142.涙、青々<1>
焔さんと別れた後、定位置に荷物を下ろしながら机上の時計を確認した。
そろそろ夕方が見えてくるかな、くらいの時間だ。
「さて、どうしようか」
「別に、好きなことすればいいんじゃねーの」
くあっと欠伸をしたアルトが、素っ気なく尻尾を振る。
「うーん……」
ちらりと、先ほど焔さんが消えていった書棚の方に視線をやった。
様子が少し気になる……けれど、また明日、と言い合ったのに、部屋まで押しかける気にはなれない。
かといって、このまま自宅に戻るのも……。
気になることは、他にもあるし。
「アルト、ちょっと作業部屋覗きにいこう」
「おー」
ひょいと肩に飛び乗ってきたアルトを連れて、いつもの扉をくぐり、応接室へと出る。
リブラリカの職員通路へと出れば、そこにはまばらに通路を行き交う職員たちの姿があった。
ほんの少し、懐かしい気もする廊下を歩いて行く。
少しして到着した、職員たちが普段の机作業をしている部屋をそっとのぞき込んだ。
きょろきょろと見渡してみるけれど、残念なことに、オリバーもシャーロットもいないようだ。
「おや、リリー様?」
背中にかけられた声に振り向けば、そこには眼鏡を掛け背筋をピンと伸ばした、立ち姿の美しい青年がいた。
「あ……!お久しぶりです、ランツァ様!」
なんと懐かしい。そして、名前を覚えていた自分を褒めてやりたい。
「本当にお久しぶりでございますね。こちらに何かご用でも?」
指先まで洗練された、上品な仕草で会釈をしてくれる彼は、このリブラリカで貴族専用の窓口を担当しているベルナルド・ランツァ氏だ。
リブラリカで働き始めの頃、シャーロットの授業で知り合った彼は上流階級の出身で、いつでも美しい所作が評判の司書。
彼ほどの人が、私を覚えていてくれたことが嬉しくて舞い上がりそうになるけれど、はっと我に返って、スカートの裾を広げ、きっちり教え込まれた通りの礼をした。
ゆっくり顔を上げると、ランツァさんは私を見て満足そうに頷いていた。
「素晴らしい。見違える程綺麗になられましたね」
「そんな風に言って頂けると、とても嬉しいです」
本当は、彼にこんな言葉をもらえたことにもっと喜びたいところだけれど。
そんなことをしてしまっては台無しなので、微笑んで胸に手を当てるだけにとどめる。
私の反応にも満足してくれたらしく、彼はうんうんと更に何度か頷いてくれた。
「さすがロイアー嬢のご友人。良い淑女になられましたね。……ああ、私としたことが、つい長話をしてしまいました。それで、何かお困りでしたか?」
「ああ、そうでした。ええと……。先ほど、出張先から帰ってきましたので、副館長に報告とご挨拶が出来ればと思ったのですけれど……。もし副館長がお忙しければ、書記官のブリックスさんにもお礼を申し上げたいことがありまして。でもお二人とも、席を外していらっしゃるみたいですね」
挨拶や報告というのは建前。
勿論そういった仕事上のこともきちんとしなければいけないけれど、今は……今は、あの話があって、私の友人たちが傷ついたりしていないかが、気になって仕方がないだけだ。
2人の名前に、ランツァさんはふむ、と少し難しそうな顔をした。
その表情に、不安が煽られる。
「副館長殿であれば、先ほど役員の会議でお見かけしましたので、館内にはいらっしゃると思いますが……。ブリックス殿は確か、数日前から欠勤していたと思います」
「えっ」
オリバーが、数日前から欠勤、って。
もしかして、あれが原因なんじゃ……。
「……っあの、それって……!」
「あら、リリー……?」
今日は、レグルさんやランツァさんといい、背中から声を掛けられることが多い気がする。
って、今はそれどころじゃない。
聞き覚えのありすぎる声に勢いよく振り返れば、作業室の入り口付近で立ち話をする私とランツァさんの数メートル先。
廊下の途中で立ち止まる、鮮やかな青の制服を纏ったシャーロットが、目を丸くしてこちらを見ていた。
「……探し人が見つかって、よかった。では私はこれで」
いつものはきはきした様子とは、ほんの少し違うシャーロットの沈黙に、察して気を遣ってくれたのだろうか。
ランツァさんは静かにそう言って私たちに礼をした後、滑るように作業室へと入っていった。
「……シャーロット」
立ち止まったまま動かない彼女に、歩み寄る。
