109.それぞれの夜<4>
「――ってことがあったりして。『あの頑固者によろしく』なんて言われても誰のことやらわからないけど。あのゴーストは、なんていうか……その、本当に悪いことするようには思えないって言うか……」
一通りの説明を終える頃、目の前の大賢者は、腕組みをしたまま目を閉じて、その綺麗な顔を難しそうにしかめていた。
そういえば、こうして彼の顔をフードなしで間近に見ることなんてそうそうない。
しかめっつらしてても、男の俺でも見惚れそうになる綺麗さって……。
ほんとにこいつ、800年以上も生きてる大賢者なのか?
……なんて、疑ってしまうのも無理はないと思うのだ。
って、今はそうじゃくて。
「おい、大賢者?聞いてるか?」
「………………あぁ、うん」
俺が話し終えても黙ったままの大賢者に声を掛ければ、たっぷりと3呼吸くらい数えた頃、上の空な返事が返ってきた。
大賢者はそのままふうと大きく溜息を吐くと、頭を抱えてひとつ頷いた。
「彼との約束に、肩の上のふわふわの髪のゴースト……。『あの頑固者によろしく』、ね……。はぁ、なるほど」
ぶつぶつと呟いて、ひとりで何かを納得したようだった。
「……なんだよ。なんか心当たりでもあるのか?」
「あー、うん。多分ね。……何となく見えてきたよ、これのこと」
そう言って、大賢者が机の上に広げた用紙をとんとんと長い指で叩いた。
それは、ロランディアに来てすぐの頃見せられた、あの『ザフィアの魔術書』の表紙を写したものだ。
「見えてきたって、何かわかったのか?」
「うん。ここに保管されていた古文書の中の1冊にね、暗号があったんだ」
「暗号?」
「そう。……ほら、これ。この本はザフィアの書いた本で、割と有名だから写本が沢山出回ってるんだ」
差し出された古い本を、反射的に受け取る。
古ぼけた布張りの表紙に掠れたタイトル。
それは、俺でも見覚えのある、初代ザフィア王の著書だった。
「この本なら、俺も読んだことあるけど……これに暗号?」
「ああ。この図書館に保管されていた、この本にだけ、ちょっとした暗号が混ざってたんだ」
俺からその本を受け取った大賢者は、机に本を置くと一口、傍らにあった紅茶を傾けた。
「筆跡から見ても、恐らくザフィア本人が書き写したものだと思う。自分で暗号を仕込んだんだろう」
「で、その暗号って?」
「まだ半分くらいしか解けてないんだ。明日までには終わらせる」
「…………」
本を見つめる大賢者の真剣な表情を見ながら、俺は内心の複雑な気持ちを持て余していた。
大賢者と初代国王がとても親しい友人であった、というのは、この国の誰もが知る話だ。
実際、あの『ザフィアの魔術書』を見つけてからと言うもの、あの絶対引きこもりな大賢者が自ら王に交渉をし、更にはこんな村まで出張に出てくるほどに、魔術書の解読に積極的になっている。
きっとこの調査は、彼にとってそれほどに重要な意味のあること、なのだろう。
……なのだろうけれども。
「……なぁ、大賢者」
「うん?」
「その……調査が大事なのは、俺もよくわかってるんだけどさ……。もうちょっと、リリーと一緒にいることはできないのか?」
「…………」
「ほら、今日みたいに危ないこととかあるかもしれないし。勿論俺もちゃんと気をつけるけどさ、でも……もう少しだけでも、時間取ってやれないのか?」
すごく言い出しづらかったけれど、なんとか言葉にした。
大賢者は机の方を向いてしまっていて、こちらから見える横顔からはなにも表情が読み取れなかった。
その黒い瞳が、ただ静かに紅茶の表面を見つめている。
「ごめん」
ややあって返ってきた言葉は、もの凄く固い響きで、ぽつりと静寂に沁みを作った。
