174.その青にご注意<1>
そろそろ帰らなくては、とシャーロットの部屋を出たのは、すっかり夜になってからだった。
侍女について廊下を歩きながら、隠れてため息をつく。
……こんなに遅くなっちゃって、焔さんに叱られるよね……。
もう夜だというのに、城の中は人通りが多い。
警備の騎士達だけでなく、侍女や侍従も多く行き交っているようだ。
そんな中、ちらりと遠くの廊下の角を、ふさふさしたものが横切ったように見えた気がした。
「あ……!」
そうだ、すっかり忘れていた。
ヴィオラと一緒に来たんだから、帰る前に合流しないと……!
「秘書様?どうかされましたか?」
前を歩いていた侍女が、私の声に首を傾げる。
「あっ……えっと、その……」
見れば、正面玄関のホールはすぐ目の前だ。
このまま行ったら、ヴィオラを城に残したまま、帰りの馬車に乗ることになってしまう。
「あのー……そ、そう!申し訳ないのですが、帰る前にもう一度、応接室で休ませていただいてもよろしいでしょうか?」
「え、ええ、構いませんが……。大丈夫ですか?どこか具合でも……」
「いえいえ!あの、ちょっとだけ緊張していて、疲れてしまったというか……少し休ませてもらえれば大丈夫なので!」
侍女に戸惑われながらも、なんとか応接室に案内してもらえた時には、心底ほっとした。
いつでもお呼び下さい、と言って侍女が出て行くと、大きなため息をついて長椅子に崩れ落ちてしまった。
「あ、危なかった……」
「危なかったというか、不審者だけどな。完全に」
呆れたアルトの声がしたと思ったら、ブレスレットの宝石からしゅるり、と黒い影が現れる。
影は滑らかに空中を漂って、猫の形に固まった。
声の通り、呆れきった紅い瞳がこちらを見つめた。
「だって、ヴィオラを置いて帰るわけにいかないじゃない」
「あいつなんぞ放っといたって、自分でなんとかするだろ」
「……後で何言われるかわからないでしょ」
じと、と睨み返して言うと、アルトは目を泳がせながら、小さく応えた。
「……まぁ、確かにな」
「だから探すの。行くよアルト」
「ったく仕方ねえな」
立ち上がって手を伸ばすと、アルトがひょいと肩に上ってくる。
そのまま部屋を出ようと扉に手をかけて、そうだ、と思いついたことがあった。
「あ。あの魔術使えるかな?」
「ん?」
焔さんに教えてもらった、簡単な魔術がいくつかある。
水を得意属性とする私が使えるものの中で、こんな時にこそ使うべきものがあったじゃないか。
集中するために目を閉じて、すうと深呼吸。
身体の中の、暖かな力を意識して……薄い膜を思い浮かべて、その膜で全身を包むように……。
これは、薄い水の膜を作り、自らの存在感をぼやかす魔術だ。
まだ完全に姿を隠すことはできないけれど、気を付けて見ようとでもされなければ、すれ違う人たちにばれることもない、はずだ。
暖かい力が十分広がった感覚の後、最後に小さくぱちん、と、泡が弾けるような音がしたら、魔術が完成した合図。
「どうかな?」
「おお、だいぶ上手くなったな。さすがは大賢者イグニスの秘書殿」
「やめてよそういうの……」
アルトとひそひそ声で話しながら、静かに応接室を後にする。
ばれないかどきどきしながら、できるだけ物音を立てないようにそっと歩いていく。
廊下ですれ違う人は沢山いたけれど、誰ひとり、フラフラと歩く客人には気付いていないようだった。
――よかった。私の魔術、ちゃんとできてる!
