115.遠く白い月<1>
がちゃりと開いた扉の先。
この数週間ですっかり慣れた質素な部屋に入り、魔道具のランプに触れる。
ぽっと小さく灯った、ふんわりした光に照らされて、宵闇に沈んでいた部屋の調度が浮かび上がるように現われた。
「……ふう」
溜息を吐きながら、ベッドに腰掛ける。
先ほどの夕食の席は、何とも酷かった。
私も焔さんも、いつもなら隣同士に座るのに、わざわざ間にライオット王子を挟んで席につく。
黙ったまま食事をする私たちの姿に、王子も、レグルたちも困惑した顔をしていた。
食事中、ちらりと焔の様子を窺ったけれど、何だか落ち着かないような表情をしているように見えた気がした。
別に、喧嘩をしているとか、そんな訳ではないのだけれど。
せっかくレディ・オリビアから話を聞いて、私も色々……言いたいことを言ったりとか、聞きたいことを聞いたりとか、そういうことを頑張ろうと思ったのに。
仕事として、あの魔術書の調査をしている今、こんなことを考えていることがそもそも、いけないのかもしれないけど。
「でも、調査って言っても……」
呟いて、ごろり、ベッドに寝転がる。
ロランディア村に来てからというもの、村全体の調査を任された私と殿下は、毎日村を歩いた。
しかし今日までに得られたものといえば、子供たちや村人たちとの親交、くらいだろうか。
魔術書に関わる情報なんて、何処にもなかった。
こんなんじゃ、いつまでたっても焔さんの役になんて、全然立てない。
はじめは出張と聞いて、ただ浮かれているだけだった。
けれど実際この村に来てからは、リブラリカに居たときよりも焔さんとの時間は減って、更には変な夢まで見るようになって……。
まぁ確かに、出張に来て良かったこともある、けど。
殿下とこんなに一緒に過ごす機会は、出張に来なければなかっただろうし、こんなに素敵な図書館で過ごすことも出来ている。
調査自体、焔さんにとっても、オルフィード国にとっても大切なものなんだって……わかってはいるけれど。
……わかってはいる、けどさ。
上手く言葉にできない気持ちが、心の中でぐるぐるしている。
居心地が悪くてごろりと寝返りを打って――。
そして、部屋の違和感に気づいた。
「…………?」
あれ。
腕をついて上体を持ち上げる。
しん、と静まり返った室内には、自分以外の気配がない。
これは、おかしい。
「……アルト?」
そう、いつも傍に居てくれるはずの相棒の姿が見えない。
部屋中を見回しても、あの紅い宝石のような瞳が見当たらないのだ。
「え、なんで……アルト!アルトってば!」
しんとした部屋に、私の声だけが響く。
「……どうして」
どうしてアルトがいないの?
食堂から帰ってくる途中、ずっと私の肩に乗っていたはずだ。
焔さんの使い魔で、私の頼もしい相棒であるアルト。
私がこの世界に来ている時に、彼が何も言わず傍を離れることなんて、今まで一度もなかった。
いつだって――。
「いや、待って」
ある。
彼が私の傍にいてくれなかったことが、ある。
正確には、私がアルトから離れてしまったことが。
それは、あの女性に会った時。
――宝石池で、私が溺れそうになったあの日。
そして、いつもの夢を見ているときも。
いつだって、部屋から離れた場所でハッと気がつくと、アルトがいないのだ。
周囲を警戒しながら身体を起こすと、ふわりと揺れた室内の空気に身震いした。
魔道具によって空調が保たれているはずの館内とはいえ、ブラウスの下の素肌に鳥肌が立つほどの寒気を感じる。
部屋の中が、異常に寒くなっているようだ。
ちょうどベッドの上、手の届く位置に置いてあったカーディガンを手繰り寄せて、羽織る。
ゆっくりと立ち上がる動作に合わせて、ベッドと床板がぎい、と鳴いた。
「…………」
疑いのような予感のようなものが、ぴんと緊張の糸を張る。
不思議な事に、いつもの夢を見ている時に比べて、今夜は意識がはっきりとしていた。
頬に当たる冷たい空気まで、はっきり認識出来ている。
――絶対に、彼女がいる。
それは、確信めいた何か。
カーディガンの前を合わせてぎゅっと握り閉めたまま、静かな部屋を見渡す。
すう、と吸い込んだ空気は、むせそうになるほど冷たかった。
「――あの」
しんとした部屋に、やけに大きく自分の声が響く。
「居るんでしょう?――あの時の」
「――こんばんは」
応える声に、ばっと後ろを振り返った。
先ほどまで、古いカーテンが揺れるだけだった窓際。
今までずっとそこにいたかのように、違和感なく立つ女性の姿があった。
こちらに、にこりと微笑みかける表情が、今回ははっきりと見える。
あの、宝石池の時と同じ。
ふわふわの肩までの髪と、シンプルなワンピースを揺らした彼女が、そこに立っていた。
「……こんばんは」
挨拶を返すと、ふわりと女性の笑みが深まる。
女性は背後の窓から夜空を見上げて、ふふ、と小さく笑い声を上げた。
「良い夜ね。月が綺麗」
「そう、ですね」
端から見ればいたって平和な会話だけれど、私はバクバクと跳ね上がる鼓動を必死に抑えようと、カーディガンを抑える手を白くなるほど握りしめていた。
確かに昼間、ミモレと会った後に、今夜この人に会えたら色々聞けるかな――とか、思った。
思ったけれど、本当に会えるなんて。
しかも、今までのような夢見心地な状態ではない。
手も、足も……しっかりと感覚があり、意識もはっきりしている。
今までとは全く違う遭遇の仕方に、驚きと焦りと……何か、心の何処かで感じる恐怖のようなもので、息も上がってしまいそうだった。
空気が薄いような気までしてくる。
気を緩めれば声も、手も足も、震え出してしまいそう。
それでもぐっと堪えて、顔を上げる。
以前の自分では、こんな時……俯いて震えていることしか出来なかっただろうけれど。
今は、違う。
これは、私が成長した証だ。
「あの――貴女は、誰なんですか?」
「私?私は――、過去の約束に縛られた、可哀想な女、かな」
「え?」
「馬鹿な男を好きになるとね、苦労するのよ。――貴女もそんな覚え、ない?」
「えっと……」
おどけたように肩を竦めて見せる女性に、少しだけ呆気にとられる。
そんな苦労に、何処か覚えがあるような――って、そうじゃなくて。
私は、幽霊っぽい女の人相手に一体、何の話を。
ぽい、というか、今までのことを考えるとこの人、たぶん幽霊だと思うのだけど……。
うん、よく見るとほんのちょっとだけ透けてるし。
目を凝らすと、窓枠とか見えちゃってるし……。
口を開いたり閉じたり、目をすがめたりしている私の様子に、女性はくすくすと鈴を転がすような声で笑った。
「まぁ、あの頑固者相手じゃあね。私より貴女の方が苦労してるかもしれないわね」
「ええと、まぁ……」
頑固者。
……うん、焔さんをそう呼ぶことに、なんの違和感もない。
妙に納得してしまう言葉に、一瞬遠い目をしそうになった。
「ごめんなさいね、この前は。もう少しで貴女を池に落とせたのに」
「!」
耳を疑うような台詞がさらりと聞こえて、私の意識が無理矢理引き戻された。
明後日に向いてしまっていた顔を、ばっと女性のほうへと戻す。
視線の先で、彼女はあの時と変わらない、綺麗な笑顔をしていた。




