181.ふたりの距離<2>
「……おはよう、ございます」
「ああ梨里さん。おはよう」
恐る恐るといった風で顔を出した彼女に、いつものように微笑んで応えた。
……引きつっていないか心配だったが、彼女がほっとした様子で部屋に入って来たのを見るに、平静を装えてはいるようだ。
いつもより、ほんの少しだけ気まずい朝食の席。
おいしい紅茶に、今日はとろりとしたチーズの焼き目が美味しそうな、チーズトーストだ。
熱々のそれにかぶりつきながら、彼女はずっと視線を足元に落としている。
心なしか、元気がないような……。
「梨里さん、何かあった?」
「へ?」
ぼと、と彼女の手から、トーストが皿に落ちた。
明らかに目が泳いでいる。
「いや……なんだか、元気ないかな、と思って」
「え、と……。何もない、ですよ?いつも通りです」
「そう?」
「はい。……今日の朝ご飯も美味しいですね!さすがモニカです」
「うん、そうだね」
梨里は誤魔化すように笑って、朝食を終えるとすぐにバスケットを返却しに行ってしまった。
釈然としないまま、ひとり執務机に向かって書類を整理し始めるけれど……先程の、梨里のことが気になって手につかない。
結局今朝は、一度も目が合わなかった。
落ち込んでる……というわけではなさそうだったけど。
うーん、やっぱり何か悩み事だったのかな。
こちらの世界で何かあったのなら、俺に相談してくれそうなものだけれど……はぐらかしたのは、元いた世界での悩み事だからなのだろうか。
――どちらにしても、何かを悩んでいるというのなら、俺を頼ってくれれば良いのに……。
そんなことを考えている大賢者はしかし、己がそんなことを考えている、その大本にある自分の気持ちについては、未だ気付いていないようだった。
――きらきらと、葉の上に零れた雨粒が、宝石のように煌めいている。
夕方に通り過ぎていった雨は、広大な王の庭園に恵みをもたらしていったようだった。
「……静かで、綺麗ね」
誰に投げかけるでもなく、そんな言葉が唇から漏れる。
シャーロットは、夕食後の散歩と言って、ひとり王の庭園を歩いていた。
付いてくると頑なだった侍女は、なんとか説得して庭園の入り口付近で待っていてもらっている。
起きているときはほぼ四六時中、傍について世話をしてくれる王城の侍女たちは、皆優秀で優しくしてくれる。
……が、いくら高位貴族のシャーロットであろうと、侍女たちにずーっとつきまとわれていたら、さすがに息も継げない。
ライオット王子殿下は、仕事が忙しいとかで、今夜は夕食の席にいなかった。
お陰で、いつもよりゆったりと夕食を楽しむこともできたのだ。
さあああ、と風が吹き抜けていく。
風に吹かれ、頬にかかった髪をそっと耳に掛けた。
「――ああ、ここにいたか」
その瞬間、少し離れた位置から掛けられた声に、背を向けたままでそっと溜息をついた。
……せっかく今日は、顔を合わせなくて済みそうだと思っていたのに。
本当ならば、このまま何も聞こえなかったふりをして、一直線に自室へと逃げ帰ってしまいたい。
しかし、相手が相手だ。
シャーロットには、彼を邪険にするような態度を取ることはできなかった。
深呼吸して、ゆっくりと振り返る。
「まぁ……殿下。ご機嫌よう」
完璧な微笑みで、上品に膝を折ってスカートを広げる。
ライオット王子殿下は、うむ、と頷くとそのまま、私の隣へとやってきた。
今夜もまた、しっかりとした礼服を着ている。
仕事が忙しいというのは、本当のことらしかった。
「あの……お忙しいと伺いましたのですけれど」
「ああ、ついさっきまで、大臣たちと会議室に籠もっていたんだ。まったく、あの古狸たちめ」
少し苛立ったように髪を掻きあげると、彼は小さな溜息をこぼす。
「あの妖精達の件だ。人間について知りたいと、いろいろな施設や町中への外出許可を求めてきている。特にリブラリカを利用したいと」
「まぁ……」
リブラリカは、一般市民も多く利用する大きな施設だ。
国立であるため、国賓として迎え入れている使節団が望むのなら、利用を許可するのが通例だが……。
