよう頼んでみよう。
……機嫌、悪いのかぁ。
ちょっぴり肩を落としながら、私とアルトは寄り添い合って食堂へと向かったのだった。
――一方、最奥禁書領域。
長椅子に仰向けに寝転んで、俺はただ、本が積み上げられた壁や、本がふわふわ浮かぶ天井を眺め続けていた。
時計はもう、すっかり夜を指しているというのに……梨里はまだ、あの妖精と過ごしているようだ。
それがなんだか、とても不愉快だった。
梨里が楽しく過ごせているのなら、それでいいはずなのに……。
気持ちを持て余して、落ち着かない心のままもう何時間経ったろう。
……オリバー、まだ館内にいるかな。
この俺が、ザフィア以外の誰かと飲みたくなる日が来るとは……。
色々と重い身体を、のろのろと数十分掛けて、やっと起こした時だった。
――コンコン。
「焔さん。梨里です」
「えっ」
軽いノックの音と後に聞こえたのは、少し躊躇いがちな彼女の声だ。
続いて扉から梨里が顔を覗かせる。
「よかった。起きてたんですね」
「あ、うん……」
慌てて座り直し、衣服や髪を整えていれば、彼女は微笑んでバスケットをテーブルへと置いた。
「あの人をお送りするまでに、時間がかかってしまって……。心配かけてすみません。その……お夕飯、一緒にいかがですか?」
「ありがとう、お腹空いてたんだ」
いつも通りに優しく微笑み返すと、彼女はようやくほっとした表情になった。
「今準備しますね」
彼女が食事を並べてくれている間、俺はさりげなく自身の胸に手を当てた。
――あっけないほどさっぱりと、心が晴れていた。
先ほどまであんなにも重く渦巻いていた感情が、彼女の姿を見た途端、すっと軽くなって、気分も良くなった。
自分の心だというのに、急激な変化についていけていない。
動揺を表に出さないようにするのに、必死になっていた。
「はい、焔さん。このお茶、すごく良い香りですよ」
そう言って、梨里がティーカップを置いてくれる。
にこり、と笑ってくれた彼女の顔を見ただけで、心がふわっと温かくなった。
「――ありがとう」
……今は、まだ。
気づかない様に、見ないように。
梨里とアルトと、ゆったりした食事を楽しむことに専念しよう、と――。
俺はそっと、その「心」から目を背けた。