その事実に、少しだけ自信がつく。
さあ、この調子でヴィオラを探さないと。
……さっきはこの辺で、ヴィオラを見かけた気がするんだけど……。
ふさふさを見たと思った角のあたりまで戻って来てみたものの、そこには何もない。
「ねえアルト。ヴィオラの居場所、わからない?」
「わからんでもないが、イグニスの使い魔じゃないからな、あいつ……。同じ眷属じゃないと、はっきりとはわからんぞ。何となく、あっちだと思うが」
「あっちね」
何となくでもいい。
今はただ、早くヴィオラを見つけて、リブラリカに帰らなきゃ。
応接室に誰もいないのがばれても、面倒なことになりかねないし……。
そんな焦りもあって、それまでよりは少し大胆に、城の中を小走りに駆け回るけれど。
しばらく走り回っても、どうしても、ヴィオラの姿を見つけられない。
「もう、すぐに戻るって言ったのに……」
「だからあいつは信用できないんだ」
愚痴をこぼし合いながら、広い城の中を彷徨う私たち。
もう諦めて帰ってしまおうか――そんなことを本気で考え始めていた、その時だった。
「!おいちょっとまて……!」
「え?」
角を曲がろうとした私に、アルトが急に叫んだ。
しかし間に合わないまま、私は角を曲がりきってしまう。
「……ぁ!」
その先で叫びそうになってしまい、思わず口を押さえた。
誰もいない廊下の途中で、綺麗な青い妖精が蹲っていたのだ。
美しい羽は、少し苦しそうにしわが寄ってしまっている。
丸まった背は、微かに震えているようだった。
ど、どうしよう……!
焔さんからは、妖精と会わないよう気を付けろと言われていたのに。
驚いて止まりかけた頭で、このまま回れ右して逃げてしまえば――と考えた。
「……リリー、こっちに気付いていないみたいだし、ほれ、今のうちに」
アルトが小声で囁いてくる。
小さく頷き返して、1歩、2歩と後退りした。
……のだけど。
目の前で苦しそうにしている背中を、妖精だからと見なかったことにはできなかった。
周りを見渡すけれど、なぜかこのあたりには侍女や侍従がいないようだ。
人を呼ぶことができないのなら……仕方がない。
ぐっと、覚悟を決めて、肩の上のアルトに小さく言った。
「ごめん。見なかったことにして」
「は?……っておい!」
走り出したのと同時、集中をとくとぱちん、と耳元で音がする。
姿をぼやかす魔術が解けたのだ。
そのまま、蹲っている妖精の元へと駆け寄ると、傍に膝をついた。
「あの!大丈夫ですか?!」
「……?!お前……」
「え?」
妖精の肩に触れると、はっと顔を上げた彼が、長い前髪から覗く青い瞳を丸くした。
目があった途端に、心配して声をかけたことを少し後悔しそうになる。
この妖精……!リブラリカで、私をにらんでたひとだ!
彼も驚いたのか、呆然とこちらを見ていたけれど、すぐ我に返って私のことを軽く突き飛ばした。
「いた!」
あまり力は入っていなかったけれど、バランスを崩して小さく尻餅をついてしまう。
「ちょっと、何するんですか!」
「……うるさい、お前、なんでここに」
彼は、私を突き飛ばした反動か、壁を背に座り込んでいた。
肩口で切り揃えられた青い髪が、冷や汗をかいた頬に張りついている。
この距離で見ると、本当に顔色も悪いし、息も乱れて苦しそうだ。
ますます放っておけなくなって、怒りをぐっと堪える。
「……用事があっただけです。私より、貴方、すごく苦しそうですけど。どうしたんですか?人、呼んできますか?」
「いい。うるさい構うな」
「うるさいって……そんなに具合、悪そうなのに」
「人間にどうにかできる事じゃ……」
無愛想に失礼なことばかり言っていた彼は、そこで不意に言葉を切った。
「いや、この匂い……」
「?匂い?」
突然何を言い出すのか。
特に何かの匂いがしている訳でもないし、見るからに不調そうな彼が何を欲しているのかもわからない。
「リリー、こんな奴放っておけって。こんだけ口が回るなら、死にやしないだろ」
「でも……」
確かに、こちらが心配しているというのにこんな言い方されるし……やっぱり、人を呼んで終わりにしてしまった方が良いかもしれない。
「……じゃあ、私ちょっと――」
人を呼んできます、と立ち上がろうとした――その時。
「待て」
突然伸ばされた彼の手が、私の腕を掴んで、ぐっと引き寄せた。
「わ……!」
突然のことに再度、バランスを崩した私は、彼の背後にある壁に手をつく。
きらきらと、不思議な揺らめきで輝く宝石のような瞳が、至近距離で私を睨みつけていた。
「お前、水の魔術、使えるだろ。今ここで、水、出して見せろ」




