108.君に選んで欲しい
翌朝、何もなかったように主従の関係に戻った。あれは雨の日の、ささやかな幻覚だ。互いにそう決めて、目配せひとつで日常へと戻っていく。ただ、変化はあった。
着替えたシャツに懐中時計を入れようと探した僕は、意味ありげに胸元を叩くニルスの仕草に失笑する。渡したことを忘れるなんて、僕らしくない。僕にはトリシャがいる、そう宣言したくせにね。
「今日の予定は、午前中の書類が30枚ほど。緊急のものはございません。午後は隣国の新王が挨拶に見えますが、姫様とのお茶の時間は確保しました。夕方までお時間を空けておりますので、夕食後に調査の報告書をお渡しいたします」
「わかった」
手早く着替える僕の後ろで、ニルスが上着を差し出す。いつもなら受け取って自分で袖を通すが、今日は黙って彼の出方を待った。ニルスは当然のように、僕の腕を袖に通して着せる。まるで毎日の日課だったように。互いに持つ傷に触れず、僕は朝食の席に着いた。
「おはようございます。エリク」
「トリシャ、今日も美しいね。おはよう」
美しい婚約者の手を取って口づけ、挨拶を交わす。彼女を席につかせ、微笑むトリシャの隣に腰掛けた。間に1人分の隙間を空けて。そうしないと食べさせるのに腕がぶつかってしまうからね。
「トリシャ、午後のお茶が終わったら一緒に宝石を選んでくれないか?」
もちろんトリシャのための宝飾品だ。贅沢を望まないのは知っているけど、頂点に立つ皇族は積極的にお金を使わないとね。徴収した税金を貯め込んでも、それは国を豊かにしない。散財するのは良くないが、皇族が豪華な装飾品やドレスを注文するのは義務に近かった。皇族が質素な格好をすれば、貴族はそれ以上の服や装飾品を購入しなくなる。平民はさらに質素になり、粗末と呼ぶレベルまで落ちると……国は緩やかに衰退を始めるのだ。
豪華な装飾品を作る技術者や職人が失われ、高度な技術が消えてしまう。僕達の散財は、国という組織を動かすための歯車であり、潤滑油だった。政を勉強した賢いトリシャもそれは理解している。だが自分が国を回す皇族に嫁ぐことが、まだ信じられないのだろう。
「僕も買うから、トリシャが選んで欲しい」
こういえば、あまり罪悪感がないだろう? 微笑んで待つ僕に、彼女は控えめに頷いた。それから手元のスプーンでスープを掬う。下にナプキンを添えて差し出された。
「お口を……」
素直に口を開けてスプーンが流し込んだポタージュを嚥下する。毒見は済んでいるが、もしまだだったとしても断る理由はなかった。トリシャが積極的に、自分から僕に食べさせるなんて。ふふっ、口元が緩んでしまう。少し唇の端に残ったスープを舐めとると、真っ赤な顔で俯いてしまった。お行儀が悪いけど、ナプキンで拭かなくて正解だったな。こんな可愛いトリシャが見られた。
「次は僕だね。あーん」
首や耳を真っ赤にしながら、トリシャが口を開けた。目を閉じるのは癖みたいだけど、そんなんじゃ悪い狼に齧られちゃうよ。スープを流して、閉じた唇の端を指先で拭う。それをぺろりと舐めた。
顔や目元まで真っ赤になったトリシャが、あたふたと逃げようとするのを捕まえる。
「だめだよ、まだ食事中でしょ?」
向かいで穏やかに微笑むニルスの横で、ソフィはそわそわしながら視線を逸らした。うん、女性の方が恥ずかしがり屋みたいだね。それとも帝国とステンマルクの習慣の差、かな?




