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3 月では、北極と南極にしか都市が存在しない

 一郎は自己紹介などを終えると、あ、そうだ、と口にする。

「あとで飲みものを持っていくと、ヨークに言っていたんだ」

 彼はあわてて立ちあがり、キッチンへ向かった。

「君とニューヨーク君は、昼食を取ったのか?」

 信士が心配そうに声をかける。

「移動中に食べた」

 キッチンの方から、声が返ってくる。

「そうか。ドルーアには、テーブルの上のアイスティーを持っていってくれ」

「がってん承知のすけ」

 一郎がふざけた返事をして、朝乃は反応に困った。信士はあきれる。

「日本語がうまくなったのは、いいことだ」

 一郎は盆の上にジュースやスナック菓子をのせて、リビングに戻ってきた。アイスティーも盆にのせて、自分の部屋にノックしてから入る。

 部屋の中は、どうなっているのだろう。特に物音は聞こえない。朝乃はドルーアが気になる。部屋に入りたい。しかし入室できたとしても、朝乃は部外者だが。そうだ、一郎と言えば……。朝乃は信士にたずねる。

「南北交流プログラムって何ですか?」

 さきほど一郎は、ニューヨークは南北交流プログラムで浮舟の大学に留学していると言った。初めて一郎と会ったときも、彼はそのプログラムについて話した。自分は、南北交流プログラムのボランティアをしていると。

「あぁ。月では、北極と南極にしか都市が存在しない。同じ極の都市同士は距離が近く、仲よくなりやすい。だが、ちがう極の都市同士はどうしても疎遠になる」

 よって月では、南極都市と北極都市の交流が意識して行われるのだ。それが南北交流プログラムだ。ちなみに南極の方が、星間戦争に否定的な都市が多い。浮舟も、そのひとつだ。

「今から約三十年前に、月面都市誕生百周年をきっかけに、南北交流プログラムは始まった。ニューヨーク君のような学生の留学や、スポーツ親善試合や音楽フェスティバルなどがある」

 信士の説明に、朝乃は納得した。古くからある、かなり大きなプロジェクトのようだ。南北交流プログラムについては、月に住む人ならほぼ全員が知っているのだろう。朝乃は今日、初めて知ったが。

 一郎が微妙な顔をして、リビングに戻ってくる。彼は座布団に座ると、うーんとうなった。

「ドルーアさんもヨークも、ぎこちないよ。誰か間に入った方が、いいんじゃないのかなぁ」

 彼は頼るように、信士を見る。信士に間に入ってほしいのだ。確かに、彼は頼りになる。ドルーアを助けてくれるだろう。朝乃も信士に期待したが、

「一郎、友人を心配する君の気持ちは分かる。しかし、それは余計なお世話かもしれない」

 信士がいさめる。一郎は口をへの字にした。自分の部屋の方を見て、ため息をつく。朝乃も気をもんで、部屋の方を見た。信士が朝乃に話しかけてきた。

「ドルーアとニューヨーク君の話しあいは、長くなるだろう。私がともにタクシーに乗って、君を家まで送ろう」

「ありがとうございます。ですが、私はドルーアさんを待ちます」

 朝乃は断った。信士に遠慮したのではなく、単なる恋心が理由だった。信士が嫌いなわけではないが、帰り道はドルーアとふたりの方がうれしい。それにドルーアが気になるので、彼を置いて帰りたくない。

「分かった」

 信士は、普段どおりの無表情で答える。一郎は困ったように頭をかいてから、信士に問いかけた。

「アイスクリームはまだ残っていたよね?」

「あったと思う」

 一郎は朝乃に笑いかける。

「じゃ、朝乃さん、キッチンにおいでよ。一緒にアイスクリームを食べよう」

「え?」

 驚く朝乃に構わずに、一郎は立ち上がってキッチンへ行った。朝乃は彼を追いかける。一郎は冷蔵庫の前に立って、冷凍室の扉を開けた。

「ストロベリーとバニラとチョコレートがある。どれがいい?」

 楽しげに聞いてくる。一郎は、ドルーアとニューヨークのことは気にやまないことにしたらしい。朝乃は、一郎の態度を見習うべきだろう。朝乃たちがやきもきしても、事態は何も変わらないのだから。

「ストロベリーがいいです。ありがとうございます」

 朝乃はほほ笑んだ。一郎はイチゴのカップを朝乃に手渡すと、自身はチョコレートを取った。

「信士さんと市庁舎に行っていたんだよね? 滞在許可証はもらえたの?」

「はい」

「よかったね。なら、次は学校探しかな?」

 一郎は食器棚からスプーンを二本取って、そのうちの一本を朝乃に渡す。

「私は、学校は……」

 朝乃は言葉をにごした。功と翠は、学校に通うことを勧めている。浮舟の高校に入り、卒業後は大学に進学したらどうだ、とも言っている。しかし朝乃は気が進まなかった。学校へ行くより、働いてお金を稼ぎたい。仕事は何でもいい。

