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8 心をつなげるのは、よくないことなんだ

挿絵は、NASAの画像で「地球」です。

 ここはどこだろう。朝乃はよく分からない場所に、ひとりでただよっていた。さっきまでドルーアに肩を抱かれて、彼の話を聞いていたのに。

 朝乃の近くには、これまたよく分からない壊れた機械がたくさん浮かんでいる。海の中にいるように、朝乃は壊れた機械と一緒に流されていた。ふしぎと不安はない。朝乃はぐるりと周囲を見回して、思わず息をのんだ。

(地球がある)

 丸くて大きな地球が、眼下に広がっている。青い海と白い雲が見える。陸地も見える。朝乃は地球を、写真やムービーでは見たことがある。だが実際に自分の目で見ると、すごく立体的で、迫力がある。

 朝乃は、地球周回軌道上にいるのだろう。壊れた機械、――スペースデブリとともに、地球の周りを回っている。遠くを見渡すと、宇宙ステーションと思われるものがいくつか見えた。

 これは夢だ。朝乃はタクシーの中で眠って、夢を見ているのだ。朝乃は納得して、のんびりと地球を眺めた。故郷の日本列島が見えた。裕也が今、暮らしている中国大陸も。地球を見るのは、楽しくて飽きない。すると背後から、声をかけられた。

「やぁ、朝乃。会うのは二回目だね」

 朝乃は驚いて振り返る。自分以外に人がいるとは思わなかった。朝乃はぷかぷかと浮きながら、自分に声をかけた人物を見た。

 白髪の温和そうなおじいさんだった。両目を細めて、にこにこしている。シックなストライプのスーツを着て、深紅のネクタイがおしゃれだ。

 左手には杖を持っている。足が不自由なのだろう。でも彼は、きちんと立っていた。この宇宙のどこに、足場があるのか分からないが。

 彼は誰だろう。朝乃は困った。会うのは二回目と言われたが、彼と会った覚えがない。けれど、どこかで顔を見た気はする。さらに彼は、親しげな笑みを浮かべている。となると朝乃が忘れただけで、やはり会うのは二回目なのか?

「ごめんなさい。あなたの名前が分からないです。教えてくれませんか?」

 朝乃は素直に話して、名前を問うた。彼は気を悪くせず答える。

「ヤン・ミンヤンだよ。裕也は私のことを、ミンヤンさんと呼ぶ。君も同じように呼べばいい」

 ミンヤンの名前に、朝乃は驚く。Sランクの有名な超能力者だ。しかしニュース記事の写真やムービーで見た彼は、もっと老いていた。こんなことを言うのは失礼だが、よぼよぼのおじいさんだった。ほとんど目が見えず、移動は車いすと書かれていた。

 朝乃が疑問に思っていると、ミンヤンは、ふふふと笑いだす。彼の黒の両目は、ちゃんと見えているように思えた。

「夢の中だから、若づくりしているのさ。自分の足で歩きたいしね。この服も、二十年くらい前のものだ」

 朝乃は、ミンヤンと前に会ったことを思い出す。彼はそのときも、夢の中だから二十年ほど若返っているとしゃべった。

「今、思い出しました。私は夢の中で、あなたと会うのは二回目です。前回は、裕也も一緒でした」

 月に来た最初の日に、朝乃は管理局へ向かう車内で寝ていた。そして夢の中で、ミンヤンと裕也と会ったのだ。何か重要なことがいろいろあったと思うが、ほとんど覚えていない。つい一週間ほど前のことなのに。ミンヤンはうなずいた。

「そのとおりだよ。前回、君と会ったとき、私は君と裕也の脳の一部をつなげた。その結果、君は英語を聞き取ったり読んだりできるようになった」

 そう言えば、そんなことをしてもらった気がする。

「ありがとうございます。英語が分かるようになって助かりました」

 もし英語が分らなかったら、もっと苦労しただろう。

「ただ、夢のことをあまり覚えていなくて、ごめんなさい」

「気にしなくていい。夢はたいてい忘れるものだ。あと、君の役に立ててうれしいよ。しかし、そろそろ君と裕也の脳を離さないといけない」

「え?」

 朝乃は目を丸くした。ミンヤンは苦笑する。

「本来、独立しているはずの脳、――心をつなげるのは、よくないことなんだ。君と裕也は、仲のいい双子だ。だから、心をつなげるという荒業ができた」

 彼は右手を、朝乃の方に伸ばした。真剣な表情になる。

「けれど仲よしの姉弟だからこそ、精神をつなげたままにしておけない。君たちが、同じことを考え、同じ行動をするひとりの人間になってしまう。本当は、それぞれちがった個性を持つ、ふたりの人間なのに」