やはり、相手が妖精なのが問題になるのだろう。
なるほど、忙しい中、こんな夜にわざわざ私に会いに来たのは、私に相談するためだったのね。
「ロイアー嬢、君は優秀な副館長だったろう?この件についてどう思う?」
「そうですわね……」
先日、舞踏会で遭遇した妖精達の姿と、肌にビリビリと感じたマナの圧を思い出して、少し身震いする。
怖かった。本当に怖かった。
あの方たちが一般書架になど来れば、一般利用者だけではない……司書達までも、パニックを起こしてしまうかもしれない。
かといって、変装を強要したり、マナを抑えてもらえるよう頼むというのも、彼らのプライドを傷つけたりしないか、失礼ではないか不安だ。
彼らに負担を強いることなく、かつリブラリカを利用してもらうための落とし所は……。
しばらく私が考え込んでいる間、ライオット王子は意外なことにじっと黙って待っていてくれた。
ちらり、と視線を上げると、彼は夜空を眺めていたようだった。
こちらを急かすような様子は一切なく、私の視線に気付くと、言葉を促すようにひとつ頷いてくれた。
「あの場所は、一般の方々も多くご利用頂いております。突然妖精の方々がいらっしゃれば、騒ぎになってしまうでしょう。使節団の方たちに何かを強要する訳にも参りません」
「ああ」
「かといって、リブラリカを貸し切りにするというのも難しいですわ。最善なのは、利用者から見ても安心出来るかたちで、妖精方にリブラリカをご利用頂く、ということだと考えます。ちょっと難しいかもしれませんが……大賢者様に、彼らのすぐ傍で監督兼案内役をして頂く、というのはいかがでしょうか」
「ふむ。確かに……。大賢者が出歩く姿は、市民にも広まっているようだしな。彼らと一緒に書架を歩いてくれるならば、多少怯えさせてはしまうかもしれないが、市民たちも安心できるだろう。それが最善か」
ライオット王子は何度か頷くと、優しい笑みを向けてきた。
「ありがとう、相談してよかった」
「いえ……」
――こんな風に、優しく笑う人なのか。
新しく垣間見えた彼の一面に感心しながらも、目線を落とすと小さく頭を下げた。
唯の婚約者予定の令嬢ではなく、リブラリカの副館長だった者として、意見を乞うてもらえたことも、出した意見をきちんと受け止めてもらえたことも、光栄だと思った。
「こちらこそ、ありがとうございます、殿下。私の意見を、聞き入れてくださって」
「当然だ。君はリリーの親しい友人だからな。リブラリカを優秀な手腕で運営していたことも、報告として聞いて居る」
その返事に、ゆっくり頭を上げる。
こちらを見るその表情が、少しだけ――ほんの少しだけ、寂しそうなのは、どうしてだろう。
「殿下……?どうか?」
「あ、いや……。なんでもない。用はそれだけだ」
「はい」
「散歩中に邪魔した。……ああ、あまり夜風に当たりすぎて、身体を冷やさないようにな」
「お気遣い、ありがとうございます」
礼をして、去って行くライオット王子を見送る。
再びひとりになった庭で、星空を見上げた。
……ライオット王子は、決して悪い人ではないのだ。
折あるごとに、「リリーの友人だから」と言われるけれど……嫌なことはされないし、忙しい公務の最中、少しでも顔を合わせる時間を取ろうと努力してくれているのがわかる。
高位貴族の娘として、結婚するには恵まれているのだろう。
他の娘たちは、十以上も年の離れた相手に嫁いだり、嫁ぎ先で酷い扱いを受けるものも、相手にもされず屋敷に放置されるものもいるらしい。
それに比べたら、きっと……あの王子は、私を大切にしてくれるのだろうし、私たちは年も近い。
そう、恵まれているのよね……。
それでも心が晴れないのは、私のわがままのせい。
隠し持っていたマナペンを取り出すと、ぎゅっと握りしめる。
――オリバー。
どうしても、貴方の笑顔が私の中から消えないの。
憎たらしいわ、本当に――。
苦く微笑んだ私は、いつの間にか毛布を持ってやってきた侍女に連れられて。
今夜もまた、鳥籠の中で眠るのだ。




