172.銀色の猫、再会
「ふぅ……」
今日分の仕事は、このくらいにしておこうか。
いつもより少しだけ、根を詰めすぎた午後。
自分の執務机でうんと伸びをして、天を仰いだ。
昨日、あんなことがあった後だ。
今日のリブラリカの職員たちは、またいつ妖精達がやってくるかとビクビクしているように見えた。
一般の利用者もほとんど居なくなってしまって、この世界の人たちがどれだけ妖精を恐れているのかが見てとれた。
……なんだかなぁ。
ほんの少し、もやもやする気持ちがある。
確かに妖精たちは、人間とは比べものにならないくらいの力を持っているんだろう、ということは私にもわかる。
舞踏会の時は、フェイン=ルファンと目が合っただけで、恐怖で身体が動かせなくなった。
しかし今のところ、妖精の使者たちが人間に危害を加える事はないようだし……昨日リブラリカに来たときのフェイン=ルファン達は、あまり恐ろしくはなかった。
それなら、言葉だって通じるのだし仲良くすればいいのに、と思うのだが……この世界の住人ではない私が何を考えたところで、所詮は部外者……。
椅子から立ち上がって、側にあるビロードの長椅子がある方へと移動する。
置いてあるクッションを抱きしめ、足を伸ばして座ると、心地いい最奥禁書領域の静寂を全身で感じて、目を閉じ深呼吸をした。
――本当にここは、居心地が良い。
古いインクと紙、そして慣れ親しんだ薬草の香り。
爽やかで、ほんのり花の香りも混じる……焔さんの、香りだ。
昨日、妖精達を見送りした後の焔さんは、少し機嫌が悪そうだった。
戻ってきた私を見て、「大丈夫?」と1番に心配してくれて。
大丈夫だと答えると、「そっか」とだけ言って執務室へ籠もってしまった。
今日は、朝からいつも通りのように見えたけど……。
彼が何を考えているのか、まったくわからない。
「焔さん……」
ぽつりと、呟いた。
ほぼ無意識のようなそれに、当然返事などあるはずはないのに――。
「うん。なあに?梨里さん」
至近距離で優しく、囁くように聞こえた、大好きな人の声。
ぱちり、と目を開くと、こちらをのぞき込む焔さんの優しい笑顔があって、驚きと同時に胸が弾んで、慌てて長椅子の上を後ずさった。
「わ!わ……ほ、焔さん!」
「うん」
「おどかさないでください……!」
「ふふ、ごめんごめん」
楽しそうに笑って、焔さんの手が私の頭を優しく撫でた。
驚いて跳ね回る心臓が、またひとつ大きく跳ねて、ぎゅっとなる。
赤くなっている気がする頬を隠すように、クッションを前に突き出して盾にした。
「ど、どうしたんですか?何かお仕事です?」
クッションの影からそう尋ねると、やっと焔さんが身を引いてくれる。
「うん。こんな時間にごめんね、ちょっとこの書類をロイアー妹に届けてくれないかな?あ、手紙は急ぎで城に届けるように伝えてくれる?」
「はい、わかりまし――」
差し出された書類と、その上に乗せられた手紙を受け取りかけて、はっとした。
お城への手紙……!
そうか、これを口実にすれば!
「焔さん!」
がし、と焔さんの袖を握りしめる。
今度はこちらから身を乗り出すようにして、焔さんに詰め寄った。
「この手紙、私が直接お城に届けてもいいですか?!」
焔さんは、驚いたように黒い瞳をぱちくりさせて数秒、「ああ」と納得したように頷いた。
「なるほどね。まあ、良いけど……うーん、今はちょっとなぁ……」
「だめ、ですか……?」
「だめではないんだけど……。今、城には奴らがいるだろう?鉢合わせたりしたら危険だ」
奴ら、というのは妖精達のことか。
心配してくれているのはありがたいけど、それでも私も、こればかりは引きたくなかった。
城に行く口実さえあれば、シャーロットに会えるかもしれない。
ライオット殿下と会うことが出来れば、彼女に会わせてもらえるようお願いできるだろうし……こんなチャンス逃したくない。
「お願いします!シャーロットに会いたいんです……!」
「うーん……」
「おいイグニス。俺もついてるんだから、許してやったらどうだ?」
アルトも横から援護してくれるけれど、焔さんは困った表情のままだ。
「僕はちょっと、一緒には行けないし……困ったな……」
あまり、彼を困らせたいわけではない。
これは、諦めたほうがいいかも……なんて、思っていたその時。
意外なところから、助け船を出す声が割り込んできた。
「それならば、私が一緒に行ってやろう。それならばいいじゃろう。なぁイグニス?」
声がした方を振り向いて、目を丸くする。
私たちの他には誰もいないはずのこの場所で、書棚の影から、するりとしなやかな動きでそれが現れる。
銀色の長い毛並みが美しい、アイスブルーの瞳の猫が、優雅にこちらを見ていた。
それより、今の声は聞き覚えがある。
更に、この猫の外見は、忘れもしないあの人を思い起こさせた。
「ヴィオラ、さん……?」
「久しいな、小娘」
にやり、と口角を持ち上げて、銀色の猫は優雅な仕草で跳び上がると、私の執務机へと着地した。
オルフィード国の隣国で、女賢者として暮らしている彼女。
ヴィオラも女賢者と呼ばれるだけあって、魔術で猫の姿になるのも簡単なのだろうか?