名前を呼べば、びくりと彼女の肩が揺れて、金髪が滑り落ちた。
「あ、ああ、リリー……」
「シャーロット。帰ってきたから、探していたの。……大丈夫?」
やはり様子のおかしい彼女を心配して、その肩に触れようと手を伸ばす。
「――リリー」
そうやって伸ばした私の手を、彼女は冷たい指先でぎゅっと握ってきた。
……まるで縋るような力の込め方に、ぎゅっと心が痛む。
彼女と、至近距離で目が合う。
「あの……お夕飯、まだですわよね?今からお時間、あるかしら?」
いつもと違って、弱さの見え隠れする低くて細い声。
強い輝きを宿していた青い瞳は、のぞき込んでみれば酷く脆そうに揺れていた。
「うん。私、お腹空いちゃった」
本当はまだ、そんなにお腹が空いたわけでもないのだけれど、極力優しい声で、そう答える。
「……ありがとう」
彼女は掠れた声でそう呟いて、私の手を握る力をそっと緩めた。
馬車を呼んだシャーロットに、黙ってついていく。
乗り込んだ馬車の行き先は、リブラリカからそう離れていない場所に建つ、豪奢な建物のレストランだった。
外観からして、貴族層が通う高級な店のようだ。
リブラリカの制服のまま来てしまった私たちだったけれど、レストランの受付をしていたスタッフはシャーロットの姿を見ると深く頭を下げ、すぐに店内へと案内してくれた。
店内はやはり、高級料理のレストラン、といった雰囲気だ。
私の世界でも、お高いお店でよく見るような、きっちりとテーブルクロスの掛けられた丸テーブルが、ピカピカのフロアにいくつも並んでいる。
食事を楽しんでいる人々も、華やかなドレスやローブに身を包んだ、貴族ばかりだ。
その奥のほうには、僅かに透ける布の丸い天蓋がいくつも並んでおり、天蓋の中にもテーブル席があるようだった。
そんな天蓋席のひとつに案内される。
「こちらへどうぞ」
促されるまま、スタッフが持ち上げてくれた天蓋の中へと一歩足を踏み入れた途端、一瞬で周りの音が全て消えたことに驚いた。
「えっ!」
驚いて出した自分の声は、聞こえるようだ。
振り返ると、スタッフはすでに天蓋を下ろしていなくなってしまっている。
「……心配しないで。この天蓋の布には、音を遮断する魔術が掛けられているの。盗聴防止になるのよ」
先に席に着いていたシャーロットの言葉で、ようやく仕組みが理解できた。
「すごい。そんなことも出来るなんて便利だね」
向かいの席に座りながら言うと、シャーロットは相変わらず俯いたまま、そうね、と頷く。
「便利といえばそうだけれど、これも汚い貴族社会で生きるための知恵、なのですわ。ですから、ここは安心して内緒話ができるところなんですの」
貴族社会も、華やかなだけではない、と。
今まで沢山私に教えてくれたのは、彼女自身だ。
「聞かれてはまずい話をするのですから、こういう場所でないといけないでしょう?」
「……そう、だね」
悲しそうな声の彼女に、そうとしか応えられなかった。
すぐに、スタッフの人が料理や飲み物を運んできてくれて、一通りのものがテーブルの上に並ぶと、また滑るように去って行く。
周りのテーブルにいるお客さんたちの会話や食事の音は、この中には一切聞こえてこない。
店内に流れていたクラシックのBGMさえ聞こえない、静かな天蓋の中で、シャーロットは料理を見つめながら、ようやっと大きな溜息を零した。
「リリー……まずは、出張本当にお疲れ様でしたわ」
「うん、ありがとう」
力ない彼女の微笑みと、小さくグラスを乾杯する音。
ほんのわずか、飲み物で唇を湿らせた彼女は、すぐにグラスをテーブルに戻してしまった。
彼女の両手は、料理に向かうこともなく、そのまま力なく下げられてしまう。
「……ねぇ、リリーは、ライオット殿下と仲が宜しかった、ですわよね?」
「……うん」
「今回の出張も、一緒にあちらへいってらした、って」
「うん、そうだよ」
話題に出た名前に、ずきりとまた胸が痛む。
すん、と小さく鼻をすするような音が聞こえたのは、多分気のせいなんかではない。
視線を手前の料理に落としたままで、彼女はまた、溜息をついた。
「でしたら……やはり、あのお話ももう、ご存知なのでしょう?」
「…………うん」
私の返事に、彼女はようやっと、悲しみに凪いだ、美しい青の瞳をあげたのだった。