 瞬間、強い風が朝乃に向かって吹く。朝乃は思わず目をつぶった。再び目を開けると、白銀の月をバックにして、ミンヤンがたたずんでいた。朝乃の周りをただよっていたスペースデブリはなくなっている。

「これで君の心は、誰の干渉も受けない。裕也の心もだ。たがいにちがうものを見て、ちがう人に恋するだろう」

 ミンヤンはほっとして、ほほ笑む。いいことを言われたはずなのに、なぜか朝乃は心もとなくなった。弟とのつながりが切れたような気分になる。ミンヤンは、なぐさめるように話した。

「君と裕也のつながりは、こんな程度では切れない。それに、いい加減、君たちの脳を離さないと、裕也が君に引きずられて、ドルーア・コリントに恋しそうでね」

 ミンヤンは本気で困っている。朝乃は顔を赤くした。弟に伝染するほど、朝乃の恋心は強いらしい。ミンヤンはまた柔らかくほほ笑んだ。

「それから、しばらくは英語が聞き取りにくいだろう。だが大丈夫だ。君はしっかりと勉強している。すぐにスムーズに会話できるようになる」

「はい」

 朝乃は、はいと返事したが、本音を言えば不安だった。でも、これでいいのだ。今まで、英語に関しては裕也の脳に頼っていたのだろう。弟に依存し続けるのは情けない。自分で勉強しないといけないのだ。もっとがんばろう。

 ミンヤンは朝乃を見つめ、静かにほほ笑んでいる。なぜだろう。彼のそばにいると、自分のすべてが肯定されている気持ちになる。彼はきっと、いつも朝乃を見守ってくれている。裕也のことも。弟は彼のもとで、心安らかに生活できているだろう。

「今、裕也は何をしているのですか?」

 朝乃はたずねた。次に周囲を見回す。朝乃の右手には地球がある。ミンヤンの背後には月。太陽はどこにあるのか、分からなかった。前回の夢では、裕也はミンヤンと現れた。なのに今回は、なぜいないのか。

「彼は二度と、君の夢に入らないよ」

 ミンヤンはきっぱりと口にする。朝乃は思いだした。

「そうですよね。裕也と約束したのに、忘れていました」

 朝乃は、はずかしくなって笑った。おととい、昼食のパスタを食べた後で、裕也は、朝乃の夢には二度と入らないと言ったのだ。そのとき弟は、青ざめたこわばった顔をしていた。彼が反省しているのが、よく分かった。

「あれ?」

 ふいに訪れたビジョンに、朝乃はとまどう。約一週間前の前回、夢の中に現れた裕也は、ミンヤンの背中に隠れていた。朝乃におびえていた。朝乃は裕也を見たとたん、恐怖のあまりさけんだ。

「ごめん。ごめん、朝乃」

 裕也は震えながら、頭を床にこすりつけて土下座した。弟はなぜ、そんな大仰なことをしたのか? 朝乃はなぜ、裕也を見て悲鳴を上げたのか? 朝乃はぞっとして、体を震わせる。思い出したくない。けれど脳裏に、真っ赤な血がよみがえる。

 痛みと苦しみと、生々しい血のにおい。もっとも信頼する人に裏切られた、悲しみと絶望。憎々しげにゆがめられた裕也の両目。無力で何もできない自分の手と、赤黒く染まっていく弟の右手。これ以上はなく、おぞましい記憶。朝乃は混乱し、頭を両手で抱えた。

「た、たた……」

 助けて、と言葉にならない。殺されたときの恐怖は今、完全によみがえった。殺された? いや、ちがう。あれは一年ほど前の、夢の中でのできごとだ。朝乃は死んでいない。今、生きている。

 しかし、裕也の憎しみや苦しみは本物だった。弟の手に握られた、鋭い銀色のナイフ。朝乃の体をえぐった刃物。恐ろしい光景に、朝乃の心は壊れそうになる。だがミンヤンが優しく、朝乃の肩に手を置いた。

「忘れなさい」

 彼の声は、朝乃の心の奥底まで届いた。一筋の光が天から降りてくるように。

「君に暴力をふるったのは、裕也の本意ではない。あれは彼にとっても恐ろしい、何よりも耐えがたい悪夢だった」



挿絵(By みてみん)

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