フラフラと机の上を見学している猫の姿に、焔さんは大袈裟にため息をついて、肩を落としている。
「まあ、気配でわかってはいたけどさ……何?何の用で来たの?」
「もう、お前というやつは、相変わらずつれんのう。あの小僧について来て、様子を見に来てやったのではないか」
――あの小僧、って誰だろう?
ってそれよりも、今は大切なことがある。
「ヴィオラさん。あの、一緒に城に行ってくださるんですか?」
「ああ。大体の状況はここに来るまでで聞いた。その引きこもりが今の城に行きたがらないのもわかる。ほれ、イグニス。私が行くならいいじゃろう?」
「……それは、まあ……お前が行くなら。でも……」
焔さんは、それでもまだ心配だ、という風にこちらを見つめてくる。
私は焔さんに向き直ると、真っ直ぐに彼を見つめて、改めて頭を下げた。
「……お願いします、マスター」
ふう、と頭上で優しげな溜息が落とされる。
「わかったよ。……くれぐれも、危ない目には遭わないように。遅くならずに帰っておいで」
「……!はいっ!ありがとうございます、マスター!」
ぽんぽん、と、焔さんの大きな手のひらが私の頭を撫でてくれる。
こうして私は、アルトとヴィオラ、2匹の猫を連れて最奥禁書領域を飛び出した。
手早くユリーシア宛の書類を届け、その足で王城行きの馬車に飛び乗る。
夕暮れの日差しが差し込む馬車の中、私の肩でずっと警戒している様子のアルトとは対称的に、ヴィオラは私の膝を占領して、欠伸をしながら丸くなり寛いでいる。
アルトたちが一緒とはいえ、焔さんの付き添いなしで王城に行く、というのは初めてのことだ。
緊張しないといえば、嘘になる。
けれど、シャーロットに会えるかもしれないと思えば、勇気が湧いた。
突然リブラリカと引き離されてしまった彼女が、ひとりで泣いていたりしませんように。
祈るように、ぐっと膝上の拳を握りしめる。
沈黙が続く馬車の中、ふぅとため息をついたのはヴィオラだった。
「全くお前は、ゴーストの次は妖精だなんだと、苦労するなぁ?小娘」
からかいを含んだ言い方に少々むっとなるが、確かにその通りではある。
「ヴィオラさんは、見ない間にずいぶんともふもふになりましたね」
悔しくてそんな風に返しながら、銀の長い毛並みの背中を撫でる。
嫌がられるかと思ったのだけど、意外なことに彼女は気持ち良さそうに目を細めて、ふふんと笑っただけだった。
「これはただの端末だ。ほれ、そこな黒猫と同じ、使い魔の類だな。違いは、私自身の意識で操作していることくらいか」
「魔術でそんなこともできるんですね」
「まあな。イグニスの奴が定めたルールで、奴が許した以外の賢者は、こうでもせんとあの領域内に入れんからの」
「そこまでして、どうしてリブラリカに来たんです?」
「さっきも言っただろう?お前たちの様子を見に来ただけだ。あんな田舎では暇だったのでな」
「そうですか」
ロランディアであったことを思えば、ヴィオラに良い印象は全くない、のだが……こうして王城行きを許可してもらったのもあるし、あまり邪険にはできない。
「そういえば、誰かについてきた、って言ってましたよね?誰と来たんですか?」
何気なく気になっていたことを尋ねただけだったのだが、何故だろう。
急にヴィオラは、何か意味ありげな表情で、ちらりと視線を向けてきた。
そして、盛大なため息をついて顔をそらされる。
……いやいや。本当に何よ?
「それはまあ、今言わんともあとでわかるじゃろ」
「えええ……」
釈然としない私を乗せたまま、馬車は王城の門をくぐったようだった。




