192.人間のふりをして
大変混乱した様子だった彼女は、「とにかく、ちょっと待っていて……!」とだけ言うと、慌てたように踵を返し――。
「絶対に、ここから動かないでくださいね!」
一瞬くるりと振り返ると、念押ししてまた早足で駆けていった。
……勿論、そんな命令聞いてやる義理もない。
まったく、面白いくらいに反応してくれたな。
俺はくつくつと喉の奥で笑いを堪えながら、彼女の背中を追ってゆっくりと歩き出した。
――昨日のあの数時間で、俺の中での『彼女』という存在に対する感情が、すっかり変わった。
今まではただ、他の大勢の人間と同じで、彼女もずる賢くてつまらない、面倒くさい生き物だと思っていた。
あの大賢者とかいう人間の秘書だとか言って、ただ守られちやほやされている程度の生意気な女だと――水のマナに好かれている様子なのさえ、気に入らなくてイライラしていたのに。
彼女は俺を見て、あの眼鏡の奥の目にぐっと力を込めながら、きっぱりと言い切ったのだ。
『――面白い本を読むのに、人間だとか妖精だとかは、関係ないと思います』
正直、驚いた。
人間なんてみんな、俺たち妖精のことを良く知りもしないまま、畏れ、自分たちとは違う生き物なのだと見下し嫌悪しているだけなのだと思い込んでいた。
なのに彼女は、どうやら他の人間とは違ったらしい。
はじめからずっと、先入観という曇った眼鏡で他人を決めつけていたのは、俺の方だったとその時気づいた。
試しに本の感想を尋ねてみれば……たった数分話しただけでも、彼女が本を大好きなことや、俺が妖精だから、使節団の一員だからと気を遣っているわけではないことが、すごくよく分かった。
そして何より――楽しかった。
例えば、緊張感のある場面でどんな風にどきどきしたのか。
例えば、静寂の満ちた場面の描写が、どれほど想像力をかき立てたか。
俺が読んでいて感じたことも、気づかなかった部分も――彼女は丁寧に物語を受け取り、感じて、それを心から楽しんでいた。
そんな彼女が、ただ物語の良さを語るだけの相手として、俺に対し何の壁もなく話してくれた。
悔しいけれど、俺はそれが嬉しかったのだ。
妖精の国でだって、望めば人間の世界の書物を手に入れることができる。
だが……俺以外の妖精たちは、人間の世界の物語を楽しむ俺を、理解しようとはしなかった。
妖精にとって人間は、決して友好的な存在ではない。
むしろその短命を哀れみ、その脆弱さを蔑み、見下しているのが普通だ。
自分たちより劣る種族の記した、空想上の物語など……なんの価値がある?
そう何度言われても、俺は……人間たちの紡ぐ物語を読むことを、やめられなかった。
こんな変人の俺に絡んでくるのは、昔からあのフェインくらいだったし……あいつはあいつで、あんな風で話もまともに通じないから、本を読むことを悪く言われたことはないが、一緒に楽しむようなこともなかった。
だから余計、なのだろうか。
彼女と物語の内容について語らった時間は、俺にとって初めての経験で――とびきりの楽しさを、俺にもたらした。
それが忘れられなくて、こうして……仲間に侮辱されるような真似までしながらも、彼女に会いに来てしまったのだ。
彼女は慌ててどこに行くのかと思えば、一般書架のホールまで降りてくると、カウンターの中に駆け込んで、何やら司書の人間と話をしているようだ。
……ああ、もしかして仕事の途中、だっただろうか。
ぼんやりと、でもどこか楽しげに書架を掃除していたから、暇なのかと思ったのだが。
彼女は他の職員にメモを渡しながら、何かを指示している。
俺みたいなのが突然現れたから、仕事を引き継いで抜ける、といったところか。
秘書だという彼女は、この施設内で管理をしている副館長とも並ぶ程の権力を持っている、と聞いてたのだが……。
途中で仕事を放り出したりせず、きちんと引き継いでからこちらを対応する。
そんな彼女の真面目さに、またちょっと感心した。
地位があるからと偉ぶり、能なしのくせに好き勝手するような人間は嫌いだ。
彼女のように、地位があればそれに見合うだけの努力や勤めをする姿勢は、とても好感が持てる。
カウンターが見える位置の柱に寄りかかり、しばらく彼女を眺めていると……話が済んだのか、彼女が慌てて踵を返したのが見えた。
そして、先ほどの場所に戻ろうと歩き始めたところに、俺と目が合う。
彼女は静かに目を丸くすると、ずんずんとこちらに歩いてきて困り顔と怒り顔の中間くらいの表情になった。
「もう……!あの場所から動かないでくださいって、言ったじゃないですか!」
精一杯押し殺した声で言われて、また少し吹き出してしまった。
