151.予想外のお客様
やっとのことで職員通路に戻ってくると、その場にしゃがみ込んでしまいたいほどの疲労感が、背にどっとのしかかってきた。
隣で歩く焔さんがいるから、立ち止まりはしないけれど……正直なところ、もう1日分は疲れたような気さえする。
取り敢えずこれだけはもの申しておこう、と、周囲に職員の姿がないのを確認した上で、思い切って口を開いた。
「もう、焔さん……一般書架への出入りは当分控えてくださいって、つい先日もお願いしたばかりじゃありませんか」
「ごめんごめん。本当に、急ぎの用事があったんだよ。それに、結果的に君のことも助けられたんだから、良かったじゃないか」
「まぁ、その……確かに、助けて頂いて助かりました。ありがとうございました」
「うんうん」
「ですが!最近は本当に、焔さんを……大賢者を見るためだけにって、一般書架に入り浸っている貴族の方々がすごいんです。今日みたいに姿を見せてしまったら、また人が増えて、職員の皆さんが困っちゃいますから……!」
「わかった、わかったって。ちゃんと気をつけるよ」
全然反省の色が見えない声で、そんなこと言われても。
……そんなふうに優しく頭を撫でて、誤魔化そうとしたって無駄なんですからね!
心地良い焔さんの手の感触に、負けた気分になるのはどうしてだろう。
精一杯睨んでみるけれど、深く被ったフードの奥で、焔さんは余裕そうに鼻歌まで歌っている。
今まで、何回言ってもこんな感じで、いつも流されてしまって。
言うこと聞いてくれる気はないんだろうなと、薄々感じてしまうのが悲しい。
……まぁ、聞いてもらえなさそうなことを、いつまでも言っていても仕方がない。
「ところで、急ぎのご用事って……?」
丁度尋ねたタイミングで、廊下が終わり、私たちは開けた空間に出る。
中庭が綺麗に見える、開放感溢れる広い空間に、沢山のテーブルや椅子が並んでいる――職員用の食堂だ。
今はピークの時間から外れているけれど、それでもまばらにいる職員たちが、突然食堂へと入ってきた大賢者の姿に、ざわざわしている。
そんな周りの様子も一切気にせず、焔さんは私の手を引いて、一番奥まった場所にある特別なカウンターへ向かいながら、フードから覗く口で軽く苦笑した。
「いやあ、ちょっとお客さんが来ていてね。僕たち2人に」
「え?」
私たち2人にお客さんって……そんな予定はなかったはずなのに。
「取り敢えず、モニカから何かお茶を貰っていこう。きっと今頃、待ちくたびれて欠伸してると思うから」
「あ……はい」
戸惑う私を連れたまま、焔さんは食堂の責任者であるモニカに声を掛け、カウンターでにこにこと談笑している。
誰が来たのかなんて予測もつかないままに、モニカがどっさりと用意してくれたお茶セットのバスケットを受け取った。
まさか、王様がここまで来たってことはないだろうし……そもそも、焔さんが門前払いせずに、お茶まで用意して接待するなんて、そうあることじゃない。
本当に……誰が来たっていうんだろう。
私は首を傾げたまま、焔さんに続いて応接室のほうへと帰って行くことしかできなかった。
お客さんの対応ならば、てっきり、最奥禁書領域に繋がる応接室でするものだろうと思っていたのに。
少し緊張しながら応接室の扉を開けた瞬間、目の前にはがらんとした部屋の中。
私はぽかんとして立ち止まってしまった。
拍子抜けした私の手をさらに引いて、焔さんは最奥禁書領域へと戻る扉をくぐってしまう。
「ちょ、ちょっと待ってください!お客様って、まさかこっちにいるんですか……?!」
最奥禁書領域は、焔さんが魔術で造り維持している、空間が捻れた広大な領域だ。
大賢者と呼ばれるだけの実力のある焔さんの、個人のテリトリーであり、彼の聖域でもある。
大切なその場所は、今まで焔さん本人と、彼に許された私、使い魔であるアルト以外の誰かが出入りすることなんて、ありえなかったのに。
「うん……僕も少しだけ困ってるんだけど、彼ならここに入ってきても、まぁ……仕方ないというか……」
こちら側へと戻ってきたので、焔さんがぱさりとローブのフードを背中に落とした。
現われたのは、800年以上生きているだなんて信じられないほどの、整った顔立ちの美青年。
