175.その青にご注意<2>
見つめ合う青の瞳は、吸い込まれてしまいそうな深い色をしていた。
シャーロットとはまた違う、底の見えない泉を覗き込んでいるような気分。
一瞬、その瞳に見惚れかけて――はっ、と我に返る。
いや、さすがにこの体勢は……。
バランスを崩したから、とはいえ……壁にもたれる青い妖精に、覆い被さるようにして、彼の肩の辺りに手をついた私。
いわゆる、壁ドンというやつでは?
「おい、どうした?早くしろ」
黙ったままでいた私に、彼が苛立ったように手に力を込めた。
驚きと、苛立ちと……この状況への戸惑いとか、離れたいとか、色々な感情があったと思う。
「――そんなに欲しければ、どうぞ!」
ぷつん、と頭のどこかで、何かが切れた音がして。
私は今までにない速さで魔術を使い、彼の頭上に大量の水を出現させると……。
どしゃあっ――!
バケツをひっくり返したように、思い切りぶっかけてやった。
「ぶっ……!」
「いきなり淑女に触れるのは、この国では失礼なことなのよ!」
そう言い残して、水がかからないように飛び退いていた私は、勢いのまま、走ってその場を逃げ出した。
――もう、どうしてこんなことに。
私はただ、あのひとが具合悪そうに見えて、それを心配しただけなのに……!
「本当、なんて失礼なひと……!」
そのまま廊下をひた走り、ホールの方まで戻ってくる途中のこと。
「お、こんな所にいたか」
のんびりした声が、横合いからかけられた。
「ヴィオラ……!もう、探したんだよ!」
「すまんすまん。帰るのか?」
ひょっこりと廊下の陰から現れたヴィオラを、ぷんすか怒りながら抱き上げた。
「うん、帰る!」
「……なんじゃ、小娘機嫌悪いのう。どうした?」
「なんでもない!」
私の声に、すれ違った侍女がびくりとこちらを振り返った。
目的を果たした私たちは、ようやく帰りの馬車に飛び乗って……リブラリカに帰り着いたのは、深夜も間近の事だった。
――、一方、王城。
梨里が走り去った直後の、貴賓室付近の廊下にて。
「……なんなんだ、あの女」
びっしょりと濡れて張り付く前髪を掻き上げ、ルゥルゥ=クウェーラは呟いた。
すん、と鼻を鳴らすと、澄み切った水の、微かに甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。
唇についた雫を少しだけ舐めると、ほんのりと甘かった。
先ほどまで乾ききって、痛みにくしゃくしゃになっていた翅は、綺麗な水で潤い、艶と輝きを取り戻している。
全身の痛みも苦しみも、乾きもすっかり消えた己の身体を確認して、大きくため息をついた。
――やはり、そうか。
水を吸い、ぐっしょりと重たくなった洋服。
水をぶっかけられて助かりはしたが、この状況はとんでもなく面倒だ。
よいしょ、と膝に手を当て立ち上がろうとした時。
馴染みのあり過ぎる気配が、向こうからゆっくり近付いてくるのを感じた。
思わず、舌打ちをする。
……きっと、先程までのやりとりをどこからか、見ていたのだろう。
姿を現すタイミングが良すぎる。
まったく……性格の悪いあいつが、やりそうなことだ。
「そんな身体でどこに行ったかと思えば。どうしてそんな愉快な姿になってるんだ? ルゥルゥ」
「説明する気はない」
ずばっと一蹴するけれど、こいつは俺の言うことなど聞いちゃいない。
ふむ、と顎に手を当てた奴の頬に、燃えるような赤い髪がさらりと影を作った。
「おや。だいぶ調子が良くなったみたいじゃないか」
「ふん」
「あの子、良い魔術師になるね。水に愛されている。ここまで清らかな水を生み出せる人間は、そうそういない」
「……」
ぽた、と俺の髪から垂れたしずくを、奴が指先ですくい取り、ぺろりと舐めた。
俺はそれが不愉快で、奴の手を払い落とすが……こんなこと気にするような奴だったら、ここまで扱いに苦労などしないのだ。
俺に手を払われた事なんて、気にもとめず。
フェインの奴は、ほう、と目を見張った。
