119.遠く白い月<5>
「ねぇ、ちょっとぉ。いくらなんでも飲み過ぎなんじゃない?オリバーちゃん」
「……まだ酔ってないから」
小さな声で返事をして、またぐいっとグラスを煽る。
熱い液体が喉を潤していく感覚に、特に喜びなんてものは感じない。
大きく息を吐いてコースターに戻したグラス。
その中で、丸く削られた氷がもの悲しい音を鳴らした。
「まったくもう……」
俺の様子に、カウンターの向こう側でがたいの良い禿頭の大男が、頬に手を当て溜息を吐く。
いくら大衆酒場だからといって、もうとっくに真夜中を過ぎたこんな時間まで残っている客は、オリバー以外に2,3組程度しかいないようだった。
オルフィードの城下町で、料理が美味しいと人気の酒場、ダックスビーク。
通称、あひるのくちばし亭。
1週間ぶりくらいに来たこの酒場で、長いバーカウンターを独り占めして、オリバーは唯ひたすら、明るい緑色をした果実酒を飲み続けていた。
もう何度目かわからない、空になったグラスを、カウンター向こうの大男――この酒場のマスターであるラガートへと突き出す。
彼は肩を竦めて、渋々ながらもまた、同じ果実酒のおかわりを注いでくれた。
「本当に、今日はどうしちゃったの?オリバーちゃん、普段だってお酒はあまり飲まないじゃないの」
「……たまたま、飲みたい気分なんだよ」
「嘘おっしゃい。こーんなに酔っても飲み続けるなんて、絶対何かあったんでしょ」
話しながら、受け取ったグラスをまた軽く傾ける。
爽やかな酸味に、微かに甘いような味のする上質な果実酒。
決して優しい酒ではないのだが、今日ばかりはいくら飲んでも酔える気がしない。
実際、身体はとっくにぽかぽかしているし、シャツの下の肌はほんの少し汗ばんでいる気もする。
思考は……残念ながら、ふんわりはしていても、まだまだはっきりとしているようだ。
今日聞いた言葉が、耳の奥で何度も何度も反響を繰り返す。
……酒が消してくれることを、期待していたのに。
どうしても消えてくれないらしかった。
「おー、なになに、どうしたのよ」
「シェリー!貴女からも言ってあげてよ!」
いつの間にやら、フロアで配膳をしていた酒場の女将――このマスターの妻であるシェリーが、隣の席に腰を下ろしたらしい。
それにすら気づけていなかった自分は相当酔っているはずなのに、どうしてあのことについて、考えるのをやめられないのだろう。
シェリーが長い黒髪を後ろに払う仕草をぼんやり眺めていると、彼女から軽くデコピンをくらった。
「……いてえ」
「オリバー、あんた平気そうな顔して、もうだいぶ酔ってるでしょ」
「……酔ってない」
「酔ってる。顔だって少し火照ってるし。ねぇラガート、水出したげて」
「はーい」
シェリーに言われるがまま、ラガートは俺の手から酒のグラスをささっと回収して、目の前に薬草入りの水が入ったコップを置いた。
「…………」
まだ飲み足りなかったのに。
でも、2人に反論する気力が沸いてこない。
オリバーは大人しく出された水を一口含んで、その爽やかさにほんの少し眉を寄せた。
それまで黙って俺を眺めていたシェリーが、同じくラガートから受け取った薬草水を飲んで、ぷはーと息を吐いた。
「はー、さっぱりする。ね?オリバー」
「……ああ」
「それで?何があったの?」
「別に。……何もないって」
「……まぁ、言いたくないならいいけどさ。心配なのよ、私もラガートも。オリバーってば、ウチに来る時はいっつも笑顔で、沢山色んな事話してくれるでしょう?」
「……うーん、そう、かな」
「そうよ。こんな風にお酒を飲む人って、大抵忘れちゃいたいような事があった人なのよね。酒場なんてやってると、よく見るから。わかっちゃうの」
返事はしないけれど、シェリーが言ってることは理解できる。
まぁねぇ。
そうだよなぁ。
普段は付き合いで1、2杯飲むか飲まないかの俺が、突然こんなに浴びるように酒を飲んでたら、どんな人が見ても、何かあったようにしか見えないだろう。