「いいだろ。こうやって待っててやったんだから」
「そういう問題じゃ……ま、まぁ、居てくださったのは本当に、よかったですけど……はぁ」
む。折角俺が来てやったというのに、溜め息をつかれるのはいただけない。
「なんだよ。仕事中に邪魔して悪かったな」
「へ?!あ、いえ……実はもう、お手伝い予定だった時間は過ぎていたので、それは大丈夫なのですが……ええと。取り敢えず、カフェに移動しませんか?ここで話すというわけにもいきませんから」
「……別にいいけど」
こっちです、と案内されるままについて行けば、彼女はリブラリカの中庭にあるカフェへとやってきたようだ。
いつも一般書架にしか入れなかったから、利用者向けにこんな施設もあったなんて、と感心する。
今日は天気も良いし、中庭にもテラス席が用意されているようだ。
気持ちの良い昼下がり。テラスはかなり盛況だったが、端の方にやっと席が見つかって、俺たちはそこに腰を落ち着けた。
すぐさま彼女が飲み物を買いに走って、戻ってきた時に持っていたのは、香りの良い薬草水を果実水で割ったものだったようだ。
……まぁ、人間の飲み物にしては、まだマシなほうか。
こいつも知らないなりに、気を遣うことはできるらしい。
彼女が席に着いたのを見計らって、俺は周囲を見渡しながら言った。
「ここ、気持ち良いな」
「え?……ああ、はい。いいですよね、ここ。利用者の皆さんに人気なんですよ」
「人間も、自然を気持ち良いと感じるもの、なんだな」
この中庭は、かなり人の手が入っていたが、植物たちがとても元気に育っていた。
自然が多く、なおかつその自然が元気であればあるほど、俺たち妖精にとっては居心地の良い場所となる。
周りが人間たちばかりなのは気になるが……それでも、窮屈な王宮や、屋根のある建物の中のよりよほど気持ちがよかった。
「自然が多くて、居心地がいい。使節団のやつらにも、こういう場所、案内してやればいいのに」
じっとこちらを見つめているばかりだった彼女と目を合わせると、その瞳が困惑に揺れているのが分かった。
「……あの。使節団って……。貴方本当に、昨日の……彼、なんですか?」
「誰のこと言ってるのかわからないけど。一度名乗ってるはずだ。俺はルゥルゥ=クウェーラ。使節団の一員。そんでもって――ほら、昨日、これについてお前と話したやつだ」
言いながら、荷物から1冊の本を取り出して、テーブルに置く。
昨日、彼女と語り合った、あの本だ。
彼女は本に視線を落とすと、再び顔を上げて、まだ困っているような表情で俺を見た。
「……なんだ。ここまで説明して、何をそんなに困惑してる?」
「あの……すみません。不躾かもしれないのですが、その……私が知っている彼とは、少々、お姿が違う、というか……」
「人間に見える?」
「……はい」
「まぁそうだろうな。そういうふうに見えるようにしてるから」
「というと、魔術で人間の姿に?」
「厳密には、お前たちの言う魔術とは違う力だけど。説明面倒だし、そんなとこだと思っておけ。お前も知ってるだろ?俺は水の妖精だから、こういった幻惑めいたことが得意なんだ」
「……そう、なんですか。では、その……お姿については、いいとして」
「おう」
「どうして、おひとりでここにいらっしゃるのですか?」
「それはほら、これ、話し足りなかったから」
トントン、と置いた本の表紙を指で叩くけれど、彼女は不安そうな顔のまま。
もっと嬉しそうな顔をしてくれると期待していたから、彼女の表情が晴れないことに、少しだけ苛立ちが募った。
「……なんだよ。俺はもっと話したかったのに。お前だって話し足りないって言ってただろ。あれ、嘘だったのかよ」
「い、いえ!嘘なんかじゃありません!その、ただ……」
「ただ、なんだ?」
「――ひとり人間に化けて潜り込むなんて、僕にばれたら大変だって――、彼女はちゃんとわかってるってことじゃないのかな?」
俺の問いに、突然横合いから割り込んできたヤツは、そのままふわりと彼女の背を抱きしめた。
「チッ――」
「え――っ、マスター!」
突然何もない空間から現れた大賢者は、フードから覗く口もとが全く笑っていなかった。
だがそんなことよりも、彼女との時間を邪魔されたことに腹が立つ。
妖精の幻惑の力は強力だから、たとえ大賢者の領域内だったとしても、存在が気取られるはずはないのに――。
「さてと――勝手に人の家に上がり込んで、僕の秘書と何をお話だったのかな? 妖精クン?」
面倒くさいことになったなと、青い空を仰いで、俺はもうひとつ溜め息を吐き出した。