「これはこれは。驚いた。ここまで綺麗な水だとは。よかったなルゥルゥ」
「……放っておいてくれ」
相手にするのも面倒だ。
奴が小さく指先を振ると、何処からか温かい風が吹いて、俺の全身が一瞬で乾いた。
礼なんて、言ってやる必要もない。
無言のまま立ち上がった俺とは対照的に、奴はうきうきと楽しそうにしゃべり続けていた。
「これは、我らの国に溢れる泉の湧き水と、変わらないほどに美しい水だ。ルゥルゥ、君は水の妖精だからね。人間の国の水に毒されて、今にも倒れそうになっている姿もなかなか面白かったが、元気になってくれて本当に良かった。さもなければ、友人としてついてきてくれた君だけを、我らの国へ帰さなければならなかったからね!」
「…………」
「ああそうだ、聞いてくれよルゥルゥ。我が愛しの女王陛下に先程、報告をしてきたんだが。我が愛しの君は、どうやらあの秘書殿のことも気になると言っている。全く、好奇心が旺盛なところがとんでもなく愛らしいと思わないかい? さすが、私の麗しの花だろう?ん?」
「………………」
ほんっとうに、よくしゃべる男だな。
誰かこいつの口に、チャックでもつけてくれないだろうか。
どうしてこんな奴の友人を続けているのか、自分でもよくわからない。
頭痛をごまかすように頭を振って、部屋に戻ろうと歩き出す。
フェインはまだしゃべり続けながら、俺の後をついてきた。
「なあルゥルゥ。いっそのこと、あの秘書殿も、大賢者とともに我らの国へ連れて行くというのはどうだろう? 我が愛しの花も、きっと喜ぶ。そういえば君、花への誓いはまだ立ててなかったろう? それなら、あの秘書殿なんていいんじゃ……」
「――フェイン」
彼の失言に、流石に黙ったままでいることはできなかった。
低い声で遮り、奴を振り返る。
「いくらお前でも、言って良いことと悪いことがあるだろう。誓いの事など、そんなに軽々しく口にするんじゃない。しかも相手が人間だなんて……ふざけるのもいい加減にしろよ」
「種族なんてそんなの問題じゃない。それはお前も知ってるだろう? 全く、まだ独り身だからとそうカリカリしなくてもいいだろうに」
……だめだ、こいつに常識は通用しないんだった。
一瞬の怒りもどこへやら、呆れてものも言えなくなった俺は、肩をすくめると再び黙して部屋へと向かう。
――フェイン=ルファン。
妖精の国の貴族の中で、妖精の中で1番、権力を持っている男だ。
女王陛下の1番であり、常識が通じず、扱いづらいことこの上ない変人。
本当に、なんであんな奴が俺の友人なのかわからない。
「おや、もう休むのか? たまには酒でも一緒に――」
ばたん。
奴の声を扉の向こうに閉め出すと、ようやく一息つくことができた。
俺に割り当てられた貴賓室。
置かれた調度品は、人間の使うものとしては高級品である、と理解はしているけれど。
妖精が過ごすのに快適な空間だとは、到底言えない。
ベッドに敷かれた布は、翅がこすれると不快だし、清らかな水場もなければ、緑もない。
窓際まで歩いて行って、バルコニーへと通じる窓を開け放つ。
ふわりと部屋に吹き込んだ夜風が気持ち良くて、ようやく人心地ついた。
ふわり、と浮き上がり、バルコニーの手すり部分に腰掛ける。
月を見上げ、風を浴びていると……ほんの一瞬、あの甘い水の残り香が、鼻先をくすぐった。
「……あの人間の、女」
――そんなに欲しければ、どうぞ!
そう言った時の怒り顔を思い出す。
舞踏会の会場で初めて見掛けたときから、水と相性が良いのは感じていた。
たかが人間の小娘から、清らかな水の甘い香りがすることに、訳もなく腹が立ち、図書館ではあんな態度をとったが。
あの女は、妖精である俺に向かってにっこりと、歯向かってきた。
「……本当に、腹が立つ」
普段は下ろしたままの、長い前髪を掻きあげる。
そうして、まっすぐに月を睨みつけた。
――このすぐ後、酒を持って部屋に入ってきたフェインに、またひと苦労する事になるなんて。
この時はまだ、思ってもいなかった。




