185.水の加護
ふと目が覚めた時、傍に居たのは相棒の黒猫だけだった。
寝ぼけながら、その事実に少しだけほっとする。
「……ん、起きたのかリリー」
「うん……おはようアルト」
「おはよ。……まぁ、そんな時間じゃねーけどな」
「今何時?」
「んー、もう少しで0時ってとこかな」
そんなに寝てしまっていたのか。
まだ少し気怠い身体をゆっくり持ち上げる。
すると、自分の身体に掛かっていたらしい、焔さんのローブがずる、と落ちた。
しゃらりと綺麗な音がする。
掛けてあったのは、装飾が多い、外出用の豪華なローブだった。
手繰り寄せると、ふわりと慣れた香りがして――心がざわめく。
ごちゃっとした執務室の中を見渡しても、焔さんが普段使いしている方のローブは見当たらない。
「熱は下がったか?」
「あー……うん。大丈夫そう」
アルトに聞かれて、やっと自分が熱を出して倒れたことを思い出す。
確か、執務室まで戻ってきて、焔さんと妖精の祝福について話していたら……、ええと。
そうだ。焔さんが私の手に――。
そこまで思い出して、ついでに手の平に感じた熱まで思い出しそうになってしまい慌てて首を振る。
いい。いいんだ。アレについては思い出さないでおこう。
頬に熱が集まっている気がするが、気のせい。気のせいだ。
焔さんのあの時の視線なんて――、覚えてない、覚えてなんかない。
自分に言い聞かせるようにして、もう一度長椅子にばふんと倒れ込む。
顔を隠すように目元を腕で覆って、天井を仰いだ。
思い出しただけで、どきどきと心臓が騒いでいるのが悔しい。
……ずるい人だ。
私の気持ちを知っていて、あんなことをするのだから。
なんだか腹立たしいような気持ちも湧き上がってきて、どきどきが少しだけ落ち着いた。
……あんなずるい人、知らないんだから。
ふう、と大きく息を吐いて、気持ちを切り替える。
今度こそ身を起こすと、アルトが少し呆れたような目をしながら、テーブルの上のバスケットをこちらに押しやってきた。
「喉渇いてるだろ。茶と、少しだけど食いもん入ってるから。食べれるだけ食え」
「ありがと」
バスケットの中に入っていたのは、温かいティーセットと、ハムとチーズのサンドイッチ。
ふわりと落ち着く香りのする紅茶を飲むと、ほっとして空腹を感じた。
サンドイッチはいつもの物よりシンプルで、それがまたちょうど良い。
あっという間に食事を終えて、その頃には身体もかなり調子が戻ってきているようだった。
「お前、随分平気そうな顔してるな」
「そうかな?」
隣で一緒に紅茶を飲みながら、アルトがふむ、と紅い瞳を向けてくる。
「妖精の加護自体、かなり珍しいものだからな。加護を受けたという記録そのものもあまり残ってはいないんだが……。高確率で、数日に渡る高熱を伴うんだ」
「そうなの?私、そんなに寝てた?」
「いや。お前は精々6時間くらいだな。それで熱下がってるみたいだし……お前、その加護と相当相性が良いんじゃないか?」
「ふーん……?」
早く熱が下がったことが珍しいのは分かったが、あまり実感の様なものはない。
「どこも変わったような感じしないけど――」
首を傾げながら、そんなことを言った瞬間だった。
――ちゃぷん。
音、ではない。
何か、こう――気配のようなものが、意識の端に引っ掛かった気がした。
「ん?」
なんだろう。
優しいけれど、少し濁ったような、この感じ。
「どうした?」
「ええと、今、何か――」
確か、すぐ傍だったような……。
きょろきょろと自分の周囲を見渡して……「それ」を見つけた。
ゆらり、と明るい茶色の水面が揺れる。
じっと見つめると、その水面から小さな光の粒のようなものが、ほんの少しだけ散った気がした。
「これ……?」
その気配は、手元のティーカップ――。
その中で揺れる、紅茶から漂っていた。
「紅茶がどうした?」
「ん……なんか、優しいような、ちょっと濁ってるような、変な感じがして……」
曖昧にしか言葉にできないのが、もどかしい。
今まで紅茶にこんな気配のようなもの、感じたことなんてない。