勢いのままに部屋に掛けこんで、ベッドに縋りしゃがみ込んだ。
肩で息をしながら、ぎゅっと目を閉じる。
「…………っ」
それでも、瞼の裏にはさっき見た2人の姿が焼き付いてしまっていた。
走って息切れしたせいなのか、このやっかいな気持ちのせいなのかわからないけれど、胸が苦しい。
ぎゅっとシャツの胸元がくしゃくしゃになるほどに強く握りしめて、早い呼吸を繰り返す。
真っ暗な部屋でひとり、どれくらいの時間そうしていただろうか。
ぐちゃぐちゃになっていた思考が、やがて自分の早い呼吸を認識して、整えようとする。
呼吸が整ってくると、今度は痛いほどに力を入れてしまっていた手を認識して、そっと力を緩める。
ここまでくると、まだ緩やかながらも身体の力が抜けていくのを感じた。
「…………」
ここは暗い、自分の部屋。
一緒に居たはずのアルトは、気配がない。
多分、さっきの……保管書庫の前で、置いてきてしまったのだろう。
それで良かったのかもしれない。
今は、ひとりになりたい気分なのだ。
のろのろと立ち上がって、スカートの皺を伸ばし、取り敢えずベッドの端に腰掛けた。
部屋の窓、カーテンの隙間から差し込む月明かりを見つめているうちに、冷静さが戻ってくる。
……さっきは、思わず逃げ出してしまったけれど。
保管書庫の中、焔さんと一緒にいたのは――紛れもなく、ヴィオラだった。
2人の姿を認めてすぐに、何も考えられなくなってしまって。
だから、2人が何を話していたのかもわからない。
……どうして私、あんな風に逃げちゃったんだろう。
別に、2人が何かを話していたってよかったじゃない。
前に彼女が現われた時、焔さんはヴィオラのことを嫌がっているみたいだったし、あのまま私が保管書庫に入っていったって怒られたりはしなかっただろう。
それなのに、私はあの場所から走り去ってしまった。
……ずきりと痛む、この胸の感覚は何。
背後に倒れ込むと、ベッドが軋みながら身体を受け止めてくれた。
質素な木組みの天井を見上げ、視界を覆うように、腕を翳す。
どうして逃げ出したのか、なんて。
……誰に聞かなくたって、本当は、わかってる。
あの人に――ヴィオラに、嫉妬したんだ。
焔さんと一緒にいる時間が欲しくて、でもなんだかんだと二の足を踏んでいる私……なのに、こんな深夜に、焔さんと2人でいた彼女。
羨ましくて、妬ましくて。
焔さんと一緒にいるところを見たくなくて、逃げ出したんだ。
扉の前にはライオット王子もいたけれど、入るのを躊躇しているようだった。
もしかしたら今も、2人で何かを話しているのかもしれない。
……私が知らない所で、今までもああして2人、会っていたのかもしれない。
そう考えると、きりりと胸が痛んだ。
彼自身はヴィオラのことを古い友人だと言っていたし、もしかしたら、あんな嫌々な態度を取っていても、それなりに仲の良い友人なのかもしれない。
焔さんが友人と会っていたというだけで、こんなに動揺してしまうなんて。
――私、いつの間に……こんなに焔さんの事が、好きになっていたの。
痛む胸を抱き込むようにして、ベッドの上、身体を丸める。
こんなことをしても、痛みはなくならないけれど。
それでも、こうしてしまっている。
部屋でひとり、こんなふうにしているんじゃなくて……保管書庫に行って、焔さんに話せばいい。
追い返されることなんてないだろう。
話したいことがあったんだから……そうだ、台所によって、紅茶も持って行けばきっと喜んでもらえるから……。
そう思うのに、心に反して身体はもう、指一本すら動かない。
複雑な気持ちを持て余して、どうしたらいいかもわからないまま、夜の静寂の中で――ただ自分を押し殺していることしかできなかった。