(けれど学校で勉強できるなら、行った方がいいよね)

 学歴が高い方が将来、いい職につけるだろう。しかも亡命者の朝乃には、教育費がある程度、浮舟政府から支給されるのだ。

 だが朝乃は、学力に自信がない。中学校さえも卒業できていないのだ。高校の入学試験に合格し、さらに授業についていけると思えなかった。また浮舟の学校だから、授業は英語だろう。

 それに朝乃は日本で、孤児ということでひどいいじめにあっていた。陰口、悪口は当たり前、ちょっとすれちがうときにぶつかられるのも日常茶飯事だった。したがって、学校は怖くて嫌な場所だった。結局、朝乃は学校に関してはいい結論が出ず、悩んでばかりいた。

 一郎と朝乃はリビングへ戻り、座布団に座った。黙ってしまっている朝乃に、一郎は優しく笑いかける。

「朝乃さんは、いつ浮舟に来たんだっけ?」

「一週間ほど前です」

 朝乃は答えた。

「そっか。来たばかりか。そりゃ、学校や将来のことまで、まだ考えられないよね。――あぁ、遠慮せずに食べなよ。俺も食べるから」

 一郎はアイスクリームのふたを開けて、ぱくりと食べる。朝乃は、目からうろこが落ちた気分だ。彼の言うとおりだった。

 朝乃は月に来たばかりだ。ついさきほどまで、南北交流プログラムについても月面のハンバーガーについても知らなかった。だから学校に関して、結論がまだ出なくて当然だ。

「はい。いただきます」

 朝乃もアイスのふたを開けて食べた。とてもおいしい。信士が両目を柔らかく細めて、朝乃と一郎を見ている。一郎は食べながらしゃべる。

「学校に関しては、あせらずにゆっくり決めた方がいいよ。急いで決定したとしても、浮舟は四月から始まる学校が多いしね」

 朝乃は目をぱちくりした。今は六月だ。来年の四月に入学するとしても、半年以上もさきだ。悩んだり迷ったりする時間は、十分にある。

「学校と一言で言っても、いろいろなものがある。日本語で授業してくれる学校もあるし、学校にほとんど通わなくてもいい通信制のものもある。入試がない学校もある」

 一郎は説明を続ける。信士も会話に加わってきた。

「手に職をつけたいなら、専門学校もある。大学進学を目指すならば、予備校もある。君は浮舟に来たばかりだし、英語の語学学校もお勧めだ。たいていの学校は、学生のアルバイトを認めている」

 一郎と信士のせりふに、朝乃の心はぐらりと進学の方にかたむいた。学校に通っても、アルバイトで金を稼げる。学校によっては、入試や英語の心配もない。そして専門学校は就職に強そうだ。

 功と翠は、普通科の高校を勧めていた。普通科にこだわっているというよりは、それしか知らないという印象だった。なぜなら彼らは、二年前に浮舟に来たばかりだ。浮舟の学校について、よく知っているわけではない。

 対して、信士と一郎はくわしそうだ。信士は入国管理局の職員だし、一郎は今、まさに浮舟の学校に通っている。

「移民に対する差別やいじめも心配している?」

 一郎が遠慮がちにたずねてきた。朝乃は暗い気持ちで、うなずく。今日、市庁舎の前で、「移民受け入れ反対」と書かれた横断幕を持った人たちを見た。

「どの学校に行っても、たいていの人は親切だよ。ただまれに、こちらが移民というだけで嫌のことをしてくる人たちがいる」

 一郎は顔をしかめた。彼も移民という立場だ。一郎は学校でいじめを受けていたと、信士がタクシーの車内で話していた。

「もしも君がそういった被害にあったら、すぐに信士さんを頼ってほしい。君を必ず助けてくれるよ」

 一郎は、にかっと笑った。その顔には、信士に対する信頼があった。もちろん、朝乃も信士を信頼している。それに一郎が言ったように、たいていの人は親切なのだろう。朝乃の近所に住む人たちだって、そうだ。

「はい」

 朝乃は笑顔になった。信士は照れているようで、かすかにほおが赤かった。

「それから俺はボランティアで、児童養護施設で暮らす子どもたちの家庭教師もしている」

 意外な事実だった。朝乃も昔、ボランティアの大学生に孤児院で勉強を教えてもらったことがある。月に来て、同じ立場の人に出会うとは思わなかった。

「俺も多分、君の力になれる。遠慮せずに頼ってほしい」

 一郎は本当に、信士の息子だと感じた。親切で、頼もしく、助けになってくれる。一郎はうそをついてドルーアとニューヨークを会わせたが、これも友人を思ってのことだ。けっして利己的な理由ではない。

「ありがとうございます」

 朝乃は心から礼を述べて、一郎はうれしそうに笑った。

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