なんだろう?とそのまま周囲に目を向けてみて――自分の視界に、ほんの少し違和感があることに気がついた。
「あれ……?」
なんだろう、この感覚。
空気が、『視える』――と言えばいいのだろうか。
そんな訳はないのに、視界に映る執務室の空気が、ちらちらと、微かに光が舞うように見えるのだ。
ごしごしと目を擦って見ても、ちらちらとした光の粒は変わらずそこにある。
マナの粒子に似たそれは、しかしマナよりもずっと細かい、小さな輝きだ。
その輝きが、とても好ましく視えるのは何故だろう。
「ねえ、アルト。あの……空気が、キラキラ、してない?」
「……あー」
アルトはようやく納得がいった、という顔で、深く頷いた。
「それ、多分水のマナの気配じゃないか?」
「マナの気配?」
「こまっかいキラキラした粉みたいなのじゃないか?紅茶にも感じたんだろ?」
「うん」
「そのキラキラは……うーん、なんて言ったらいいかな。多分、綺麗な水のマナが視えてる、みたいな感じだ」
「綺麗な、水のマナ……?」
「水の加護を受けたお陰で、お前、水の魔術の力が格段に上がってるはずだ。感覚も敏感になってるんだろ」
「水の、加護……」
それは、強くなった、ということだろうか?
魔力が上がった……とか、そういう?
「ちょっと、水出してみろよ」
「う、うん……」
アルトに言われるまま、手の平を上に向けて揃える。
器のようにした手の平に、水を出す魔術を詠唱し始めた時。
――とぷん、と。
自分の身の内で、たっぷりとした水の気配が揺れた気がして、驚いて詠唱を止めてしまった。
「――あっ」
まだまだ未熟な私。
詠唱が中途半端に止まってしまったら、水を出すことなんてできない筈なのに。
身の内で水が揺れた、その感覚が手の平に移動していく……そう感じた次の瞬間。
「わっわあっ?!」
あっという間に手の平が水でいっぱいになり、次々湧き出す水が溢れて膝を濡らした。
ぎょっとして慌てて手の平を握るけれど、溢れた水がびっしょりと足下を濡らしてしまった。
何より驚いたのは、自分で生み出した水が、キラキラと眩しいくらいに輝いていたことだ。
先ほど空気中で見た、微かな光の粒など比べものにもならないほど。
きらめきが溢れるような光を纏って、零れた水が輝いていた。
水が湧き止まった後も、濡れた手や、足下、その周りの空気までもがきらきら、きらきらと沢山の粒子を纏っている。
「お前が出した水、きらきらしてたろ?」
「う、うん!すっごい、キラキラしてる……!」
「それは、綺麗な水、だからだ。お前が生み出した水、すごく綺麗な水だってイグニスのやつも言ってただろ?」
「言ってた、けど……」
「加護によって、お前の水のマナの力が研ぎ澄まされたんだ。よかったな、賢者並の力になったかもしれないぞ」
「――……」
呆然と、きらきらと光る手の平を見つめながら、アルトの言葉を聞いていた。
本当に、実感がない、けど。
目の前でみた、自分で生み出した水。
その輝きと、感じた――澄みきった、綺麗な気配。
何となく、自分の感覚で、分かってきたような気がしていた。
そっと胸の辺りに手を当てる。
意識を集中すると、身の内にたぷん、ちゃぷんと水が揺れるような気配を感じた。
そっと立ち上がってみると、身体がとっても軽い。
「水の、加護――」
これが、加護を受けたということなのだろうか。
五感が研ぎ澄まされたような、周囲を感じとる感覚――視界が、ぱっと広がったような。
不思議な感覚に、足下がふわふわしているようだった。
「よかったな。慣れるまで時間は掛かると思うが、お前、強くなったよ」
その後、空になったバスケットを食堂に返して、あちらの世界にある自宅へと帰った。
イグニスの帰りを待つ、というアルトと別れ、ひとり自宅で布団に潜り込む。
『「――お前、強くなったよ」』
アルトに言われた言葉が、頭をよぎる。
ちらりと手の平を見て、布団を頭の上まで引き上げた。
――心の隅にあった、ある『想い』がほんの少し、大きくなったような気がした。




