177.片付かない執務室
その日、オルフィード国は快晴だった。
職員用の通路から、一般開放書架へと足を踏み入れる。
ドーム状のガラス張り屋根から、たっぷりの日差しが穏やかに降り注ぎ、沢山の利用者達と職員達が行き交っていた。
いつの間にか見慣れた、国立大図書館リブラリカの風景。
沢山の本の匂いと、図書館独特の空気を胸いっぱいに吸い込んで、無意識にほっとしていた。
休日用のワンピースを揺らして、磨き上げられた床をコツコツと音を鳴らし歩いていく。
ホールを横切り、カウンターで本の返却を済ませると、職員達がにっこりと会釈してくれた。
今日は時間あるし、久々に書架をゆっくり回ってみよう。
わくわくした気分で書架の方へと足を向けた私の肩から、アルトがするりと降りてしまった。
「アルト?」
「お前どうせ、日が暮れるくらいまでゆっくりしていくだろ?」
「うん、多分……」
「俺様はちょっと、イグニスの様子でも見てくる。なんかあったらそのブレスレットで呼んでくれ」
「あ、うん。わかった」
「……いいか、変なことに巻き込まれるんじゃないぞ」
「縁起悪いこと言わないでよ……」
心外なことを言い残して、黒猫はすたすたと職員用の通路に消えてしまう。
そんなアルトの背を見送り、肩をすくめて振り仰ぐ。
何階にも高く続き、こちらを見下ろしている書架が、キラキラ輝いているように見えた。
「……せっかくだし」
アルトの言葉通り、存分にゆっくりしてやろうではないか。
もやもやとした考え事は、今だけ横に置いておこう。
休日の、穏やかな昼下がり。
手にしたい本は山積みだ。
リリーと別れて、食堂で受け取ってきたバスケットを器用に運び、主の執務室前にやってくる。
いつもは閉じているはずの扉が半開きになっていて、何かが床にべしょりと張りつき、はみ出していた。
「……やっぱり、こうなってたか」
いや、正直ここまで酷いとは思わなかったが。
イグニスがこんな状態になっていることは予想の上だったので、取りあえず、はみ出しているそれを避けて部屋に入り、いつも以上にぐちゃめちゃな部屋の中、テーブルの隙間にバスケットを置く。
空き巣に入られたのかと思うほど荒れ果てた部屋の中を、辟易しながら入り口まで戻ってくると、べしょりとしたそれの頭に当たる部分を前足でぺしんと叩いた。
「おい、イグニス」
「…………」
「おーい。起きろって」
ぺちこらぺちこら。
「………………」
何度叩きまくってみても、反応がない。
……こりゃあ重症だな。
おそらく、りりーよりもこいつの方が。
にしても、このか弱い猫の身体では、成人男性をひとり動かすことは難しい。
どうしたものかと悩んだ末に、彼の耳元でぼそりと呟いてやった。
「……あー、こりゃリリー呼んでくるしかないかな」
その名前が耳に届いて、跳ねるようにして飛び起きた。
「うおっ」
慌てて腕を伸ばし、跳び上がって驚いていた自分の使い魔を、むんずと握りしめる。
「ぐえ」
「梨里さんを呼ぶな」
こんなにだらしのない姿、彼女に見られるわけにはいかない。
無意識に、アルトを握る手に力が入っていたようだ。
使い魔だから死ぬことなどないのだが、死にそうな顔をして必死に抵抗している黒猫がいた。
「おい馬鹿やめろ!離せこの……っ。死ぬだろうが!」
「主人に反抗するな、全く……。梨里さんを呼ばないなら離してやる」
「呼ばん!呼ばんからほら、さっさと離してくれ!」
「ふん……」
ぱっと手を離せば、ぜえぜえと荒い息をするアルト。
そんなヤツは放っておいて、床の上で寝て堅くなった身体を伸ばそうと、うんと伸びをした。
周囲を見渡してみれば、自分の周りや執務室の中が、散らかり放題荒れ果てている。
仕方がない。重い腰を上げ、くるりと指を回して魔術を使い、片付けを始めた。
……アルトがここに居るということは、梨里さんもこちら側に来ているということ。
いつやってくるかわからない。
入り口のあたりから、そこかしこに散らばっていたものがふわりと浮いては大雑把にまとめられ、部屋のスペースがある辺りに積み上げられていく。
その様子を見ていたアルトが、はあと盛大にため息をついた。
「ったく。相変わらず片付け下手くそ過ぎだろ……」
「うるさいな」
片付けをするこの魔術は、術者の性格や片付けがどれだけ上手かによって出来栄えが左右される。
ふわふわ浮いてきたローブが、皺だらけでくちゃくちゃになって衣装掛けに引っかかったのを見てしまって、思わず目をそらした。
……自分に生活力が皆無なことくらい、自覚している。
梨里さんが秘書にきてからは、部屋のちょっとした片付けや食事の準備など、細やかに気を配ってもらえてとても助かっているのだ。
テーブルの上のものをぎゅうぎゅうと無理矢理端に寄せて、ようやく座る場所と食事を取る場所ができた。
バスケットに入っていたのは、大きなポットのティーセットと、焼き菓子にサンドイッチ。
片手で簡単に食事を済ませることができるから、サンドイッチは好きだ。
紅茶をカップに注ぐと、その香りに少し癒やされた。
もそもそ食べるサンドイッチは、みずみずしい野菜に酸味のきいたソース、鶏肉が挟まっていて、本日もとてもおいしい。
さすがリブラリカの食堂だ。
これならきっと、梨里も瞳を丸くして「おいしい!」と喜んで……。
――あ。
ぴたり、と動きが止まる。
俺は、また梨里のことを考えていたのか……。
食べかけのサンドイッチを片手に、空いている方の手で目元を覆う。
ひと晩中考えていたことだというのに。
今また、昨夜のことが思い出された。
――胸のあたりが、苦しい。
帰ってきた梨里が無事だったことに、心底安心した。
同時に感じたのは、自分が彼女をどれほど大切に思っているのか……自分の中の、彼女という存在の大きさだった。
この手で抱きしめた身体は、すっぽりと腕の中に収まってしまうほど小さく。
俺や妖精と比べれば、赤子程も無力なただの人間。
あの時、彼女の温もりを近くに感じて、何か大きな感情が、ぶわりと湧き上がった。
己の心に生まれた、その衝動に動かされるまま、俺は――。
彼女の頬に、口付けた。
ぐしゃ、と気付かないうちに手に力が入り、サンドイッチが少し潰れてしまった。
温かな彼女の頬の感触。
あの時俺が感じたのは――。
「……おい、垂れるぞ」
見かねたアルトの声に、はっと一瞬我に返る 。
それでも思考は、深く沈んでいって。
ずきりと胸に、激しい痛みを感じたのは気のせいではない。
――俺は。
こんな感情は。こんな衝動は。
まるで、文字で読んだことのある、恋愛感情、のような……。
――いや。
だめだ、俺は……俺にはそんなこと、許されるはずがないのだから……。
ぼたぼたと、テーブルにソースがこぼれる。
大賢者は、それにすら気付かない様子で、俯いたまま顔を上げない。
そんな彼を、黒猫が肩をすくめて見守っていた。