陶器のように滑らかな肌に落ちかかる長めの黒髪は、光の当たり方によって少し赤みがかって見える。
その艶やかな髪を三つ編みにして肩に掛け、細身で長身の身体には、意外にしっかり筋肉がついていたりして。
時折深紅の光が揺らめく綺麗な黒い瞳が、ほんの少し困ったように細められてこちらを見つめている。
面食いだ、なんて誰かに言われても、反論のしようがない。
本当に、誰よりも格好良く見えるのは、恋をしているフィルターでも通してしまっているからなのだろうか。
「取り敢えず、会えばわかるから」
それだけ言われて、さらに手を引かれ歩いて行くうち、たどり着いたのは焔さんの執務室の前。
「ごめん、待たせた」
焔さんが室内へと声を掛ける後ろから、そろりと顔を出して部屋の中をのぞき込む。
「ああいや、気にしなくていい」
ほんの少し珍しい、焔さんの気安い呼びかけに、長椅子に腰掛けていた男性がこちらを振り返った。
「えっ、殿下――……じゃ、ない?」
柔らかそうな、煌めく蜂蜜色の髪。
焔さんとはまた質の違う、ぱっとした華やかさを伴ったこの美青年は、オルフィード王国の王太子、ライオット・フェリオ・オルフィードその人のはず――。
なのだが、こちらに向けられた薄紫色の、宝石の様に輝く瞳と、目が合った瞬間。
最奥禁書領域に入れるはずのない彼が、焔さんの執務室で優雅に寛いでいるこの状況を、「そういうことか」、と納得してしまった。
「やあ。こうして会うのは初めてかな?リリーさん」
「貴方……ザフィア様、ですね」
「ふふ、当たり」
ふわりと落ち着いた微笑みは、先の夏、多くの時間を一緒に過ごしたライオット王子のものではない。
ロランディア村に隠されていた古き魔術によって、ライオット王子の中に復活したという――オルフィード王国の初代国王、ザフィアのものだった。
自身の血縁であるライオット王子の中に、魂だけの存在として宿っているというザフィア様。
焔さんから口頭での説明は受けていたけれど、直接こうして『ザフィア様』の状態のライオット王子殿下に会うのは、これが初めてだ。
それなのに、彼の全身から感じられるオーラや、同じであるはずの薄紫色の瞳の輝きが、明らかに違うように感じた。
彼が今、『ザフィア様』であるのなら、最奥禁書領域へ入れるのも納得がいく。
初代国王ザフィアと大賢者イグニスは、大親友だった。
それは、この王国の歴史を学んだことのある人たちにとっては、誰もが知る事実だ。
ただひとり、大賢者の特別であったと伝えられるほど仲が良かったというザフィア様ならば、焔さんも自分の領域へと入ってくるのを拒むことはしないのだろう。
焔さんはいつも通り、適当にローブを脱ぎ捨てながら、はあと溜息を零した。
「身体は猪王子だとしても、この状態の彼は魂が「ザフィア」だから、自由にここへ出入りできてしまうんだよ」
「なんだよ、そんなに残念がることないだろう?俺に会えて嬉しいくせに」
「はいはい、嬉しいよ」
「猫かぶりやがって。まぁいいか。……リリーさん、ほら、こっちおいで」
「!は、はい……!」
いつもの紳士的な雰囲気よりも、どこか幼いというか、少年ぽく会話をする焔さんに気を取られてしまっていた。
ザフィア様から声を掛けられて、自分が入り口で立ち止まってしまっていたことに気づいた私。
慌てて部屋へ入ると扉を閉めて、無意識のうちに焔さんが脱ぎ捨てたローブを拾い上げ、いつものように埃を払って形を整え、衣装掛けへと掛ける。
相手は初代国王だと思うと、見た目がライオット王子だとしても、どうしても緊張してしまう。
「今、お茶の準備しますので……!」
モニカから預かってきたお茶セットをテーブルに準備して、ぱたぱたと動き回っていると、そんな私をじっと見ていたザフィア様が一言。
「……なるほど、もうすっかり嫁なんだな」
……嫁?
誰が、誰の?
一瞬何を言われたのかわからず、頬杖をつくザフィア様と目が会うこと数秒。
「ん」
ザフィア様が顎で指した方に居たのは、きょとんとした顔の焔さんで。
瞬間、かああっと顔が真っ赤になったのが、自分でもわかった。
「――はい?!」
私が裏返った声を上げた、それと同じタイミングで、焔さんが容赦なくザフィア様の頭をひっぱたいていた。




