126.彼女の肖像<2>
開いた扉の隙間から、ふわりと立ち上った埃。
その向こうにあったのは、しんと静寂に満ちた、誰かの部屋のようだった。
扉を開けたまま支えてくれている、ミモレと目が合う。
こくり、とひとつ頷かれるのに背を押され、部屋のほうへと向き直った。
「……気をつけろよ」
ひそり、とアルトが耳元で囁く。
ぐっと生唾を飲み込んで、私はそっと部屋へと足を踏み入れた。
「……お邪魔、します……」
誰の部屋なのかもわからないけれど、囁くような小さな声で呟きながら扉をくぐる。
廊下の絨毯とは違う、暗い色の板間の床には、今でも誰かが出入りしているのか、埃の積もっているところと積もっていないところがあるようだった。
いつの間に陽が傾いていたのだろう。
窓から差し込む西陽が、しんとした部屋をほんのり寂しげに染めている。
部屋の中は、古びた家具が並んでいた。
持ち主は女性……だろうか。
窓に揺れるカーテンは小花柄で、時の経過を感じさせるような長椅子の上には、レースのクッションが置かれていた。
ベッドと、机と、小さなクローゼット、テーブルに長椅子がひとつ。
机の上にも周りにも、まるで焔さんの部屋のように、古い本が山積みにされていた。
なんだろう……すごく、懐かしいような、不思議な感じのする部屋だ。
こじんまりした部屋を見回していると、私の後ろから入ってきたライオット王子が同じようにきょろきょろと部屋を見渡して、首を傾げた。
「……ん?このマナの感じって……」
「殿下?どうしました?」
「んー……ああ、いや、なんでもない」
「?」
なんだか歯切れの悪い様子のライオット王子に、私が更に何か言おうとした直前、最後に部屋に入ってきたミモレが、ふわりと部屋の空気を揺らした。
「ここが誰の部屋か、わかる?」
ミモレの問いに、私は首を振った。
「ごめん……わからなくて」
「…………」
「王子殿下は、心当たり、あるみたいですね」
「え?」
黙ったままのライオット王子に、ミモレがついと視線を向けた。
釣られて彼のほうを見れば、なんだか難しい顔で腕組みしている。
「殿下……?あの、」
「お姉ちゃん」
遮るように掛けられた呼び声に、振り返る。
そこには、机の前に佇むミモレの姿があった。
「こっちきて」
言われるままに近づくと、こちらに背を向ける彼女の手には、ボロボロになった手帳のようなものが開かれていた。
「ミモレちゃん?」
「……ん」
差し出された本を、両手でそっと受け取る。
ほんの少し力を入れたら、すぐにでも崩れてしまいそうな手帳。
茶色に色あせてしまった表紙は、何かの毛皮でできているようだ。
「これ……なんの本?」
「お姉ちゃんも、知ってるでしょ?」
私の知ってる本……?
こわごわと表紙を摘まんで、ページを捲り――。
最初に見えた文章に、はっと短く息を吸い込んだ。
知っている。
――つい最近読んだ、『翡翠色の日記』と、まるで同じ出だしだ。
「っこれ――っ」
がばっと私が顔を上げた先。
壁を背にして立っていたミモレのすぐ背後に、額縁に入った小ぶりな肖像画が飾られていた。
「そう。それが、本物」
再びミモレの姿を目にして、びくりと身が竦んだ思いがした。
誰かが――私かアルトか、もしくはライオット王子が、息を呑む音が聞こえた気がする。
驚愕する私たちを前に、ミモレは、幼さが目立つ顔立ちに、全く似合わない強い瞳を向けていた。
「『翡翠色の日記』の著者、アイビー・ロランディア。それが、この部屋の持ち主の名前」
ミモレの静かな声が、主人が去って何百年も経った部屋の中に響く。
――私は唯、こちらを見つめるミモレと、その背後の肖像画から、目を離すことができないでいた。
――あの部屋を出た後、どうやって客間まで戻ってきて、どうやって屋敷を辞して来たのか、記憶が曖昧だ。
気がついた時には私は、帰りの馬車に乗り込んでいた。
カタカタと音を立てながら、馬車が屋敷の門をくぐる。
頭の中は、未だにぐるぐると衝撃が巡っていて、思考が上手くまとまってくれない。
目の前を、屋敷に来た時に見たのと同じような、金属の塀が流れていく。
ミモレに見せられた衝撃的な光景が、今でも瞼の裏から離れない。
夕焼けに染まる木々が窓の外、流れていくのを眺めているようでいて、私は全然違うことに思考を巡らせていた。
――そっくり、だった。
あの部屋の肖像画に描かれていた女性――アイビーと、ミモレ。
年齢の違いはあれど、あの目鼻立ちや、輪郭……何より、あの瞳の光。
眼差しの強さが、そっくり同じだった。
――あの、ゴーストの人が、アイビー。
『翡翠色の日記』の作者だという肖像画の女性を、私は知っている。
私と言葉を交わし、幾度となく外へと連れ出した――あのゴースト。
間違いようもなく、あの女性だった。
本の作者が女性だということは、わかっていたけれど……あれがアイビーだったというならば、彼女が想っていた相手というのは、一体誰なのか。
静まり返る馬車の中、ライオット王子がひとつ溜息をついた。
「なぁ大賢者。結局何か、手がかりは見つかったのか?」
「ん……ああ、うん。そうだね」
焔さんにしてはぼんやりした答えに、思わず視線を向ける。
彼は、私と同じように頬杖をついて窓の外を見つめたままだった。
「なんだよ、ぼんやりして。せっかく初代様の生家に行ったってのに――」
不満そうなライオット王子の言葉に、引っかかるものを感じる。
初代様の生家――ザフィアの生家。
そう、調査の一環で、彼の生家だというロランディア領主の屋敷に――。
あれ?
ザフィアの生家……ってことは、ザフィアはロランディア領主の家出身ってこと……?
いやいや、ザフィアって元々王子だったはずじゃない?
なのに生家がここっていうのもおかしいような……。
それに、ミモレはあの肖像画のこと、アイビー・ロランディアって……。
ということは、アイビーは領主の一族の娘で。
もう少しで何かを掴めそうで、目を閉じて必死に記憶を辿る。
『翡翠色の日記』が、アイビーが記したものだというのなら……あの日記に書かれていた、中々会うことのできない彼女の思い人とは、まさか――。
もしそうだとしたならば、アイビーがゴーストとして私に関わってこようとすることも、私たちがザフィアの魔術書を調査しているからだと説明がつく。
……そうだと確信を持てるような事実なんて、ないけど。
でも……彼ならば、知っているはず。
「……マスター」
静かな声で呼ぶと、焔さんがふとこちらに顔を向けてくれた。
「ミモレから、アイビー・ロランディアさんの部屋を、見せてもらったんです」
「え……」
突然の私の言葉に、驚いた顔をする焔さん。
――言うんだ、私。
膝の上で握りしめた手に、更に力を込める。
瞬きした瞼の裏には、あの夜の景色がちらつく。
怖じ気づきそうになる気持ちを、奮い立たせるように握りしめ、言葉を続ける。
「肖像画も、見ました。……私が会っていたゴーストは、アイビーさんでした」
「…………」
――怖い。
またはぐらかされてしまうかもしれない。
それでも。
「教えてください。……アイビーさんのこと。ザフィア王に関係する人、なのではありませんか?」
小さく揺れの続く馬車の中、まっすぐに焔さんを見つめる。
私の視線を受け止めて、焔さんの綺麗な黒い瞳が……大きく揺れたように見えた。