「もしよかったら、聞くわよ?……話すことで楽になることだって、あるかもしれないし」「私たちの仲じゃない。ねぇ、オリバーちゃん」
シェリーとラガートの言葉に、優しい声色につい、口の端からするりと力が抜けてしまった。
「……なんてこと、ないけどさ。婚約話を聞いたんだ。俺の、友達……から」
透明の薬草水が入ったグラスの表面を、親指でするりと撫でる。
指先についた水滴を無意味に伸ばしながら、俺は俯いた。
今日の夕食時。
いつものように、食堂のいつもの場所で食事を取っていたら、運良くシャーロットが来て、2人で食事をすることになった。
その時に、シャーロットが……まるでなんでもないことのように言ったのだ。
『この前、お母様に呼ばれて本邸に行って参りましたの。お母様ったら、私に縁談を用意した、なんて仰るのよ?事前になんの説明もなく、突然に。驚いてしまいましたわ』
その言葉を聞いた瞬間、己の耳を疑った。
『……………………は?』
間抜けとしか思えないような、阿呆な聞き返し方しかできなかった自分を殴りたい。
『……ですから。婚約が決まったらしいのです』
そう言うシャーロットの声が、淡々としていて。
唯ただ、俺の頭は真っ白になっていった。
……あの言葉を聞いた後。
どうやって食事をして、シャーロットとどんな会話をして、どうやって仕事を終えてここまで来たのか、さっぱり思い出せない。
それほどまでに衝撃的で――。
これだけは絶対に聞きたくないと、恐れていたそのままの台詞だった。
黙り込んでしまったオリバーの頭上で、シェリーとラガートが顔を見合わせて目配せしあっていたが、当然本人は気づかない。
2人は、オリバーの曖昧な一言から、何となくの事情を悟ったようだった。
「……人生長いんだから、たまには考えることをやめられるくらい、酒を浴びたくなることだってあるわよねぇ」
ラガートは相変わらずの図太い声にしなを作って、色っぽく溜息を吐いて見せた。
シェリーはぽん、とオリバーの肩に手を乗せて、宥めるように何度か叩く。
「そーだね。オリバーだって、そんな時くらいあるか」
「……そんな時くらいあるんだよ」
ぽそりと応えて、また薬草水を一口。
「でもね、今日はもう飲みすぎ。ね?ラガート」
「そうね、シェリー。ほら、オリバーちゃんだっていつも言ってるでしょう?酒は楽しく飲まないと、って」
「……ああ。そう、だな……」
確かに、いつもこの店に来て友人たちと飲むときには、そんなことを言ってるんだっけ。
薬草水を飲んで、さっぱりしてくるはずなのに。
逆になんだか、酒がじんわりと回ってくるような感覚があった。
今になってくらり、くらりと視界が揺れているような気がする。
……これは、そろそろ屋敷に帰ったほうが良さそうだ。
「……そう、だね。うん。今日はそろそろ、帰るよ」
そう言って、ふらりと席を立ち、コップの下にじゅうぶんな金を挟んだ。
支えようとしてくれるシェリーの手をやんわりと拒否して、右、左と少しだけふわふわ揺れながら、店の出口へと向かう。
「……ありがと。悪かった。また来る」
「ええ、いつでもいらっしゃい。オリバーちゃん」
「勿論、いつでも来な。待ってるよ」
気持ち良く送り出してくれる2人へ、店の扉をくぐる直前、一度だけ振り返って手を振った。
店から一歩外へ出ると、生暖かいが昼間よりは断然落ち着いた夏の空気が全身へまとわりついてきた。
その不快感にちょっとだけ顔をしかめながら、自分の屋敷へと帰るため、道をふらふら、歩き出す。
夜もとっぷり更けた城下街には、まだ酒場の灯りがちらほら見える。
今通り過ぎた酒場からは、楽しげな笑い声が漏れ聞こえてきていた。
「……はぁ……」
吐き出した溜息は、酒のせいか、周りの空気より断然熱い気がした。
なんか明るいな、と見上げた空には、綺麗で強い光を放つ、白い月。
いつもよりずっと、月が遠いような気がして。
その場で足を止めたオリバーは、複雑な感情が揺れる瞳で、しばらくの間じっと月を見上げていた。




